第14話 幻影
鞠江は妙にリアルな夢を見て飛び起きた。まるで一つのシーンを劇場映画で観ている感覚だった。
香奈枝が部屋に入ると梨咲が首を吊って揺れていた。今、台を蹴ったばかりと見えて梨咲の足は僅かにもがいていた。香奈枝は慌てて柱に結わえ付けられた縄を解き、慎重に降ろした。梨咲の首は折れていた。
「…どうして」
“どうしてこんなことを !? ”、“どうして私を呼んだの !? ”、“どうして相談出来なかったの !? ”…それらは全て愚問であることを香奈枝は分かっていた。
梨咲が指を差し示した。その指の先には2通の書類があった。急いで確認すると、一通は宮園徹人との親子関係を否定する鑑定書、もう一通は袴田康臣との親子関係を肯定する鑑定書だった。
「これは!」
梨咲の苦悶の表情が全てを物語っていた。
「…つらかったね、梨咲ちゃん」
香奈枝はそう言うのが精一杯だった。急いで救急車を、徹人を、逸子を呼ぶことを考えたが、梨咲は今正の死の間際、香奈枝の考えていることを見透かすようにその手を固く握った。
「…お願い…余計なことを…しないで」
「でも!」
「私は奴隷じゃない!」
その弱々しい悲痛な叫びは、香奈枝の心に蟠る姉・佳桜里との黒歴史をフラッシュバックさせた。
佳桜里は久野家の悪習にどっぷり浸かっていた。
「何も出来ないあなたは、私のために生きる定めなのよ」
「私はお姉ちゃんの奴隷じゃないの!」
香奈枝はその言葉を最後に家を出た。女二人姉妹の久野家は、姉の佳桜里を最優先に育てた。妹の香奈枝はその理不尽に晒されて育った。成人した香奈枝はついにその忍耐が暴発し、歪んだ久野家を離れ、こつこつと自分のための未来を築いていった。そしてある日、徹人と出会い、恋に落ちた。しかし、数日もしないうちに姉が現れた。両親に会わせたい人がいると連絡したのが間違いだった。それを聞き付けた姉は、強引に二人の間に入って来た。香奈枝には過去の悪夢から逃れることしか考えられなくなり、徹人とも自然と距離を置くようになった。その間に、姉は徹人を自分のものにしていた。
街で偶然、姉が他の男と歩いているのを見掛けた。香奈枝は嫌な予感がして二人を付けた。ふたりは繁華街の奥のホテルに入って行った。2時間ほどして出て来た二人はじゃれあいながら飲み屋街に消えて行った。姉は変わっていなかった。父親が徹人に送ったあの手紙も姉の落ち度は全て隠されていた。久野家も何も変わっていなかった。
“私は奴隷じゃない!” という梨咲の必死の言葉は香奈枝の心を揺さぶった。
「そうよ…梨咲ちゃんは奴隷じゃない!」
香奈枝は解いた首吊りロープで梨咲の首をもう一度力いっぱい絞めていた。梨咲は微笑み、その目から涙が流れた。一切の抵抗をせず、視線が次第に遠くに離れて行った。
突然、香奈枝は人の気配に気付いた。素早くドアの外を窺った。誰もいなかった。梨咲に振り返り、ぐったりしている姿を見た時、自分は何てことをしているんだろうと我に返った。兎に角、この場を立ち去るしかないと、梨咲をそのままに『禅乃楼』から遠ざかった。
隣の部屋のドアが開き、朔太郎が出て来た。香奈枝がまだ部屋に居るのだろうか気に掛かったが、思い切って部屋を開けると、梨咲がひとり床に仰向けのまま倒れていた。傍によると、痛々しい索条痕の梨咲は
「梨咲ちゃん!」
朔太郎はそっと梨咲の頬に手を添えた。
「…おじちゃん」
虫の息の梨咲の頭にそっと手を添え、抱き上げた。梨咲は安心したようにそのまま目を閉じた。力なく握っていた手から何かが現れた。御守だった。合格祈願に祖母の逸子から貰ったものだった。朔太郎はとっさにポケットにしまい込んだ。梨咲の体のあちこちから漏れ始めた体液や排出物を綺麗にしてやりたい衝動に駆られたが、それは抑えるしかなかった。今見たことは墓場まで持っていくしかないと心に決めた。
「梨咲ちゃん!」
朔太郎に抱かれた梨咲の目が半開きになった。
「…梨咲ちゃん…赦してくれ…私には…」
梨咲の目は半開きのまま閉じることはなかった。その視線の先にはもう黄泉の国がある。朔太郎はそっと梨咲を床に降ろし、辺りを見回した。自殺ロープが不気味にうねっている。それだけは上着を脱いで包んだ。そして、急いでその場を去った。
鞠江は吐き気を模様して悪夢から覚め、洗面台に走った。冷や汗だけが滲み、何も出なかった。鏡に写っている姿が自分なのか梨咲なのか…少なくとも、朔太郎が御守を取りに突然フロントに現れた時から、鞠江の心に梨咲が住み始めている気がした。梨咲はあの時、 “叔父さんを疑ったら駄目” と呟いた。妙にリアルだった夢が、その言葉を物語っていた。梨咲は実際に起こったことを私に見せたに違いない…でも、何故? 私に何かやってほしいことがあるのだろうか? 私は今日からどういうスタンスで『禅乃楼』に行けばいいのだろう…鞠江は出勤するのに気が重くなった。
仕方なく出掛ける仕度をしていると、忠哉から電話が入った。話があるので夕方会えないかということだった。その時に思い切って忠哉に打ち明ければいいと思ったら少し気が楽になった。
鞠江の不思議体験を聞いた忠哉は暫く無言だった。
「あそこ…出るのか !? 」
「そっちのリアクション !? 」
「ボクはそういうの弱いんだよ。気が重くなるなあ。夜勤だけ断れないかな」
「危害を加えられるわけじゃないから怖がる必要ないでしょ」
「亡くなった人が目の前に現れたら、恐いでしょ」
「…それが全然そういうふうじゃなくて…私、おかしいのかしら?」
「鞠江は普通の子とは違う…僕の父が亡くなることも予知していたんだろ?」
「・・・」
「いつも入院中の父の容体を聞いて来たのに、昏睡状態に入ってからは聞かなくなった。昏睡から一週間後に父は亡くなった。その翌日、鞠江はボクに『禅乃楼』の存在を教えてくれたよね。見たんでしょ、予知夢。こうなることも知ってたんでしょ?」
「私は、みんながそうだと思ってた。だけど、みんな、そんな夢は見ないのよね。私は、見た夢の後をなぞって行くだけで何も出来ない。精々、ターちゃんのお父様のご遺体を預かってくれることになる『禅乃楼』の存在を教えることぐらいしか出来ない」
「それだけで充分だよ」
「でも、教えなくてもターちゃんが自分で見付けたかもしれない」
「多分、見付けられなかったと思う」
「なら、良かったけど」
「また何か見るんじゃない? このまま黙っていて、見た夢が大丈夫なことだったら、このままでいいんじゃない?」
「大丈夫じゃない夢を見てしまったら?」
「そしたら…その時、一緒に考えようよ」
数日後、鞠江はめずらしくげっそりした顔で現れた。
「どうした !? 」
いつの頃からだろう。ふたりの待ち合わせ場所は『牡丹』になっていた。忠哉が『牡丹』のマスターでもある牧口常三との連絡係となって以来、何かといえばこの店を利用するようになって久しい。しかし、牧口の部下でもある久野香奈枝と梨咲に関する深刻な内容の夢の件は、流石にここでは話題に出せない。ただならぬ顔色の鞠江を見るなり、忠哉は淹れ立てのコーヒーもそこそこに牧口から受け取った書類を手にすぐに席を立った。
「もう帰るのかい?」
コーヒーがまだ手付かずの忠哉に牧口が声を掛けた。
「すみません、折角淹れていただいたのに」
「ま、いろいろあろう」
牧口は深入りせずに自分の仕事に戻ってくれた。
店を出たふたりは『禅乃楼』近くにある桜の樹木に囲まれた公園の片隅のベンチに腰掛けた。
「このままでは香奈枝さんと朔太郎さんが殺されるかもしれない」
「見たのか、夢 !? 」
「怖かった」
「誰に殺されるんだ !? 」
「・・・」
「…社長か…あり得るよな」
鞠江は頷いた。ふたりは沈黙した。早朝から数人の老人たちが樹木の根元に枯葉を掃き寄せていた。
「でも、今は真相を知らないよね…真相といっても鞠江の夢ではあるけど…どうやって真相を知るんだろう?」
「朔太郎さんが御守を捜しに来たことで、朔太郎さんを疑っているのかもしれない」
「じゃ、香奈枝さんはどうして殺されることになるんだろう? 朔太郎さんから強引に聞き出すということ?」
老人たちの作業の範囲が近付いて来たので、ふたりはその場を離れるしかなかった。『禅乃楼』に向かう足が重かった。
「おかしなことだけど…聞いてもいいかな?」
「なに?」
「夢の続きって観ようと思えば見ることが出来るの?」
「何なの、それ?」
「見ることが出来るなら、次の夢で朔太郎さんに、社長に首吊りロープを見せるよう頼んでみたら? 朔太郎さんが首吊りロープを保管したのは、梨咲さんが自殺したことで徹人さんが傷付くより、殺されたと誤解させた方がいいと思ったからじゃないかな? 全部袴田の所為にしたほうが、まだいいと思ったからじゃないかな?」
「朔太郎さんは、香奈枝さんの犯行を隠すために必死なだけだったと思う」
「…だよね」
『禅乃楼』が見えて来た。建物への坂道を歩きながら、ふたりは絞首刑台に向かう心境だった。
「どうにもならないのかな…」
忠哉の言葉が空しく籠った。
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