第16話 永田町②
「総理、お言葉かもしれませんが、今は先のことより人質の解放を最優先するべきではないでしょうか」
メディアに露出することの多い官房長官らしい発言だが、秘匿されているこの会合ではキレイごと過ぎる発言だった。この手のタイプはそれに終始するあまり、それに代わる代替案を用意していないことが多い。
そんな薄っぺらな発言の揚げ足を取るのは、野中の役目だと決まっていた。
「お主、ここは記録に残らん非公式の場なんじゃ、建前やキレイごとは時間の無駄じゃ、ワシらはな国の意思決定を司る中枢なんじゃ、その辺りをもっと自覚せい」
これまで難癖を付けるだけだった野中の言動の変化に、いち早く気付いたのは奥本だった。
「まるでアメリカ政府や国民への対面、そして次の総選挙のためなら、今回の人質の命がどうなっても仕方がないと言うようにも聞こえてくるんですが」
奥本が今日初めて、野中の顔を見て言った。
「いいや、私は決してそうは考えてはいないよ奥本君。だけど野中さんの言うことも否定はしない」首相の曽我部が言った。
奥本と別府にしてみれば、アメリカにも国民にも、次の総選挙にも納得できて尚且つ、人質も救出しようと言っているように聞こえるのだ。どこにでもいい顔ができる案などあるわけがない。
総理がこの問題をどこに着陸させたいのか若い2人が気付けるはずもなかった。しかしこの会合が実は、自分たちに何かとてつもなく危険な事態を呑み込ませるために仕組まれた集まりかも知れないと、2人はようやく気が付くことになる。
「総理、ひとつ私に考えがあるんですが」
そう言いだしたのは、これまでずっと黙していた法務大臣を務める勅使河原弘昌だった。勅使河原は当選回数も主要ポストの歴任も野中に引けを取らない。現内閣では野中と双璧をなす重鎮のひとりだった。
つい軽口を叩いてメディアに失言を引き出されてしまう野中とは違い、勅使河原は常に一歩後ろから大局を見据えているようなその印象から、影の総理と目されている人物であり、実際そういう一面もあると言うことを奥本と別府は知っている。
そして実は、この勅使河原と野中が昵懇の仲だと言う事実は、総理の曽我部しか知らないことだった。。
その勅使河原がこの場で披露した考えというのは、まるで絵空事のようなばかげた話だったのだ。しかも省庁内では密かに準備が進められていて、いつでも実行可能だと言うではないか。
それは確かに上手くいけば全てにおいて丸く収まるには違いないが、一度世間に露呈すれば現内閣が総辞職に追い込まれるどころか政権交代さえも十分にあり得るほどの危険を孕んでいる方法だった。更には国際世論からもかつての日本がそうだった軍国主義以上の恐ろしい思想が今も裏に潜んでいる証拠だと痛烈な批判に晒されるのは火を見るより明らかなことだ。
奥本と別府の若い2人は断固として反対に回る。
総理の曽我部は、若手2人と老人2人による喧々諤々の白熱した議論、いや口喧嘩のような応酬を、鷹揚な態度で見守っていた。
「総理も何とか仰ってください。勅使河原さんの言っていることはあまりにも荒唐無稽です」
顔色を赤くして訴える別府とは対照的に奥本は血の気の引いた顔色をして曽我部を見やる。
「まさか総理は最初からこの話をご承知だったんですか。野中さんも」
雰囲気からしてその通りだと先刻から気付いてはいたが、別府は聞かづにはいられなかった。自分でも気づかないうちに立ち上がっていた別府は崩れるようにソファーに背中を打ち付けて、ガッチリと撫でつけてあるオールバックの頭を掻きむしった。
この秘密会合が自分と奥本を巻き込むための茶番劇だったことは途中から気付いてはいたが、まさか話の中身がこんなことだったとは。
「別府に奥本」
普段は誰に対しても君付けか、さん付けで呼ぶはずの総理が人の名前を呼び捨てにした。
半ば取り乱していた奥本は、頭を抱えていた手指の隙間から総理の顔を覗き見る。すると曽我部は、スーツの胸ポケットから一本のペンを抜いた。そしてキャップを抜いた。そこに現れたのはUSBの差し込み口だった。ペンではなかったのだ。
「これはICレコーダーだ。今ここでの会話は全てこれに録音されている。これを君たちに預けておく」
曽我部は、ICレコーダーをテーブルに置いた。
「こ、これはどういう意味なんですか」
奥本と別府の声がほとんど重なっていた。野中と勅使河原は微動だにしない。この顛末さえも筋書きの一部なのだ。
「保険だよ。もし万が一、我々のやろうとしていることが世間に露呈してしまった時に備えるためだ。君たち2人はこのICレコーダーを証拠にして、反対したんだと訴えればいい。そしてこの我々の計画にはその後一切関わっていないと主張したまえ。その時は私たちのことは遠慮なく切り捨てろ」
総理はたった今、勅使河原法曹が述べたばかりの案をハッキリと我々の計画と言った。そのことからもこの集まりが最初から茶番劇だっとことは明らかだが、それは今しがた危惧したこの場の一蓮托生に奥本と別府を加えるための会合ではなく、逆の意味で裏付けをするための会合だったのだ。
総理のこの計らいに正直言って自分の気持ちが楽になっている奥本は自分自身に嫌悪感を抱いた。
「ただ、このICレコーダーを使わせるような事態は絶対に避けるつもりだ。これを使わないで済むんだったら、他の泥は我々3人でいくらでも被るつもりだ」
野中が突然大きな声で笑い出した。そして奥本の背中をバシッと叩いた。
「心配せんでも、ちょっとやそっとの泥じゃワシらの政治生命は絶たれんから安心しとけ、総理にしたってまだ若い、君らに総理の椅子を明け渡すつもりなどありゃあせんて」
あまりに強く背中を叩かれた奥本は瞬間的に身体が熱くなったが、この老人がこの場での茶番劇を終始けん引していたことや、勅使河原の案は防衛相が絡まないと成立しないところを見ると、陰でも老獪ぶりをさぞ発揮したのだろうと言うことは明らかで、どうやらこの政治家を評価し直す必要があると思い始めていた。
「私は、これを機会に引退させてもらいたいものだ」
勅使河原が珍しく野中の軽口に付き合った。
「うちの省じゃ、もう犠牲になった男がいるくらいだからな」
意味深な発言だった。まさか本当に命を落としたのではあるまいが、少なくとも省から更迭されたかあるいは職自体を失したのかも知れない。
「それは、うちも同じじゃろうな。泥はひとりでは被れんからの」
なんとも物騒な話を冗談めかして明るい顔で談笑でもするかのような老人どもと、この件の危険すぎる雰囲気を察知して神妙な面持ちで座している2人の若手が織り成すコントラストは、この計画が合わせ持つ両面の光を同時に表わしているように曽我部には見えた。
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