第9話 日本・道東刑務所②
「今の時代、ヤクザなんかになるもんじゃねえ」
若い衆にしてくれと志願してくる者に三野はいつもこう答えている。
「娑婆に出て、どうしても食えなくなった時は連絡して来い、仕事なら世話してやる」
なんて付け加えるものだから、誰もが慕うのは肩書に魅せられるのではなくて、人柄がそうさせていると言えた。
「若造が調子に乗りやがって」
とは言葉にはしないが、三野がこの工場に配役されて来る前までは、この工場の顔役だったと自負している阿久井隆雅(48)は別のテーブルから僅かに見える三野の坊主頭を睨み付けていた。
規則違反が発覚すれば懲罰。それは懲罰を恐れないヤクザにとっても慣れしたんだ工場から引き抜かれ、別の工場でイチからやり直しを余儀なくされることから、実際は望むところではない。
ならば規則違反などしなければいいと言うことになるが規則違反にはケンカ事案等も含まれる。売られた喧嘩だったとしても双方とも工場から引き上げられて二度と同じ工場には戻って来ることは出来ない。例えば覚えのない言いがかりによる口論でも喧嘩事案と見なされてしまう場合がる。従って工場から上げてしまうのはその場を現認する刑務官次第と言う面もあるが、ひと癖もふた癖もある犯罪者がひしめき合う日常で争いがない日は皆無と言ってよく、受刑中に1箇所の工場で就業を続けるには、とにかく自重することが求められる。しかし彼らは、社会の規則を守れなかったから刑務所に入れられたのである。
刑務所の中で日々面白おかしく過ごすには、いかに上手に規律違反をするかにかかっていると考えている者も多い。加えて作業中、隣の者に喋り掛けるのも、作業の手元から一瞬でも目を離すのも立派な作業安全義務違反となる。すべて懲罰の対象事案で担当の気分次第で上げようと思えばいつでも上げることができてしまうのだ。更にこれを逆手に取って自分は遠いところから諍いが生じるように画策して、意中の人物を工場から追い出そうとする者まで現れる。
阿久井は関東では老舗といわれる組織の三次団体の幹部だった。工場内に同じ組織系統の仲間はいないがキャリアで培った顔の広さは懲役でも随一で、三野が配役されて来るまでは、自他ともに認める工場の仕切り役だった。
ヤクザは何よりも面子と言うものを一番に重んじるのは刑務所の中でも変わらない。
組織の面子。ヤクザとしての面子。親分の面子。兄貴分の面子。いついかなる時も面子がつき纏う。面子で凌いで飯を食い、面子が抗争の引き金を引く。彼らにとって面子はと存在を証明する証なのだが、時には実体のないその概念の取り扱いを誤ると命取りになることもある。
グラウンドから見上げる空は、都会では拝むことの出来ない鮮やかな空を背景に小高い山が連なっているのが見える。あの生い茂る緑が酸素を作り出しているということを、子供の頃に教わったのを鼻孔をくすぐる山の匂いが思い出させてくれる。
遥か彼方を飛んでいる飛行機。まるで違う方角から後を追うようにジェットエンジンの爆音が微かに響いている。
空にかざした手の指先から、飛行機が顔を出した。
「何しとんねん」
小林幸雄(33)が我に返って振り返ると、そこには阿久井がニヤニヤと笑っていた。前歯が妙に黄色かった。娑婆ではヘビースモーカーだったに違いない。
「いやぁ、あの飛行機はどこに向かっているのかなぁ、なんて」
小林は直射日光の眩しさに目を細めながら言った。
「あれは羽田に向かってるんとちゃうか、そのうち俺たちもあれに乗れる日が来るわ」
阿久井は小林が横浜出身だと言うことを知っていた。
2人はそのままなんとなく並んで歩き出した。
1周400メートル弱のトラックをランニングしている一団が2人を追い越して行く。グラウンドをウォーキングする際は2名以上で固まって歩くのは禁止とされているため、運動の時間と言ってもベンチに座って雑談しているよりも話の内容は、より親密になる。
「小林君は、これで何回目や」
他人の刑務所の入所回数を訊くのは刑務所では挨拶代わりみたいなものだ。
「今回で4回目っす」
小林は33歳にしては少し多い回数だと自覚していて、少し恥じたように上目遣いで年長の阿久井を覗き見た。
「なんや、まだ若いのに随分やな」
小林は、ずっと入りっぱなしですと、自虐めいた仕草で頭を掻いた。
「まぁ、わしも11回目やけどな」
と言い放った阿久井は、お天道様に向かって笑い飛ばした。
「それで、小林君は満期はいつになるんや」これも挨拶のうちに入る。
因みに、犯した事件の内容について訊くのは、その限りではない。
「再来年の10月です」
「ふうん、まだしばらくあるんやな。そいで出所したらどないすんねん」
出所後の身の振り方をどうするかと言う会話も懲役同士としてはごく自然の流れである。例えば病院内で入院患者同士が自分の病気を自慢し合うのと似たような心理だ。
「いやぁ、それなんですけど、どうしようかなと思ってんすよ。大学出てから、この10年近く、ずっと出たり入ったりなんで、親にも愛想を尽かされて手紙も返ってこないし、それにどこにいっても前科者の就職は厳しいっすからね」
阿久井にしてみれば予想できる反応だった。
「なら、腹括ってヤクザにでもなるか」
足元を見ながら歩いてた小林が顔を上げた。
「はいっ俺もそう思っていたんですよ」
阿久津は満足げに胸を張った。頭の片隅から事務所のTEL番号を引っ張り出した。それを判りやすいロゴで覚えさせる腹積りでいた。
「そう思って、こないだお願いしに行ったんですよ」
「何っ、だれに言いに行ったんや」阿久井は思わず声を裏返した。
「三野さんに決まってるじゃないですか、あの人のところならと思ってお願いしに行ったんですけどね、そしたら断られちゃって」
小林はまた頭を掻いた。
「だけど仕事なら紹介してくれるって言ってくれたんです。でも頑張って仕事してたら、そのうち若い衆にしれくれますよね」
そう言って小林が視線を合わせてくる。小林の左の耳と同じ大きさに見えている、三野の姿がチラリと阿久井の視界に入った。三野はベンチで他の懲役と談笑していた。
阿久井は自分の血圧が上昇していくのがわかる。
「あのなあ、三野君はまだ若いやろ、いくら組織内で貫目が高いいうて若い衆の面倒を見る器量があるとは限らんのや、面倒なことは若い衆に押しつけるもんだから、毎度若い衆が逃げ出しておらんようになるんや折賀瀬ちゅうとこはな。やっこさんもそれが解っているから若い衆をとっとらんのんとちゃうか、行っても自分だけが絶対に辛い思いをするで、その点わしの……」
「なら尚のことですよ。一緒に苦労して三野さんがもっと出世してくれたら俺は本望です」
「馬鹿野郎っ!」
阿久井は自分の出した大きな声に一瞬怯んだが、怒りが恥じる気持ちを凌駕していた。トラックを走る2人組が訝しい顔を見合わせて走り抜けて行った。
阿久井は呆然とする小林の肩を掴んだ。
「お前なぁ、何言うとんじゃ今の時代、ヤクザなんかになるもんちゃうで、失うもんが多過ぎる。銀行の口座はよう作れんようになるし自分名義で部屋も借りれんのやで、それにその年じゃもう遅いわ。何歳も年下の者に毎日怒鳴り散らされて、顎でこき使われるんやで、そんなんに耐えられんやろ、やめとけ、やめとけ」
阿久井は埃でも払うかのような、その手振りは小林の耳に見え隠れする三野の姿を捕らえていた。
あのガキそのうちこの工場から、追い出したるわ。
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