第10話 日本・道東刑務所③

「小林、お前さん昨日、阿久井のオッサンと一緒になって、うちの三野さんのヤクマチ切っとったそうやの」

 昼食後の休憩時間で小林はあからさまにギョッとしたように見えた。

「いえいえいえいえ、三富さん。俺はヤクマチなんて切ってないっすよ。そんなとんでもない」

 小林は何度も何度も顔の前で手刀を切って全力で否定した。頭の中では昨日の阿久井との会話が自動再生されている。反射的に否定したのは、あれはあくまで自分が言ったからじゃないと確信しているからだったが、最後に阿久井の方から「もし三野が俺のヤクマチを切っていたら教えてや」と言われたのを思い出して小林は薄っすらと血の気が引きつつあった。

 加えて小林は懲役太郎でもあるにも拘らず、「ヤクマチ」という懲役特有の隠語の意味をよく知らなかった。

 阿久井からそれを言われて「わかりました」と応えたのは、ヤクザになれと勧めておきながら、小林が既に三野にお伺いを立てていると知るや一転して、今度はヤクザになんかなるなと熱く語りだしてしまう支離滅裂ぶりに怖気を感じ、その場から逃れるための方便に過ぎなかったのだ。

 状況から見てヤクマチとは、陰口のこととしか考えられなかった。

 しかし昨日の今日で、どうして自分たちが三野さんのことを話していたのを知ったのだろう。まさか阿久井が自分のことを売ったのだろうか、それにしたって自分は話を聞いていただけなのに。

 顔を引き攣らせて全力で否定している自分は、客観的に見て黒としか思えないではないか。俺は無実じゃないかも知れないが無罪だ。

 周囲に小林を助けようとする者はいない。助けられるはずもない。どいつも憐れみや嘲りを内に隠して知らん顔をしているに違いない。

「すっとぼけてると、工場におれなくするぞ!わかってんのかテメェ」

「勘弁してくださいよ、三富さん。だいたい俺、阿久井さんからヤクマチって言われても何のことかよく知らなかったんすよ」

 思わず口走ったのは阿久井に対しての反発もあった。ヤクマチの意味を知っていれば、わかりましたなんて安請け合いなんかはしなかったはずだ。

「あ~ん、知らなかっただぁ、テメェ俺のこと舐めてんのか」

 拳を握る三富の額に青筋が浮く。

「ちょっと待てよ富、こいつ今おかしなこと言ったよな」

 横から口を出してきたのは元折賀瀬組系の大森という男だった。仮釈で出所したらすぐに組に復帰するつもりでいる元暴力団員は多い。

「小林、お前ヤクマチって最初にどこで聞いたんだよ」

 得意の暴力に訴えることが出来ない環境における反社会組織人たちの狂気は必然的に言葉の語彙や揚げ足取りに集約される。刑事施設では暴力よりも弁が立つ方が強い。言葉の自在が面子を助けると言ってもいい。

 従って言葉尻の捉え方。捻じ曲げ。すり替え。揚げ足。追っ付け。論破はヤクザの得意とする所だ。その気になればディスカッションはお手のものに違いない。どんな不利な状況下でも必ず何かを勝ち取って戻って来る。加えて押しの強さも兼ね備えている。そんな三富と大森に詰めらた小林は、ひとたまりもなく昨日の阿久井との一部始終を喋らされてしまった。ただし”三野がヤクマチを切っていたら教えろ”と言う部分だけは、三野の二文字を”誰かが”に替えて言ったのは、阿久井のことをギリギリで守ったのではなくて、三富と三迫の恫喝に近い詰問に気圧されて言い出せなかったのが正直なところだった。

 小林が詰められているのも知らずに、阿久井の馬鹿笑いが食堂内に響いていた。


 次の日の運動の時間、小林は人目を避けるように1人でグラウンドをジョギングしていた。ベンチでは三野をはじめとする折賀瀬の顔ぶれが揃って何やら話をしている。いつもの光景だが昨日のことを鑑みると穏やかに談笑しているようには見えなかった。

 小林のジョギングより数段速いペースで横を抜けて行った2人組のうちの1人が小林を一瞥して行った。恐らく一昨日のヤクマチの件をリークしたのはこいつに違いないと思った。

 上空に浮かぶジェット機が馬鹿にしたように爆音を残して飛んで行く。きっとあの飛行機の中には、こんなことで頭を悩ませている人間がいるなんて、思ってもいないだろう


「阿久井さん、ちょっといいですかね」

 用便を済ませて便所から出て来た阿久井を呼び止めた三野は、そのままベンチへと促した。周囲は示し合わせたように2人から離れて行く。

「阿久井さん」三野はおもむろに話し出した。「俺は刑務所は初めてだからよく判らない所もあるんで、ひとつ教えてもらいたいことがありましてね」

 三野の鷹揚な態度は年齢以上の落ち着きと貫録を感じさせる。一方の阿久井の方はどこか落ち着きがない。それでも端から見ると2人はグラウンドを走っている連中を眺めているようにしか見えない。監視についている刑務官はグラウンドが一望できるところから全体を俯瞰している。

「俺たち懲役が密告ちんころに対して敏感なのはヤクザ者も堅気も関係ないですよね。人としての信用問題にも関わってくる」

 三野は阿久井の横顔を覗き見た。阿久井もそんなことは当然とばかりに三野の視線を受け止める。

「そんな密告するような人間はこの工場にはいないと思っていたんですがね。どうやら勘違いをしている野郎がいるらしいんです」

「私は心当たりがありませんが、いるとしたら放って置くわけにはいきませんな」

 阿久井は幾分か落ち着きを取り戻していた。そして「ううん」と唸りながらグラウンドに散っている受刑者の面々を検分するかのように睨み付ける。まるで神通力を駆使して本気で密告野郎を挙げようとしてでもいるかのような勢いだ。

「実はその野郎がね、自分のヤクマチを切っている奴がいたら教えてくれって言い回ってるそうなんですよ」

「えっ」

 三野は狼狽する阿久井を気にもとめずに先を続ける。

「そんなことを言われた方はたまりませんよ。なにしろ密告を強要されたんですからね。言われたときは安請け合いしても、あとから気が付くんですよ。厄介なことを引き受けたってね」

 三野は再び阿久井の顔をチラリと覗き込む。阿久井は平静を装ってはいるものの口元は歪み首筋には汗が滲み出している。

「そんな困ってる人間が何人かいましてね、うちの連中は怒り心頭ですよ。中には飛ぶなんて言ってる馬鹿もいる始末です」

 飛ぶというのは、殴りかかると言うことである。懲役にとっては最終手段に訴えると言うことだ。

「当然、そんなこと言ってる奴は誰だってことになるんですが、みんな揃って口を閉じるんですよね。それだって密告ですからね。加えてこないだの娑婆でトラックが突っ込んだ事件があったでしょ、あの事件、実はうちの三迫の所の組だったんです。あれが原因でピリピリしてんだか、三迫がそのヤクマチ野郎を見付けだしてブッ締めるなんて息巻くもんだから抑えるのに大変で参りますよ。こんな時はどうしたらいいんですかね、阿久井さん」

 三野は顔だけじゃなく上半身を阿久井に向ける。

 相手を突き刺すような三野のその眼力を跳ね返すだけの器量を阿久井は持ち合わせていなかった。ヤクザとして己の資質を思い知らされる。この間がとてつもなく重く長く感じられた。しかしそれはほんの束の間でしかなかった。次の瞬間、三野はいかな感情かも読み取ることの出来ない、何とも言えない眼差しで阿久井を見て、よろくしと言った。

 阿久井の拍動は不規則に乱れ、それが全身を小刻みにわななかせていた。ヤクザとしてのプライドが、それを悟られないようにするのが精一杯で、三野がこのあとに何を言い残して、この場から立ち去ったのかさえ判然としなかった。

 阿久井はその後もしばらくじっとしていた。流れ落ちた大粒の汗が地面に黒いシミを作っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る