第25話 除霊課

 久し振りの雨だった。老婆をおぶった男性が入口の傘立てに傘を納め、フロントにやって来た。いつものようにフロント前のソファアで遊んでいる梨咲がその男性に聞いた。

「オジちゃんにオンブしている人…誰?」

 梨咲の言葉に驚いた客に、香奈枝は恐縮した。

「すみません! 梨咲ちゃん、お客様におかしなことを言うのはやめなさい! この子、お客様を驚かすのを覚えちゃったみたいで。申し訳ありません! くぬぎちゃん、梨咲を本館に連れてってもらえる?」

 くぬぎは梨咲を連れて本館に向かった。梨咲は出口のところで振り向いてバイバイした。視線の先はその客ではなく、その客・奥寺靖の背中にオンブした老婆にである。

「あの…」

「はい」

「私の背中に…誰か居ますか?」

「え !? 」

 香奈枝は奥寺の質問に困った。

「実は、私にオンブしているのは、私の母だと思うんです」

 奥寺にオンブした女は、実は香奈枝にも見えていた。その女は香奈枝に視線を向け、微笑んでお辞儀をした。香奈枝は奥寺に気付かれないように、その女に僅かな一礼で応えた。姉の娘の梨咲を手に掛けて以来、見えなかったものが香奈枝にも時々見えるようになっていた。愛絆の件然り、自分の娘の梨咲の言う事はいつもそのとおりなのだが、周囲には敢えて気付かぬふりをしているしかなかった。

「私にはそういう類のことは見えませんが、何か思い当たることとかお有りなんですか?」

「父の他界で病弱な母は、兄夫婦の扶養を受けていたんですが、そのお嫁さんとあまりに反りが合わなくて、私のもとに逃げて来たんです。以来、私は結婚もままならず、ひとり身のまま母を看取りました。だから、あの子に “オジちゃんにオンブしている人…誰?” って聞かれて、すぐに、それはきっと母だと思いました」

「奥寺さんはきっとお優しいんですね。だからお母さんも離れたくなかったんじゃないんでしょうか?」

 奥寺の目にじんわりと涙が滲んだ。

「生前は母のことを何度もうざったいと思ったことがあります。介護が必要になってから、それが日増しに強くなっていきました。私には未来も自由がなくて…でも、いざ亡くなってみると、そんな不満を持って申し訳なかったと思うんですが…だからといって、反省をする自分にも腹が立つんです。結局、私は親離れ出来なかったんですから」

「でも、こうして最期までお母さまを看取った奥寺さんは立派だと思います」

「そう言っていただけると、気が休まります」

 手続きを終えて遺体を預けた奥寺は、母親の霊をオンブしたままフロントを後にした。


 事務室に戻ったまま考え込んでいる香奈枝を不審に思い、徹人は声を掛けた。

「どうかした?」

「…どうなんだろう?」

 香奈枝の漠然とした話し掛けに、徹人は返答に困った。

「何が?」

「梨咲の様子を見てどう思う?」

「ああ…そうね、正直、時々別の人に…何かが見えてるような…うまく言えない」

「多分、私と同じ印象かもしれないわね。愛絆ちゃんが生まれる前から、まるで傍に愛絆ちゃんがいるみたいに遊んでた。愛絆ちゃんという名前にしたって、生まれる前から、いや、忠哉くんと鞠江さんの結婚が決まる前から…」

「愛絆ちゃんという命名も、ふたりが梨咲の希望に応えてくれたんだよね」

「他にも時々、私たちに見えないものが見えてるみたいで…」

 それは嘘だった。香奈枝にも見えないものが見えている時がある。

「梨咲の一番の理解者は鞠江さんのような気がする」

「じゃ、彼女にも梨咲に見えているものが見えてるのかな?」

「そんな気がする…そう言えば、今日見えたフロントのお客さんに梨咲が突然ソファアでの遊びを止めて聞くのよ。“オジちゃんにオンブしている人…誰?” って」

「お客さん、気分を害さなかった?」

「それが違うのよ。そのお客さん、驚きもしないで私にまじめに聞くのよ。“私の背中に…誰か居ますか?” って。思い当たることがあったみたいで納得して帰って行ったわ」

「ここに見える方は誰もが何かしらの事情を抱えているからね」

「徹人さんには笑われるかもしれないけど、お客さんが寂しげに帰る後ろ姿を見て、除霊をする部門とか設けたほうがいいのかなって思うこともあるのよね」

「香奈枝にもその人の背中に何か見えたのか !? 」

 香奈枝は思わず “そうなの!” と答えそうになって激しくかぶりを振った。

「…まさか」

「 『除霊課』…か、いいかもしれないね」

「そう !? 」

「鞠江さんに相談してみるか」

「鞠江さんには私が相談してみる。徹人さんは鈴乃さんに相談してもらいたい。除霊の場合はここまでご足労願わなければならないから」

 細やかな規模ではあるが、香奈枝と鞠江が担当する『除霊課』が新設された。相談役になってもらった鈴乃の助言で、遺体安置室の各ドアの上にさり気なく “死霊浄化護符” のプレートが取り付けられた。

「鈴乃おばちゃんはどうしてあんな格好してるの?」

 鈴乃が居るわけでもない。しかし香奈枝と鞠江と梨咲の三人は、そこに鈴乃が居るかのような会話をし始めていた。

「今日はこの建物のお掃除なの」

 そう言いながら香奈枝はロビーテーブルに淹れたての桜茶を置くと、丁度別館入口に法衣を纏った鈴乃が現れた。鈴乃は真っ直ぐ桜茶のある椅子に座り、美味しそうに啜ってから溜息を吐いた。

「こんなにごった返しているとは思わなかった」

 人が死ぬとその肉体から霊魂が離れ、49日間、家に留まるといわれている。そのため葬儀の出棺では仮門を造り、そこから棺を出した後にその仮門を破棄して、死者にはどこから家を出たか分からないように野辺送りをする。死者を埋葬したのち、死霊が後を付いて来れないよう野辺送りの行きと帰りの道を違える慣習もある。しかし、現世に恨みを残して亡くなった場合は特に、手厚く祀る人がいない霊は祟ると考えられ、親籍縁者が供養し続けるのはそうした祟りから身を護るためとされる。そのことによって死者の霊は次第に死穢しえを脱し、浄化された祖霊の仲間入りをし、子孫を守護する存在になるとされる。そして、死後33~50年経つと死者は神のように崇められるに至る。

 しかし、現代の家屋では野辺送りに相応しい状況にはない。また人々の信仰心の枯渇は供養すら危ぶまれる。そのため死者の霊が祖霊化する壁は厚く、見えないものが縦横無尽に彷徨える時代にある。鈴乃は仏道にある火葬技師であるため、粗末に放られた迷える霊の祖霊化の一役も担っていた。

「あなたたちも見えちゃうのね、お気の毒に」

 そう言ってまた桜茶を啜り、ロビーをさ迷う霊を目で追った。

「気にはなっていたのよね」

「あの知らない人たちはどうしてここに居るの?」

 梨咲の素朴な質問だった。

「帰るところを一所懸命探してるのよ。生きながらにして彷徨える人を見たことあるでしょ?」

「生きながらにして !? 記憶喪失とか?」

「認知症の症状よ。“認知症になると本人は何もかも分からなくなっていいわね”って言う人がいるけど、それは大間違い。意識はしっかりしてるのよ。自尊心だって羞恥心だってある。ただ、突然、記憶から消えたものがある。ドアの開け方、身支度の仕方、トイレの使い方、食べ方…今まで普通に出来ていた日常のことが思い出せなくてショックを受けて苦しんでいるの。そういう自分をガミガミ責め立てる人がいたら堪ったもんじゃないわよね。だからそこから脱出して “安全出来る自分の住んでいた家” に帰ろうとするけど、どうしても見つからないのね」

 鈴乃は梨咲に向き直った。

「生きてる人には帰るとこを教えてやれないけど、亡くなった人には教えてあげられるのよ。鈴乃おばちゃんはそのために来たの」

 梨咲はニッコリ頷いた。

「どれ、始めましょうか」

 入口の前に立った鈴乃の経が始まった。鈴乃に寄り添った梨咲の前を、列を成して見えないものが天に昇って行った。

「さて、次は『岸の駅』のお掃除ね」

 鈴乃は香奈枝の案内で葬の宿『岸の駅』に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る