第22話 『岸の駅』
柳井一二三は狭い密室空間の中、寒さで目を覚ました。体は拘束され身動きが取れない状態だった。拘束されている密室空間が動き出した。顔面の上の四角い覗き窓から天井が見えてきた。密室空間が止まると、覗き窓から男が覗いた。男は持っているマイクを通して話し出すと、その声が密室空間の中のスピーカーから聞こえて来た。
「『岸の駅』へようこそ。駅長の宮園です。あなたはこれから彼岸に旅立ちます。そこからどこへ行くかは、あなたのこれまでの人生によって決まります」
柳井は必死にもがいて叫んだ。しかし、その声は密室空間の中で籠った異音となり、拘束はビクともしなかった。
「では楽しい旅を…発車!」
葬の宿『岸の駅』発車のベルが鳴った。密室空間が…つまり、遺体安置用の棺が動き出し、元の暗闇に入って行った。棺内の温度は急激に下がり、柳井の体は痙攣のように弾けて行った。それが治まると柳井の脳裏を支離滅裂な幻想が過り、次第に睡魔に襲われて行った。
その頃、本館では威力業務妨害の現行犯で連行されて行く元日吉組連中の列が出来ていた。
「いつも美味しい思いをさせてもらって済まんな」
戸田はこのところ香奈枝のお陰で成績が上がり、上機嫌だった。香奈枝が元刑事だったこともあって、妄想の中では日増しに異性としての好感度が増していたが、戸田は立場上どうにか平静を装う均衡を保っていた。
徹人は “山の
鈴乃は常三を身籠り、出産までの間、それまでたまに来て手伝っていた弟の朔太郎が火葬の仕事を代わってくれたため、妊娠の間、夫・倭吉との水入らずの時間が持てた。しかし、倭吉は初めての息子・常三が生まれてすぐに落盤事故で他界してしまった。時同じくして、田耕寺の住職・田慶も他界し、以来、鈴乃はこの倭吉との思い出の消せない火葬場から離れず、寺も継ぎ、老いても尚現役で二足の草鞋を穿くことになった。その関係で成人した朔太郎は姉の仕事に繋がる葬儀屋を起業して今に至っている。
「今日来たのは、この仏さんも訳有りかい?」
「はい」
徹人は訳有りの遺体は伯母・鈴乃の火葬場が休みの火曜日を選んで運んで来ていた。
「このごろ、裏の野菜が育ってしょうがない」
一年中、黒く火焼けした鈴乃はケラケラと笑った。現代日本では火葬した骨を骨壺に納める「骨揚げ」の儀式の慣習があるため、遺骨の形を残す火葬技術が発達した。こうした火力の制御技術が発達するまでは、火葬後の遺骨は原型を留めなかった。従って、骨を粉末状にすることは、骨の原型を留めるより容易いことなのだ。
1910年に岐阜県高山市で、遺族たちが拾い切れない粉末状になった火葬の残灰を、業者が買い受けて肥料の原料にしたことが「死体遺棄罪」にあたるとして訴えられて大審院まで争われた記録がある。大審院での判決は「拾えないため骨壺に納められなかった残灰は、土砂と同じようなものなので、これを買い受けて肥料の原材料とすることは、死体遺棄罪には当たらない」とされ、無罪となった。“このごろ裏の野菜が育ってしょうがない” という鈴乃の言葉は、そういうことであろう。一般に骨壺に入ることのない「残灰」は法的には、「不用品もしくは廃棄物(一般廃棄物)として処分することができる」と定められている。収骨後に残ったご遺骨は自治体の所有となり、専門の処理業者が有害物質の除去や遺骨に残された貴金属のリサイクルなどの処理を行った後、粉骨して残骨供養堂や永代供養堂に埋葬をされている…ことになっている。
鈴乃はやはり弟の事が気になっているらしかった。
「朔太郎はどんな具合だ?」
「大事には至らなくて、精密検査でも異常がみられなかったので、もうすぐ退院出来そうです」
「あの子は何も言わん子だ。無理だ祟ったんだろう」
「…はい」
「黙って宮園の家の陰になって尽くして…他人とは違うことで悩んで来たから…」
徹人も叔父の朔太郎が同性愛者だということは薄々気付いていたが、昔気質の鉄冶郎の手前、話題にすることはなかった。
「あんたは逸子さんの血を引いている。朔太郎のことは陰からでも見守ってやってほしい」
いつも豪快で強気な気性の伯母にしては、珍しく弱気な発言だった。しかし、気付いてみれば、本家の立場の人間は自分一人になってしまった。鈴乃に言われるのも当然と言えば当然の事で、宮園家の人間は自分を含めてみんな年老いて行く。袴田への報復のために保存した安置室の梨咲にしても、調べれば調べるほど自殺に辿り着く。妻に裏切られた結果、血の繋がりのない梨咲を、何のために安置しているのかが分からなくなっていた。梨咲も鈴乃が健在なうちに土に返してやるべきなのかもしれない。
「早く連れておいで」
徹人の懊悩を見透かしているかのように呟いた鈴乃の言葉が、徹人の頭の中で繰り返された。フリーズしている徹人に、鈴乃は話題を変えた。
「あんたは知らないだろうけど、随分前から常三が時折ここに来て火葬を手伝ってるんだよ」
徹人は驚いた。常三からそんな話は一言も聞いたことがなかった。
「常三が幼かった頃は、朔太郎が来て手伝ってくれてた。きっかけは私の妊娠だったけどね。当時ここは妊婦だと火葬業務に従事できない決まりになっていたのよ。みんな、逸子さんが背中を押してくれたことだ」
徹人はこれまで縁戚の人たちの事を何も知らないで来た。皆が母の逸子を中心に回っていたことを今更ながらに知った思いだった。『禅乃楼』は遺体旅館になるべくしてなったのかもしれない。
鈴乃の火葬場を後にした徹人は、その足で両親の眠る墓地を訪れた。墓前には既に誰かが墓参りしたらしき新鮮な花が添えられていた。まだ、微かに線香の香りが残っていたので、徹人は周囲を見回してみた。一瞬、墓石に隠れた陰が見えた。それも一人ではなく二桁はいるだろうか…身の危険を察知した徹人は墓地の片隅にある小屋に走った。追ってくる足音が聞こえて来たが、振り返らずにそのまま走った。小屋には緊急を知らせる非常サイレンのスイッチがあったからだ。中に入るなりそのスイッチを押すと、けたたましいサイレンが墓地に響き、徹人を追って来た連中は怯んだ。再び小屋を出ると、“こっち!”と叫ぶ声がした。香奈枝だった。
「どうしてここに !? 」
「急いで車に! 全く無防備ね!」
香奈枝が墓地の登り斜面の路地に停車してあった車に乗り込み、バックのまま坂の途中でカースタントさながら方向転換して連中を振り切り、墓地を去った。日吉寿雄は地団駄を踏み、宮園家の墓をこれでもかと瓦解至らしめた。
車の中でふたりは暫く無言だった。
「あの花は君か?」
「今日はお母さまの命日でしょ?」
「え !? あ…ああ…」
「気が付かないで来たの !?」
「・・・」
「呼ばれたのね…お母様の命日とあなたの命日が同じ日にならないで良かったわね」
「・・・」
「社長、しっかりしてください。あなたは元日吉組の半グレ組織に狙われている立場なんです」
「…そのようだな」
「彼らが獲物と決めたら、その執着心は底無しですよ」
「それだけのガッツがあるなら社員に欲しいね」
「社長! ほんとに気を付けないと!」
「日吉寿雄は仲間にどれだけの人望があるんだろうね」
「え !? 」
「試してみようかと思ってね」
「試す !? 」
「リーダーが殺られた場合、人望があるなら2番手以降が復讐に出る。2番手に人望があるなら3番手以降が復讐に出る。こりゃ結構楽しめるな」
「…社長」
一見、徹人は殺人狂と化したかに見えた。
「昔のやんちゃな頃のことを思い出してね」
軽く笑ってから助手席で眠りに入った徹人に、香奈枝は胸騒ぎを覚えた。
数日後、香奈枝の胸騒ぎは形となって現れた。早朝の墓参客によって、瓦解した宮園家の墓石に頭部が下敷きになった日吉寿雄の死体が発見された。近くには破砕ドリルがあった。墓地に監視カメラは設置されていなかったため、事故前後の情報は得られなかったが、警察は、宮園家の墓石被害を鑑みて、遺体旅館建設で浮上した覚醒剤に関する報復の
徹人の言っていたように、死亡した日吉寿雄に人望があれば報復2番手が報復に現れるはずだが、その2番手候補・渋井嗣朗は柳井一二三同様、行方知れずとなって消え、3番手と目される横井一彦に至っては組織を逃亡した。それをきっかけに組織から足を洗おうとする輩が続き、元日吉組傘下の半グレ組織はほぼ壊滅状態となった。
「社長…誰もいなくなりましたね」
「人望はなかったようだね」
香奈枝は思い切って切り出した。
「梨咲さんは…どうなります?」
「梨咲はもう…岸の駅を発ったよ」
「え !? 」
「いろいろ、ありがとう」
「・・・」
「・・・」
「私は!」
「私は、君を裏切った。君を裏切ったことで、みんなを不幸に巻き込んだ。出来ることなら、あの日に時間を戻したい」
香奈枝は徹人の言っている言葉がすぐには頭に入って来なかった。社長としての徹人が小さく見えた。というより、警察官になった香奈枝が事件現場で出会い、交際が始まったばかりの監察官の徹人がそこにいた。
「ボクを止めてほしい」
じっと見ていた香奈枝の表情が冷酷になった。
「社長が動かないなら、私が動きます。小松さんも久坂さんも安藤さんも、そのために社長の傍に居るんです」
香奈枝はこれ以上弱音を吐く徹人を見たくなかった。
「進むしかないんです、社長!」
そう言って胤を返してその場を去る香奈枝の足が止まった…香奈枝の背に徹人は強く寄り添った。
「時間を戻してほしい!」
徹人の呻きのようなSOSだった。封印していた徹人への愛が一気に崩壊した香奈枝は振り向きざま徹人をより強く抱きしめていた。
「いやあ、間の悪いところに来てしまいましたかな」
ふたりは覚えのある声に驚いた。そこには香奈枝の父・久野秀徳が立っていた。
「お義父さん !? 」
「徹人くん、佳桜里の次は香奈枝ですか?」
「今更、何しに来たの?」
「実の父親になんてことを言うんだ、香奈枝」
「どうかなさいましたか、お義父さん」
「妻が入院してね」
「長年のDVが限界に来てとうとう入院ね」
「母さんが入院したというのに哀しくないのか、香奈枝」
「あなたのDVの苦痛を共に味わった仲だもの、気の毒だとは思うわ。でもね、あなたに依存したあの女を母親だと思ったことは一度もないわ。どうせ、理由を作って金の無心に来たんでしょ」
「さすが娘だ。分かってもらえてるんなら話が早い。取り敢えず百万ほど都合付けてもらえないか?」
「三桁とは図々しく出たわね。どうやら寸借詐欺ではないようね」
「返す当てがあるから頼んでるんじゃないか」
「あなたの当てなどに興味はないわ。借りに来たんなら当てではなく、抵当があるんでしょうね」
「当たり前じゃないか。家だよ、家を抵当に…」
「あの家はとっくの昔に他人名義でしょ」
「そんなことはない。私の名義だ」
「他人名義ですよ」
久坂が帰って来た。
「あなたの嘘で塗りたくられた手紙の一件の際に、私が調べて確認したんですから間違いありません。あなたが今住んでいる家は他人名義です。その上、随分前から立ち退きを要求されていますよね」
「徹人くん、困ってるんだ。いくらでもいいから用立ててくれ」
話そうとする徹人を香奈枝は即座に制した。
「私どもは貸金業の許認可は受けておりませんので、あなたにお貸しすると法律違反になります。お帰りください」
「実の親に向かって、よくもそう言う口が利けるね、この罰当たりが!」
「あなたも人の親なら、人の親らしい生き方をしたらどうなんです。DVで追いだした娘に金の無心ですか? 情けないにも程が有る!」
「私はおまえに何か頼んでるわけじゃない! 徹人くんに頼んでるんだ!」
徹人は頭を掻いた。
「久野さん、どうやらご用立てするのは難しいようですね」
「徹人くん、何を他人事のように言ってるんだね。あんたの会社でしょ!」
「私は運営が仕事でね。経理は専務の香奈枝さんにお任せしてるんだ。経理が駄目だと言うからには駄目なんですよ」
「これ以上ごねると、警備の私が強引にでもここから出て行ってもらわないといけなくなります」
「脅すのか、君は! 私は長女をここで殺されたんだ! 徹人くん、あんたが放っといたから佳桜里は殺される羽目になったんじゃないか! 金を用立ててもらうまでここを一歩も動かないぞ!」
「それは違います。姉は自業自得で殺されたんです。そうなるのを助長したのはあなたですよ」
「私が何をしたというんだ!」
「その自覚がないあなたには何を言っても理解できないでしょう。ここは貸金業ではありません。他をあたってください」
「それなら、おまえの名前でたっぷり用立ててもらうよ」
「私は名義貸しは許可しません」
「不当な借金は犯罪になりますよ。貸主を騙して借りたら刑法246条1項に基いて詐欺罪、または刑法159条1項、161条1項に基いて私文書偽造・行使等に該当する可能性があります」
鞠江が本館の手伝いから帰って来ていた。
「だれだ、あんたは!」
「大園鞠江と申します。ここでお手伝いをさせていただいております。こちらが香奈枝さんのお父様ですか、初めまして。今、香奈枝さんの名義でお金を借りるお話をしておられましたが…」
「手伝い風情が黙ってろ!」
「お義父さん、大園さんはここの顧問弁護士です」
「ちなみに、借金は扶養義務の範囲外なので、勝手に借りたお金を家族や親族であっても借主以外に返済義務はありません」
「世の中そんなに甘くはない。取り立て業者にはそんなことは通用しないんだ!」
「返済義務のない人にする取り立て行為は、貸金業法等で禁止されています。すぐに警察に通報すれば済むことですし、弁護士に相談すれば貸金業者を罰することもできます」
「甘いな。こちとらその借金を残したまま死んでやる」
「成程、その場合、確かに借金は子供が相続し、返済義務を負います。しかし、民法第939条には、相続開始後3ヶ月以内に家庭裁判所に相続放棄申述すれば返済義務はなくなります」
久野は不機嫌に居座った。間もなく、戸田刑事がやって来た。カウンターの奥の事務室で番をしていた小松に久野秀徳の所在の問い合わせがあり、カウンターでごねていることが伝えられていた。
「署までご同行願えますか?」
「私は借金の相談に来ただけだ!」
「いえ、その話ではありません。入院なさっていた奥さんが意識を回復なさったんです」
「何だと !? 」
「体中に不自然な痣がありましてね。何があったのか窺ってもお話しいただけないんですよ」
久野秀徳は口を閉ざした。
「監察官の診断では、常態的に暴力を振るわれていたことによる衰弱という判断です。ご主人なら何かご存じではないかと…」
久野は香奈枝との間にある分厚い壁によって弾き出されるように、戸田に連行されて行った。
「また鞠江さんに救われましたね」
「鞠江ちゃん、もうすぐね」
「はい」
「あと10日で暫くのお別れ。東京でも有数の弁護士事務所なんでしょ?」
「段々遠くに言ってしまうな」
「でも私はここが好きです。ここに帰って来たいです」
「ほんとか !? 」
「でも、キャリアを積まないと。3~4年キャリアを積んだら…」
「そしたら『禅乃楼』の顧問弁護士になってもらえるかな!」
「その後で留学しようと思ってます」
「留学」
「法学修士の学位を取りたいんです」
「…そうか」
徹人は気落ちした。その後ろで営業から帰って来た忠哉がどんよりと佇んでいた。
「あら、忠哉くん、いつ帰ったの? なんか影が薄いけど大丈夫?」
「あ…はい」
忠哉はやっと真っ直ぐ事務室に向かった。
「たーちゃん」
「はい」
「私、留学から帰ったら『禅乃楼』の顧問弁護士になりたい」
徹人たちが急に湧いた。
「ほんと !? 」
「はい、必ず!」
「そうか! そうか、そうか!」
一同が盛り上がる中、忠哉はひとり置き去りにされていた。
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