第14話 日本・道東刑務所⑥

「注目っ」

 工場担当のこの一言で騒がしい食堂内は一瞬にして静まり返った。懲役に対する訓示や連絡事項はいつもこうして行われる。

「連絡事項が一件ある、職業訓練の募集だ。今回は熊本中央刑務所の情報処理科。募集人員は10名。期間は半年間。興味のある者は明日の朝までに願い出てくるように、以上」

 話が終わればまた一瞬で食堂内の喧騒は戻ってくる。

「三富、何だ職業訓練ってのは?」

 三野は以前から気になっていたことを思い切って口にした。

 三富が両肘を付いて肋骨をテーブルに乗せるようにして、身を乗り出したのは、向かいに座ってるとはいえ80人からの喧騒に声が吞まれてしまうからだ。一日の中で懲役が自由に話せる時間は少ない。勢い喋り出す声も大きくなる。

「三野さん、それマジで言ってますか。職訓の募集なんて週に2回は来てるんですよ」

「あぁ、知ってるけどよ、今まで何となく聞き流してたんだ」

「って言うか説明するまでもないんですけど、申し込んで選ばれたら実施されている刑務所に移送されて、そこで職業訓練が受けられるんすよ」

「国家資格とか取れるのか?」

「もちろんです。職業訓練が終わったら元の刑務所に戻されます」

「戻ってこれるなら、いい気晴らしになるじゃねえか、よしっ!ちょっくら申し込んでみるかな」

 三富は顔の前で手刀にした手を大きく左右に振った。

「三野さん。全国の刑務所に募集が掛かって、選ばれるのはたったの10人ですよ。どんだけ倍率が高いと思ってんすか、懲役太郎の俺でも今まで職業訓練に選ばれた奴なんてほとんど見たことがないっすよ」

「だけど、申し込まなきゃ始まらねえじゃねえか」

 不意に三富は申し訳なさそうな顔を作ってみせる。

「すいません。三野さん、因みになんですけど、俺たちヤクザ者は対象外なんです」

「なんだよ、それを先に言えよ。半分その気になったじゃねえか」

 暴力団に加入しているというだけで、刑務所の更生プログラムに参加できないことは多い。反社の人間である以上は、更生する意志はないものとして判断されるのは致し方のないことで、その他にも他の受刑者の面倒を見るような作業に就くことも出来ない。同じ組織の者を優遇してしまうからだろう。その為、現役の暴力団員が炊事や洗濯、清掃、営繕工場に配役されることもない。ヤクザ者はあくまで生産工場に配役されるしかなく、そこで自分の犯した罪に科せられた刑罰を粛々と満期まで務め上げることになるのが運命といえた。

「そんなのは仮釈放だけにしといて欲しいよな」

 暴力団員は仮釈放の対象外であることが最たる特記事項なのだが、一日でも早い社会復帰を目指すヤクザ者は、離脱申請をすることもある。しかし満期釈放で出所することが暴力団としての不文律にもなっていると言える面から、最初から仮釈放を目指す者は、工場内でヤクザとしての名乗りを挙げないのが筋と言えた。加えて懲罰にでもなったら仮釈放の目がなくなる可能性が高くなることから、余計なトラブルに巻き込まれないように自重を強いられることにもなる。更に何がトラブルになるのか判らないので、言葉遣いひとつにも気を遣うことになる。その点で最初から満期釈放のつもりでいるヤクザ者にとって刑務所内で失うものは何もないといってよく、それは如実に言動に現れ、厄介なことに横柄な態度で振舞う者が少なくないのも事実である。


 やがて食堂内の喧騒が再び静かになったのは、昼のニュース番組のせいだった。

 画質の荒い動画投稿サイトの映像には、覆面を被った男がライフルの銃口を向けながら、拘束されて跪いている男に何かを訴えている動画が流れていた。

「人質が日本人ですね」

 ライフルの男の訴えが、日本語に訳されたテロップで流れている。どうやら日本政府に身代金を要求しているようだ。日本政府はテロには屈しないと広く人口に膾炙されているのは、塀の中も同じで、同胞の危機には違いないが、人質にされている日本人が解放でもされない限り、助かる見込みはないと誰もが周知の事実と理解していた。更に懲役にとっては塀の外のことでもある。無責任な彼らは競うようにして顎を回し始める。

「日本政府が金なんか出すわけねえよ。アホじゃねえのかこいつら」

「自業自得だ。アホなのは捕まった方だろ」

「でもいくらイスラム国だからって、日本人のことは殺さねえだろ。万が一殺しでもしたら国際社会を敵に回すことになるんだぜ」

「俺たち懲役がこいつらと戦って人質を取り戻して来たら仮釈放って言われたら行くか?」

 タラレバで盛り上がってしまうのは、実現不可能だと解っているからで、”もしそんなことにでもなっらコンペ”に食いつくるウケ狙いの懲役は多い。

「俺だったら行くね。一度でいいから機関銃を撃ちまくりてぇ〜、ついでに気に食わねえ奴らもどさくさに間切れてドンドン撃っちまうけどな」

 これはあくまで冗談であったが、冗談にかこつけて、気に食わねえのはお前だよと言わんばかりに意中の人間に鋭い視線を投げたのは、榊原という現役のヤクザ者だった。それはほんの一瞬だったが、その視線の意味を周囲は理解して含み笑いを浮かべ合った。その対象者が誰だかみんな分かっているのである。少し離れた席に座っているその意中の人物は三浦という男で、気付かれる距離ではないはずだった。

 食堂内の喧騒はマックス状態で止まる気配はない。このため離れたテーブル同士では往々にしてよくこんなことが起こるっている。

 2人の間には、これ迄にも何度か諍いがあった。例によってヤクマチを言った言わないの水掛け論である。担当の職員を間に挟んで事なきを得たこともあるが、仲良くなるのは一時的で、榊原から言わせると、三浦と言う男の人間性が以前から引っ掛かっているのである。だからしこりは残る。娑婆であれば接触することのない部類の人間も知れないが、何かも一緒くたにされる刑務所では、嫌悪感しか覚えることのできない人間が工場の隣の席にやって来も珍しいことではなかった。。

 榊原が嘲るような笑い声を上げていれば、三浦はまた自分のことを言っているのではないかと疑心暗鬼になって聞き耳を立てる。周囲の人間の含み笑いと自分に向けられた複数の視線が、決定的な裏付けとして心の中に残る。それに加えて満期まで3カ月を切っていたことが、怒りを爆発させる一因になった。意を決した三浦は席から立ち上がってテーブルの上を最短で駆け抜けて、榊原に飛び掛かかっていった。

 実は三浦も現役の暴力団員で年齢は60歳をとうに越えていたが、これ以上影でバカにされているのは納得がいかなかった。さらにこのままにしておくのは昔の武勇伝を語り過ぎたことによって周囲に対して作り上げたイケイケの自分の象とはかけ離れたものになってしまう焦燥があった。それでも自分が人に笑われているのはどうでもいい、しかし周囲から口だけの男、あるいは過去のイケイケ武勇伝が嘘だと思われるのは納得がいかなかった。

 刑務所での殴り合いは、最初の一撃が肝心なのだ。その瞬間に非常ベルが鳴り響きあっと言う間に刑務官が大挙してなだれ込んでくるのである。その点だけにおいては、何もかもかなぐり捨てて飛び掛かった三浦の行動は正解といえた。三浦の飛び蹴りは驚愕の表情を貼り付けた榊原の顔面にクリーンヒットしたのだ。2人は他の者たちの椅子をなぎ倒して倒れ込んだ。こうして起きてしまったトラブルに加勢することはおろか当事者の身体に触れた部外者は理由の如何に拘らず連行されてしまう。その為、周囲はパイプ椅子ごと倒れ込んだ2人を中心にしてあっと言う間に直径3メートルの輪ができてしまった。

 非常ベルのボタンを押した工場担当が、尚も掴み合って歯を食い縛り握った拳をこれ以上使わせないように2人の間に割って入っる。その方法たるや荒っぽいやり方で顔面に蹴りを食らった榊原は安全靴を履いた刑務官の足で喉元を踏みつけられ、老骨に鞭を打って飛び蹴りを放った三浦は、片腕を背中にねじ上げられつつ背後からチョークスリーパーを仕掛けられた。しかし興奮した2人の男を1人で押さえつけるのは簡単ではない。

「お前たちも2人を押さえろ」

 やもう得ない選択だった。遠巻きに眺めていた懲役たちは刑務官の指示ならばと、ここぞとばかりに一斉に抑えにかかった。

 その直後に食堂にいる懲役の数を軽く越える数の刑務官が食堂の中へ、次から次へと雪崩れ込んできては、ぐちゃぐちゃになっている現場を見て怒鳴り声を上げる。食堂内は騒然とし、且つ揉みくちゃになった。

 工場担当が上司に必死で事情を説明する。

 どさくさに間切れて、発端になった2人は俯せに抑え込まれ無抵抗の状態で刑務官らに殴る蹴るの暴行を加えられている。かつてはこのどさくさに命を失った懲役もごまんといるが、大挙して乗り込んで来るのは、確信犯で起きる不足の事態をうやむやにする名残なのかも知れない。現場に一番乗りした刑務官には、食券が配られていたとも言われている。

 やがて両腕を後ろから吊り上げられた2人は苦痛の呻きを漏らしながら独居房へと引きずられて行った。その後ろをハンディカムのファインダーを覗き込んでいる刑務官が追っていくと食堂の喧騒は収まって行く。

 点けっぱなしのテレビは場違いな洗剤のコマーシャルを垂れ流していた。

 満期3か月前。それは希望ヘの光がようやく自分の足元を照らしだしたのを肌で実感する時期となる。出所に向けて髪を伸ばすことを許可をされる。心なしかそれまで厳しい態度だった刑務官の接し方が変わって来る。懲役仁義は給与される甘い食べ物は仲の良い同囚に捧げるのが習わしだ。今まで話したこともなかった懲役が馴れ馴れしく近付いて来るのは娑婆に秘密の伝言を頼みたいからだ。

 周囲のそうした変化を勘違いして、横柄になる愚か者もいる。

 そうした満期風を吹かしている者は、ほっとくに限るのだが、往々にしてこんな事件が起こるのが刑務所なのである。

 因みに最初に顔面への一撃で夥しい出血をさせてしまった三浦は、暴行の容疑で事件送致になり刑期を6か月増やすことになった。

 やる時は、相手に出血をさせてはいけない、というのは懲役においては常識の範疇である。

 三富はくれぐれもそんなことにならないように、もしその時は自分が飛びますと三野に言って聞かせた。

 三野は鼻で笑った。それよりも最初に蹴りを入れられた榊原のことを三野はよくっしていた。2人はこの刑務所の中で二度と顔を合わせることはなくなるが、榊原という男がこのままで終わらせるはずがない。榊原という男がそういう男だと言うことを三野はよく知っていたのだ。

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