第13話 縁の呪縛
執行猶予で釈放された袴田は、ホテル袴田に戻るしかなかった。フロントの西垣が血相変えて出迎えた。
「社長、やばいです!」
「なんだよ、兎に角こっちは風呂に浸かりてえよ」
「
「・・・!」
「強制送還の出国前に泡吹いて…」
「強制送還 !? 」
「何がどうなってんだ!」
西垣を怒鳴ってもどうにもならないことだった。
「くそっ」
日々、西垣を威圧したところで一向に手に入らない覚醒剤に苛々が募っていた。そんな時、街で偶然鞠江を見かけた。
かつて袴田は片思いの逸子を鉄冶郎に娶られたのを機に、宮園家の “女” に病的に執着するようになっていた。徹人の妻・佳桜里母子への執着は、元を糺せば逸子に対する喪失感の成せる業だった。袴田は梨咲が自分と血の繋がった娘であることは認識していない。佳桜里はDNA判定でその事実を知ったが、袴田には告げていない。事実を知らない袴田は娘の梨咲に酷似している鞠江に執着するのは時間の問題だった。そして街で見かけた袴田の性癖は牙を剥いたのである。
袴田が跡を付ける鞠江は『禅乃楼』に向かう途中だった。『禅乃楼』に近付くと、鞠江の前を歩く永久子とくぬぎを発見した。すると、鞠江が急いで二人に追い付き声を掛けたのを見て、“おやっ !? ” と思った。そのまさかだった。袴田の心は躍った。
「おい、おい、柳の下に泥鰌が三匹も…今日はツイてる」
永久子とくぬぎは鞠江と仲良く『禅乃楼』に入って行った。袴田はどうしてもその真意を確かめたくなったが、徹人に対する恐怖がそれ以上『禅乃楼』に近付くことを拒んだ。
「くそっ」
袴田は取り敢えず引き下がるしかなかった。
深夜、袴田は建物の周りをウロウロしていた。『禅乃楼』は遺体安置も受け入れている旅館である。フロントには24時間人が居る。ドアがオープンされてはいるものの、袴田は正面から入れない。周りをウロウロしている姿が監視カメラにしっかり納められている事などには気が回らなかった。監視管理会社の警備員が駆け付け、不審な動きをしている袴田をあっと言う間に取り押さえた。
その顛末が書斎で調べ物をしていた徹人に報告された。
「そうですか…では、警察を呼んでください」
巡査部長の戸田啓蔵と部下の仁科文隆がパトと連なって駆け付けて来た。
「袴田、仮釈初日にゴタは困るな。こっちの面目丸潰れだろ」
そう言って袴田を乱暴に仁科に押しやった。
「一晩で務所に逆戻りだな、袴田」
そう言って仁科は辛辣に袴田をパトの後部座席の奥に放り込んで見送り、徹人と話をしている戸田の元に急いだ。
「その後、如何ですか?」
「何がです?」
「聞くところによると、袴田の奥さんと娘さんはこちらで働いているとか…」
「ええ、シェルターを出なきゃならないというんで、私に出来ることといえば、それぐらいしかないですから」
「その事を袴田は知っていました?」
「奥さんと娘さんは袴田のDVから逃れている身ですから、知っているはずはないと思いますが…」
「なぜ深夜に忍び込んで来たんでしょうね」
「それは本人に聞かないと…他界した父とは親しい間柄でしたから、忍び込む理由はないと思うんですが…」
「今日は遅くまでこちらでお仕事ですか」
「日中は旅館の仕事で手一杯ですから、父の遺品整理の時間は夜しかなくてね。母は高齢ですし、一人息子の私がコツコツやるしか…」
「お父様は著名な作家ですから遺品整理は大変でしょうね」
「監察の仕事に比べれば楽なものですよ」
「宮園さんの監察官としての武勇伝は私も聞き及んでいます」
「武勇伝などありませんよ」
「納得がいかないと絶対に方針を曲げないんで、先輩たちはいつも翻弄されたと…あ、すみません。宮園さんはやるべきことを妥協せずにやっていらしただけですよね」
「
「…気を付けます。では私どもはこれで」
「あの…」
徹人は帰り掛けた戸田を止めた。
「今後、袴田が釈放になる日はご連絡いただけませんか?」
「ご存じだと思いますが…刑務所で出所日を通知するのは検察庁で、警察には通知されないんですよ。検察庁の担当者に加害者の氏名、罪名、生年月日と裁判年月日を告げれば比較的容易く…」
「戸田さんだから便宜を図ってくれるんじゃないかと思ってご相談したまでです。今日のようなこともありますからね」
戸田は困った顔をしていた。
「戸田さんにご無理言っても仕方ありませんよね。こちらで気を付けます。今日はご苦労さまでした」
徹人に話を打ち切られた戸田は、後味悪く『禅乃楼』を去って行った。
やはり、真実を話さなければいけないと思いつつ、伺おうと深夜になってしまった朔太郎は『禅乃楼』の手前で足を止めた。パトの前に仁科が立っている。何かがあったのだろうか…入るかどうか迷っていると苦虫を咬んだ戸田が出て来た。ふたりは何やら二言三言交わしてから車に乗り、去って行った。入れ違いに『禅乃楼』に入ろうとしたが、どうしても歩が進まない。
あの日…見てしまった。その女は逃げて行った。朔太郎は茫然と立ち尽くした。目の前には痛々しい索条痕の梨咲が虫の息で倒れている。はたと梨咲を抱き寄せた。梨咲の意識は既にない。
「梨咲ちゃん!」
朔太郎に抱かれた梨咲は静かに目を開けた。
「…梨咲ちゃん…赦してくれ…私には…」
大きく一息した梨咲の目は閉じることはなかった。その目はもう黄泉の国にある。朔太郎はそっと梨咲を床に下し、急いでその場を去った。
朔太郎は『禅乃楼』を離れ、とぼとぼと歩き出すと、向こうから香奈枝がやって来た。
「香奈枝さん!」
「今日は友引じゃないよね」
「・・・!」
「朔太郎さんはもう…限界よね」
香奈枝も朔太郎と同じ目的でここに来ていた。
「徹人さんには?」
朔太郎は首を横に振った。
「そう…会わないで帰っていいの?」
「・・・」
「見たんでしょ?」
「やはり…私さえ黙っていれば」
「梨咲に罪はないのよね…でも私にはどうしても抑えられなかった。この先、不幸が待っていると思うと、あの衝動を抑えられなかった」
「…このまま…きっと、このままがいいんです」
「…私にはどうしても許せなかった」
「分かっています…あなたが佳桜里さんを憎む気持ちは…」
「・・・!」
「お父さんから聞きました。幼い頃から佳桜里さんが第一だったんですよね」
「何でもお姉ちゃん、お姉ちゃん…私が好きになった人までみんな取って行く。私はいつも我慢。何でも二の次…大人になってまで…もう、うんざりだった」
香奈枝は姉との厚い確執があった。
「徹人さんとも、最初、私が付き合い出したのに、姉がしゃしゃり出て来て、私から奪い取ったの。佳桜里は袴田にレイプなんてされてない」
「・・・ !? 」
「自分から袴田に近付いたんだもの。私が徹人さんと付き合い出したことを知ると、姉は私に近付いて来た。私に差を付けたくて袴田に近付いたの。当時、袴田は羽振りが良かった。荒れ放題の『禅乃楼』とは比べ物にならないくらい繁盛していた。佳桜里が欲しがると何でも買い与えた。でも、姉は幸せそうなわたしが気に入らなかったの。そして、強引に袴田から徹人さんに鞍替えしたの。姉との三角関係なんて…徹人さんにそんなみっともない姉妹の姿なんて見せたくなかった。私は身を引くしかなかったのよ。でも、私は徹人さんを愛してしまってた。姉が妊娠したことで、もし袴田の子だったら、姉の人生をめちゃくちゃにしようと決心したの」
梨咲が幼稚園に入る頃、香奈枝は徹人と梨咲のDNAを鑑定に出した。
佳桜里の前に親子DNA鑑定の結果書類が出されていた。
「何故打ち明けないの、お姉ちゃん!」
「あんた、こんなことを…私の事には拘らないで!」
「このまま徹人さんを裏切り続けられると思ってるの !? 」
「私の事は放っといてと言ってるでしょ!」
「あの子…徹人さんの子じゃないのよ!」
「私の家庭を壊さないで! あなたはどうしても私と徹人さんを別れさせたいんでしょ。そしてあなたが徹人さんと結婚したいのよね!」
「…お姉ちゃん…最低…」
「あんたも最低よ!」
「あの子が大きくなったら父親に似て来るのよ。徹人さんには似ないのよ」
「その時はその時よ」
「あの子はどうなの !? あの子は大きな悩みを抱え込んで生きることになるのよ!」
梨咲が立っている。
「ママ、“あの子” って誰?」
「梨咲ちゃんの知らない子よ」
「そうなんだ」
香奈枝は梨咲に厳しい表情を向け、その場を去って行った。
「香奈枝おばちゃん、怒ってるの?」
「ちょっと喧嘩しただけ」
佳桜里は慌てて鑑定書を片付けた。梨咲の目はじっとその書類を追っていた。
ふたりは『禅乃楼』を背に歩きはじめていた。
「私は狂っていたわ。佳桜里も梨咲もいなくなれば、徹人さんは元どおりになると思ってしまっていた。あの子の首を絞めた時、“おばちゃん、ありがとう”って言ったの。梨咲は袴田の子であることを知って苦しんでいた。本当に抵抗せず、段々無表情になっていった」
朔太郎は、冷静さを失いかけた香奈枝の腕を掴み、取り敢えず『禅乃楼』から遠ざかろうとタクシーに乗った。タクシーの中の二人は無言だった。
「どちらまで?」
「新宿ゴールデン街」
朔太郎はとっさに運転手に答えた。香奈枝が不審げだということは分かっていた。
「知り合いがお店やってるから…」
「朔太郎さんはそんなとこにも出入りしてるの?」
「…まあ」
タクシーはゴールデン街の入口で停まった。路地に入ると隣接した街とは雰囲気が一変した。狭い間口に見慣れない看板が犇めき合っていた。閉じて久しい店もまばらにあった。その先に『ばっけ』という馴染みのない名の古い看板が見えて来た。朔太郎はその店の前で止まった。
「ここなんだ」
「 “ばっけ” って、どういう意味かしらね?」
朔太郎は微笑みながら店のドアを開けた。
「いらっしゃい…約束どおり、貸切にして置いたわよ」
朔太郎は無言でいつもの席らしいカウンターの奥に座った。
「女将のミキで~す」
「藤島幹夫っていうんだ」
「あら、いきなり本名をばらす !? 」
「私のパートナーなんだ」
「衝撃 !! それもばらす !? 」
「彼女は久野香奈枝さん。徹人くんの無くなった奥さんの妹さん」
「あら、そうだったの? なんか、今夜はお話が募りそうね」
「私の事なんか…どうでも。それより、お店の名前…“ばっけ” って?」
「話せば長くなるわよ」
「聞きたい」
「だと思った」
「調子いいよ、ミキちゃん…あ、いつも、ミキちゃんって呼んでるから」
「あたしはサクって呼んでるのよ」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
「だよね~」
女将は “ばっけ” について話し出した。店の名の由来には哀しい想い出があった。藤島幹夫に対するいじめは小学生に上がってから更にひどくなり、中学になってもやむことはなかった。学校帰りに殴り付けられて雪の坂を転げ落ちながら、何かが手に引っ掛かり夢中で掴んだ。ひとつ、ふたつ、みっつめに引っ掛かったもので体が止まった。流れの速い農業用水路に落ちる寸前だった。手元を見ると雪の下で芽を出した “ばっけ” だった。田舎で言う“ふきのとう” のことだ。“ばっけ” は雪の下で逞しく芽吹く。きれいな黄緑の葉が雪解けに咲く花を包んでじっと春を待って耐えている。幹夫は秋田の片田舎の出だった。この土地は貧乏が理由でいじめられる。学校も先生も近所の住民も全てが貧乏を蔑む。貧乏な家に育った幹夫はいつもどこでも誰からもいじめの対象だった。幹夫は中学卒業後、満を持して故郷を飛び出した。ところが中卒という学歴が貧乏以上に幹夫に立ち塞がった。洗礼の末、流れ着いたのがこの新宿ゴールデン街だった。ゴールデン街は弱った幹夫に優しかった。雪解けまで長かったが、やっと幹夫はゴールデン街の片隅で小さな “ばっけ” の花を咲かせることが出来た。
“ばっけ” の花咲く店は居心地のいい時間だった。早朝の “ばっけ” 前で女将は言った。
「秘密は真実を包む愛よ。真実で人を傷付けるのは、あたしは嫌い」
香奈枝は哀しい笑顔で頷き、朔太郎とも別れてゴールデン街を後にした。
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