第15話 香奈枝の覚悟
香奈枝が徒ならぬ表情で別館のフロントに顔を出した。
「鞠ちゃん、社長はこっち? 本館に行ったんだけどいなかったから」
鞠江は予知夢にないことが起きて胸騒ぎを覚えた。香奈枝の表情には覚悟が現れていた。恐らく、徹人に真実を告げに来たに違いなかった。
「はい、こちらの事務所に居ります」
鞠江は動揺を抑えて答えた。
「そう」
香奈枝は奥の事務所に入って行った。ドアに鍵の掛かる音がした。このままでいいのだろうか…忠哉に連絡を取ろうにも、さっき営業に出たばかりで夕方までは戻れない。梨咲は…梨咲は現れてくれないのだろうか? 少なくとも、自分の死の望みを叶えてくれた人が自分の腹を切ろうとしているかもしれないのだ。鞠江は “梨咲ちゃん!” と助けを念じた。
徹人は予定外の香奈枝の登場に僅かばかり驚いた。召集を掛けても、趣旨に納得しなければ来ない香奈枝である。自分から出向くことは今まで一度もなかった。
「どうした !? 」
「そろそろ自首しようと思います」
「自首 !? 」
「梨咲ちゃんを殺したのは、私なの」
徹人は香奈枝が何を言っているのか俄かには頭が回らなかった。
「一度しか言わないからよく聞いてね。梨咲ちゃんは2枚のDNAの鑑定書で悩んでいたの。一枚は徹人さんとの親子関係を否定するもの。一枚は袴田康臣との親子関係を肯定するもの」
「…梨咲は袴田の子だ…それぐらい知っている」
「そういうことじゃない」
徹人は香奈枝の言葉に戸惑った。
「姉はレイプされてはいません」
「・・・ !? 」
「袴田とはあなたと付き合う前から関係がありました」
「・・・!」
「私とあなたが付き合っていた頃、姉は袴田と付き合っていました。そして姉は、私からあなたを取り、あなたの妻に納まったんです」
「しかし、お義父さんの手紙では…」
「父は嘘を突いたんです…私は苦しみに押し潰されそうなあなたを少しでも楽にしてあげたいと、必死でした。大体の背景が浮き彫りになり、これでやっとあなたの肩の荷も少しは降ろせると思いました。しかし、ある日、梨咲ちゃんから連絡が入った」
「梨咲から !? 」
「 “母の代わりに、おばちゃんに最期のお願いをしたい” と。私が駆け付けた時には、梨咲ちゃんは既に足下の台を蹴って揺れていました。死にきれないでいたの」
徹人は厳しい表情で香奈枝を見た。香奈枝は徹人以上に刺す表情をしていた。そして徹人の言葉を代弁した。
「どうしてすぐに救急車を呼ばなかった…そう言うなら、助かった梨咲ちゃんの苦しみは誰に癒せるのかしら? 梨咲ちゃんは、私の事を見透かしたように “…余計なことを…しないで…お願い” って」
「でも、救急車を呼ぶのが当然だろ!」
「私は奴隷じゃない!」
徹人は香奈枝の絞り出すような言葉に唖然とした。
「梨咲ちゃんがそうも言ったのよ」
「梨咲が !? 」
「 “何も出来ないあなたは、私のために生きる定めなのよ” …私は、姉にそう言われて育った。そんな姉から逃れるための言葉と同じだった。梨咲ちゃんは姉の奴隷でもないし、袴田の奴隷でもない。徹人さん、あなたの奴隷でもないのよ。あの子が選んだ選択は、
「だから梨咲を死ぬまで放置したのか」
「いいえ、首を吊ったロープで絞めたわ」
「なんてことを!」
「死を確信して、梨咲ちゃんは初めて微笑んでくれた」
睨み合ったまま、ふたりの沈黙が続いた。
「…狂ってる」
「ええ、私は狂っている。話すことはそれだけ。じゃ、さようなら」
香奈枝はドアの施錠を外した。
「待ちなさい!」
香奈枝は振り向いた。
「そう…ここで私を殺すのも有りよ」
「いや、狂っているのは私だ。君が正しい。愚か者は私だ」
「…徹人さん」
「目を瞑っていた…佳桜里に目を瞑っていた。そのことが梨咲を追い詰めた」
「DNA鑑定書は一枚だけだったはずよ。もう一枚にはいつ気付いたの?」
「知らなかった…きっと梨咲が自分で調べたんだと思う。卒業旅行すると言って母にせがんだお金かもしれない。旅行に行かずに鑑定に使ったんだろ」
「・・・」
「何もかも私の所為だ。君への裏切りがこういう結果を生んだんだ」
「私は裏切られたなんて思ってない。あなたが幸せでいてくれればそれで良かったの。あなたの邪魔になる者はもういない。それでいいのよ」
香奈枝は去ろうとドアを開けると、そこに逸子が立ち塞がり、香奈枝を押し入れて再び中に入ってドアを施錠した。
「これで良かったのよ、香奈枝さん。あなたは徹人とここで骨を埋める人なの。バカ正直に生きるのはもうおやめなさい。私の後を継ぎなさい」
「…お義母さん」
香奈枝は、今まで張り詰めて来た過去が解けるように泣き崩れた。
「約束よ」
逸子は香奈枝を見据え、異を唱えさせなかった。
「返事は?」
「はい」
数日後、逸子は倒れ、昏睡状態になり、そのまま息を引き取った。
逸子の葬儀は盛大に、滞りなく済んだ。その日を境に香奈枝は只管、『禅乃楼』のために人が変わったように動き始めた。誰に何を求めるわけでもない。香奈枝の変わりようには、誰もがその心配とは裏腹に黙認した。
「徹やん…香奈枝さん、大丈夫か?」
久し振りに『牡丹』で寛いでいる徹人にマスターの牧口が聞き辛そうに話し掛けて来た。
「コーヒーもいいな」
徹人は話を逸らした…のもある。いつもなら、今頃書斎で母の逸子が淹れてくれた美味しい紅茶を一緒に相伴しているところだ。逸子の死後、この時間は『牡丹』に来ることが多くなった。『牡丹』のマスターも迷うところだった。紅茶を淹れてやるべきか…かと言って、コーヒーをオーダーする徹人に “紅茶は?” と聞くのも気が引ける。逸子の淹れてくれた紅茶の想い出で飲み納めしているのかもしれない。
「どうした?」
牧口は徹人の前に突っ立ったままだった。
「あ、いや、この頃よく店に来てくれるんで…」
「…そうだな」
話が続かない。戻り掛けた牧口はもうひとつ会話を思い付いた。
「そういえば、葬儀が済んで、少し落ち着いたかい?」
「ああ」
「・・・」
やはり、話が続かない。牧口はあきらめてカウンターに戻るしかなかった。
「香奈枝は…」
徹人が牧口の背中に声を掛けた。
「大丈夫だよ」
「…だよな」
牧口は背中で応えながら、何気ない素振りを装ってカウンターに戻った。徹人には解っていた。香奈枝は梨咲の死への償いとして身を酷使している。多分、倒れるまで続ける気だろう。その時になれば、自分が香奈枝を守ると決めていた。
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