第23話 ゴミ

 5年の歳月が流れた。鞠江は4年間国内の弁護士事務所で経験を積んでから米留学し、「法学修士」の学位を取得して帰国した。その足で真っ直ぐ『禅乃楼』別館のフロントを訪れた。そこで鞠江を待っていたのは、結婚した徹人と香奈枝、そして二人の間に授かった5歳の女の子が立っていた。その女の子はすぐに鞠江に駆け寄って来た。鞠江はしゃがんで…その本能が会ったことがあると反応し、囁き掛けた。

「…“あの梨咲ちゃん” ね」

「うん」

 梨咲と鞠江にしか分からない囁きだった。その様子を見ていた香奈枝が微笑んだ。

「梨咲は鞠江さんを一目見て大好きになったみたい。なんか、先を越されちゃった感じね」

「梨咲ちゃんっていうんですね」

「いろいろ考えたんだけど、ふたりでその名前しか浮かばなかったの」

「梨咲ちゃんで良かった! 私も初めて会った気がしません。やっと帰国した実感が湧きました」

「お帰りなさい、顧問弁護士さん!」

「今日からお世話になります!」

 鞠江は約束どおり、『禅乃楼』の顧問弁護士になった。

「もうすぐ忠哉くんも帰って…おお、帰って来たか、いいタイミング!」

 忠哉が営業からあたふたと帰って来た。

「どうかしたのか?」

「あ…鞠江…さんにおみやげと思ったんですが…」

「たーちゃん! いつも呼び捨てなのに、急に “さん” なんか付けられたら気色悪いよ!」

「ああ…そうだね。暫く会ってなかったから、つい」

「忠哉くん、なに緊張してんのよ」

 香奈枝に笑われて忠哉は居場所に困った。

「おみやげは何?」

「そこに新しく出来たパン屋で…」

「パン !? 相変わらずダサい男ね。もう少し気の利いたものはなかったの?」

 香奈枝にまた笑われた。

「梨咲はそのパン大好き! ちっちゃなアンパンでしょ!」

「何でわかったの !? 」

「ちょうだい、ちょうだい!」

 梨咲は忠哉の袋を取り上げ、みんなに一個づつ配った。

「梨咲、それは鞠江さんへのおみやげでしょ」

「たーちゃんがアンパンを買って来るからよ」

 鞠江にからかわれた忠哉はフリーズしたまま立ち竦んでいた。

愛絆めるちゃんもね」

 梨咲はフロント前のソファに座った。

「めるちゃん !? 」

 香奈枝の問い掛けに鞠江が応えた。

「梨咲ちゃんはそろそろお友だちが欲しいのね。愛絆ちゃんっていうの?」

「うん」

「じゃ、みんなでそこに座ってアンパン食べようか」

 忠哉も座ろうとすると梨咲に止められた。

「そこは愛絆ちゃんが座ってるから、その隣でしょ」

「ああ…ごめん」

 みんな“愛絆が座っている” らしい場所を空けてソファに座った。愛絆は鞠江にも見えていた。“この子が私と忠哉の間に出来る子…” と愛絆を見詰めている鞠江の顔を覗いた梨咲は微笑んで頷いた。一同がアンパンを食べ始めると久坂が帰って来た。

「何すか皆さん、その状態は?」

「どうだった?」

「ええ、無事退院です。アンパンまだ残ってます?」

 ソファに置かれた袋を取ろうとすると、事務室から出て来た安藤が一瞬早く取り、中からアンパンをひとつ取って久坂に渡した。

「サンキュー…って、もう何も入ってねえじゃねえか!」

 牧口に車椅子を介助された朔太郎が入って来た。

「皆さん、ご迷惑掛けました。5度目の正直で何とか社会復帰出来そうです」

「朔太郎さん、食事は?」

「朝食は退院前に済ませました」

「でも、もうすぐ昼ですよ」

「みんなで『牡丹』に行きませんか?」

「社長夫妻だけで行って来てくださいよ。ここを開けるわけには行かないでしょ」

「そうか? 嬉しいことを言ってくれるね」

「社長が居ない方が気が楽なんすよね」

「おい」

「梨咲はどうする?」

「鞠ちゃんと居る」

「でも鞠ちゃんの帰国祝も兼ねたいし…」

「いえ、私は梨咲ちゃんと」

「そうなの? …じゃ、鞠江さん、帰って早々だけど、お言葉に甘えていいかしら?」

「もちろん!」

 徹人と香奈枝は朔太郎の介添えの牧口と4人で『牡丹』に向かった。


 ミキは4人の来店に喜んだ。注文もそこそこにミキの話が始まった。

「ちょっと、聞いてよ。あたし、ビリビリっと嫌な予感がしたのよ」

 来店時から不自然だった客の様子に、咄嗟に違和感を覚えたミキは、すぐに小型カメラのスイッチをONにすると、別館で電話番をしていた安藤はすぐに気付いた。送信されて来た映像には意外なふたりの密談が映し出された。

「ここはまずいですよ、久野さん」

 木島は警戒した。

「どうしてです?」

「『禅乃楼』の縁者が経営している店ですよ」

「じゃ、何でここに呼び出したんだよ?」

「この辺に気の利いた喫茶店はここしかないんで…」

 久野がカウンターを見ると、偶然目が合ったミキが満面の愛想を送って来た。

「あのグロいマスターが縁者?」

 別館事務所で映像を観ていた安藤は噴き出した。木島が振り返ると、カウンターにいる異様な風体のミキにゾッとした。

「あれ !? 何だ、あの物体は !? いつものマスターが居ないな」

 別館の安藤が再び噴き出した。ふたりの客の様子に誘われるように満面の笑みを浮かべて注文を取りに出たミキが映った。

「いらっしゃいませ! ご注文は?」

「前居たマスターは?」

「さあ? …今は私がマスターなの。どうかご贔屓に!」

 ミキは煙に巻いた。

「じゃ、コーヒーを」

「はい」

 カウンターに戻ったミキは “やはり何か変、あの人たち誰?”と送った。安藤は “あんたのほうが変だよ” と呟きつつ、すぐに “客は木島旅館の主人、木島貞五と香奈枝の父親・久野秀徳。密談内容知りたし”という返事を送った。


 別館フロントに老婆が訪ねて来た。いつもは向田くぬぎがフロントを務めていた。くぬぎ母娘は袴田康臣と離婚後、母の旧姓の向田に戻していた。この日はくぬぎが本館に手伝いに行っていなかったため、徹人がフロントに立っていた。老婆は久野優子。香奈枝の母だったが、徹人は気付かなかった。それは無理もなかった。丁度、昼食を終えてフロントに戻って来た娘の香奈枝ですら、すぐには気付かない程、優子はやつれていた。

「お母さん !? 」

 徹人は香奈枝の言葉に驚いた。良く見ると確かに義母の優子である。

「気が付きませんで済みませんでした、お義母さん!」

「仕方がありませんよ、随分やつれちゃったでしょ、退院したばかりなの」

 優子は退院ではなく夫の秀徳の一言で一日だけ外泊許可を取って無理に出て来ただけだった。香奈枝はそんな優子の事情など知りたくもなく、父同様、母にも冷たかった。

「お父さんにも言ったけど、無理よ」

「え !? 」

「知らなかったの? ひと月程前にここに借金に来たこと。どうせお母さん、その事を頼まれて来たんでしょ?」

「・・・」

 図星だった。

「これ以上、私を困らせないで。あなたたちとは、もう関わりたくないの」

「香奈枝さん」

「社長には申し訳ないけど、これは私たち久野家の問題なので、口を挟まないで欲しいの」

 徹人はそれ以上は介入出来ないと口を噤むしかなかった。

「私とお父さんは夫婦なのよ」

 そう言って優子は上着を脱いだ。その体には異様なものが巻かれていた。香奈枝は溜息を吐いた。

「お母さんは、どうしていつもお父さんの言いなりなの? その事がどういう結果になるか散々嫌な思いをして来たよね」

「私はあの人の妻だから…」

「それ、時限爆弾でしょ !? あんな夫のために死んでもいいの !?」

「お父さんが居たから、あなたが居るのよ」

「じゃ、この事で迷惑する人たちの事は? その人たちにはお父さんは迷惑を掛ける権利なんてないよね」

「久野家は代々…」

「うんざりよ! 狂ってるわ!」

「お金を用意してよ、香奈枝? そうしたら帰るから」

「脅迫 !? 」

「分かってほしいの」

「分からないわ! 分かるわけないでしょ、これは犯罪よ!」

 堪らず徹人は口を挟んだ。

「お義母さん、それはあと何分で爆発しますか?」

「お父さんがスイッチを押せば爆発します。お金を借りれたと言ってお父さんの所へ戻っても、お金がなかったら、そこで爆発します」

「お義父さんはどこにおられるんですか?」

「この先の小児病院です」

「小児病院 !? 」

 予め『牡丹』からの映像である程度の情報は得ていたが、爆発現場に想定したのが小児病院と分かって、徹人と香奈枝は困った。


 あの日、『牡丹』のミキは、異常を察知しカウンターから『禅乃楼』別館事務所に “やはり何か変、あの人たち誰?”と木島旅館の主人、木島貞五と香奈枝の父親・久野秀徳の恐るべき密談内容の監視映像を送って来ていた。

「ここはまずいですよ」

 木島は警戒した。

「どうしてです?」

「『禅乃楼』の縁者が経営している店ですよ」

「じゃ、何でここに呼び出したんだよ?」

「この辺に気の利いた喫茶店はここしかないんで…」

 久野はカウンターを見た。

「あのグロいマスターが縁者?」

「あれ !? いつものマスターが居ないな」

 そこにミキが注文を取りに来た。

「いらっしゃいませ! ご注文は?」

「前居たマスターは?」

「さあ? …今は私がマスターなの。どうかご贔屓に!」

「じゃ、コーヒーを」

「はい」

 ミキが去った。

「例の計画だけど…」

「用意出来ますよね?」

「ブツは用意出来そうですが、それを実行する人間が…」

「大丈夫。女房にやらせようと思ってます」

「奥さんに !? だって、奥さんは入院中でしょ !? 」

「意識が戻りました。回復を待つだけです。実行まで退院が無理ならその日だけ外泊させます」

 木島は久野の執拗ぶりに引いた。

「怖気付いたんじゃないですよね、木島さん? 袴田への借金の橋渡しをしてやったのは誰だと思ってます? まだ返済してませんよね。やつは死にましたが、やつの娘には相続権がありますよ」

「分かってますよ」

「安心しました。ブツは必ず用意してくださいよ…お互いのために」

「準備出来たら連絡します」

「いつ準備出来るんですか?」

「あと、一日か二日待ってください」

「二日以内にブツが準備できないなら、袴田氏から借りた5百万…用意してくださいね。娘さんに返してあげないといけませんから」

「分かってますよ」

「お願いしますね。その代り、ここは私にお支払いさせてください」

 抜け抜けと店の支払いなどと、木島は久野への嫌悪感を押し殺して重い足取りで『牡丹』を出て行った。

「使えねえクソが!」

 久野は精算に立った。


 香奈枝は決意した。

「徹人さん…後は私に任せてもらえないかしら?」

「どうするつもりだ?」

「私が母を連れて行くわ。お金は要らない」

「でも現金を用意しないと…」

「私に考えがあるの」

「駄目だ。君を行かせるわけにはかない」

「ちゃんと帰って来るから大丈夫! お願い、最後にしたいの!」

 徹人が香奈枝を止めることは難しかった。

「徹ちゃん、オレたちが付いてるから」

 久坂が口添えした。小松と安藤も徹人に頷いた。

「…梨咲をひとりにはしないよな」

「しないわ、絶対に」

「…分かった。君を信じる」

 香奈枝は母に深い帽子とマスクをさせ、車椅子を押し、『禅乃楼』別館を出た。

「お金は? お金がなければ爆発するわよ」

「途中で銀行に寄るから心配しないで」

 しかし、香奈枝は銀行に寄るつもりなど毛頭なかった。


 小児病院の待合室は親子連れで混んでいた。久野はその一角で待っていた。優子は車椅子で夫の元に近付いて行った。久野はすぐに車椅子の後ろの荷物籠の蓋を開けた。空だった。

「金はどうした !? 」

「そんなものあるわけないでしょ」

 久野は優子の声ではないのに気付いた。

「おまえは !? 」

 深い帽子とマスクを取ると優子ではなく香奈枝だった。

「おまえ…約束の金はどうした」

「だから、ないと言ってるでしょ」

「ボタンを押すしかないな」

 久野はスイッチを構えた。

「止めやしないわ」

 香奈枝は上着を取った。

「どこを爆破するつもり? そのボタンを押したら木島旅館に居るお母さんが木島諸共爆死するだけよ。じゃ、さようなら、お父さん」

 香奈枝はその場を去って行った。久野は爆破を断念し、コントローラーを近くのゴミ箱に捨てて妻のいる木島旅館に急いだ。


 廃れて久しく休館となった木島旅館に急行した久野は、解放されたままの玄関を入ると、一部屋一部屋捜し回り、やっと妻と木島が閉じ込められている部屋に辿り着いた。ふたりの口と手足は拘束されていた。口枷を解かれた木島が怒鳴った。

「久野さん、どうなってるんですか!」


 小児病院の待合室は診察待ちに飽きた子どもたちが走り回っていた。そのうちのひとりがゴミ箱に捨てられたコントローラーを発見して取り出した。

「ママ、これ何?」

「智くん、汚いから捨てなさい」

 母親が子どもからコントローラーを取り上げ、捨てようとしてスイッチが気になり押してみた。何の変化もないのでゴミ箱に戻して子どもを連れて待合室のソファに戻って行った。そのすぐ後に小児病院の清掃係がコントローラーの入ったゴミ箱の中身を乱雑に回収箱に入れて立ち去った。


 旅館の一室で優子に巻かれた時限装置を外している久野に木島が叫んだ。時限装置の数字が動いているのに気付いたのだ。

「久野さん、数字が!」

 久野は青褪めた。

「しまった !?」

 何を錯乱したのか小児病院のゴミ箱に捨てたのを悔いても仕方がない。妻に巻いた時限爆弾の赤い数字は既に1分を切り始めた。久野は妻の時限装置を剥がそうとするのをやめて入口に急いだ。

「自分だけ逃げるのか!」

 木島は久野を抑えて引き戻したが、久野は必死に木島を振り解いた。

「逃げないと死ぬぞ!」

 木島は先に逃げようとする久野を再び引き戻した。


 木島旅館の一角は大爆発を起こし、火災が発生した。様子を窺っていた久坂と安藤は、想定外の事態に戸惑った。

「どうなってんですか?」

「兎に角、ここに居たらまずい」

 久坂たちは炎上を横目に急いで現場を去った。ふたりが『禅乃楼』別館の事務室に戻ると、香奈枝と小松は既に戻っていた。

「どうなってんだよ、香奈枝さん !? 木島旅館が爆発炎上してるよ!」

 遠くでパトカーや消防のサイレンが騒ぎ出した。速報の画面が早くも木島旅館の火災の模様を映し出した。香奈枝は興味を示さず席を立った。

「現場に行くのか!」

「くぬぎさんとフロント代わるわ。もうすぐお昼だから」

 本館での昼食にくぬぎを送り出して、香奈枝はフロントに入った。少しすると本館の自宅からしょっちゅう遊びに来ている梨咲が現れた。

「お母さん、戸田のおじちゃんが来るよ」

「そう」

「鞠ちゃんはまだ来ない?」

「今日は鞠江さんはお休みだよ」

「鞠江ちゃんも、もうすぐ来るよ」

 梨咲のいうとおり戸田刑事が現れた。

「香奈枝さん…ご両親が…」

香奈枝は “両親” と聞いて耳を疑った。

「木島旅館の火災現場からご遺体で発見されました」

 香奈枝は両親揃っての被害というのは懐疑的だった。木島旅館に到着して無理心中を図ったのだろうか…どうして両親が? 木島は逃げたのか? …久野は誤ってスイッチを押してしまったのだろうか…しかし、自分で作ったものなら解除が可能であろう…それとも、木島に閉じ込められて…

「悲しくはないんですか?」

 戸田は、涙も流さず、精神的に乱れもしない香奈枝を不審に思った。

「過去にさんざん苦しませてもらった両親ですから、今更、何があろうと何とも思いません。寧ろ、死んでくれてトラブルの種がなくなりホッとしました」

「…そうなんですか」

「遺体は引き取りません」

「え !? 」

「私が引き取ります」

 徹人が事務室から出て来た。

「宮園さん、この度は…」

「急なことなのでどうしたらいいのか分かりませんが、取り敢えず検死後のご遺体は私が引き取らせていただきます」

「分かりました。いろいろお伺いしておきたい事があるのですが、今、宜しいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

「最近、ご両親とは…」

「お義父さまは5年程前に一度見えました。それきりになっていましたが、今日の早朝に突然お義母さまが…」

「どんな御用で?」

 いいよどむ徹人に代わって香奈枝が答えた。

「借金です。以前に父が100万貸せといって…貸金業じゃないからと断りました」

「お母様は?」

「同じですよ。返す当てもないのに、母は父の言いなりです。帰ってもらいました」

「その他に何か…」

「それだけです。両親には一切関わりたくありませんので」

 フロント前のソファでお絵かきをして遊んでいた梨咲が出入口に走り出すと、自動ドアの向こうから鞠江が歩いて来るのが見えた。

「動物並みの感ですね。じゃ、今日は取り敢えず失礼します」

 梨咲の行動に感心した戸田刑事は、鞠江の手を引いて入って来た梨咲たちと擦れ違いに出て行った。


 事務室のテレビ画面は鎮火した焼け跡から男女二名の遺体が発見されたことを告げていた。

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