第11話 面会

 妻の永久子は、徹人の紹介した弁護士・井花力に伴われて刑務所の面会に訪れた。

「あなた、元気?」

 永久子はそう言って、視線定まらない袴田にこっそり徹人の写真を見せた。袴田の視線はその写真に釘付けになった途端、狂ったように戦いて椅子から転げ落ちた。

「許してくれ! 許してくれ!」

 七転八倒して暴れ回る袴田に弁護士は驚いた。

「袴田さん! どうしたんですか!」

 袴田はもがきながら看守に押さえ付けられ、連れて行かれた。弁護士が気が付くと、既にそこに永久子はいなかった。井花の手には永久子から預かった離婚届け用紙が握られていた。

 夫の薬物中毒を理由に離婚するには結構面倒である。一般的に薬物中毒は回復可能と考えられており、離婚事由になる “回復し難い精神病” と位置付けられてはいない。薬物中毒も前科もすぐには離婚理由として評価はされない。もし夫の公判に妻が “情状証人” として出頭していようものなら、妻には夫婦を続けていく気持ちがあると判断され、婚姻関係は破綻していないと評価される可能性がある。離婚事由になるのは、殺人やレイプなど社会的非難が強い犯罪であるため、永久子の場合、家庭内別居状態であること、夫からDVを受けていること、及び大志田波琉との不貞の三点が離婚事由の対象となる。

 また、覚醒剤について言えば、法的には “医師が覚せい剤患者について警察に通報することが守秘義務に反しない” と考えられている。『覚せい剤取締法』は、麻薬及び向精神薬取締法に対する扱いと違い、医師に届出の義務はないということだ。勿論、覚醒剤患者本人の了解を得れば届け出る選択肢はあるが、医師が薦めたことを逆恨みし、医師の命が危険に曝されるリスクがある。

 徹人の親友でもある医師の有原優順は、袴田の主治医を務めていた。当初から袴田が覚醒剤を常用していることは尿検査によって分かっていた。有原はかつて袴田の名を伏せて徹人に相談したことがある。徹人は患者に届出の了解を得ようとする有原を止めた。同時に徹人は、その患者が袴田であることも直感した。


 永久子の面会から3ヶ月が過ぎた。袴田は永久子の離婚請求を拒んだまま離婚調停に持ち込み、温い『覚せい剤取締法』によって初犯という無意味な結審が成され釈放された。袴田はその足で永久子を血眼で捜し歩いた。

 雲を掴むような時が過ぎた。無駄足のあとはホテル袴田に戻って、事務所で酒を煽る日々が続いた。

「奥さん、変なとこに居ましたね」

 フロントの西垣安治がポツンと呟いた。西垣はたった一人残ったホテル袴田の従業員である。

「あ、そう…」

 何気なく西垣の言葉を聞き流した袴田が、突然立ち上がった。

「おまえ、今なんて言った !? 」

「え !? 」

「今言ったことだよ!」

「すいません、オレ、何か失礼なことを言いました !? 」

「そうじゃない! 今言った女房のことだよ!」

「ああ、奥さんがスーパーで働いてたって話ですね」

「スーパー !? どこの!」

「街外れのスーパー佐久間です」

「そこで働いてたのか!」

「ええ、声は掛けませんでしたけど…」

「そうか…そんなところで働いていたか…」

 狂気だった袴田の表情を見た西垣は、その時になって自分の発言を後悔した。袴田はスーパー佐久間に急いだ。

 永久子はパートを終え、スーパー佐久間の従業員出口で娘のくぬぎを待っていた。少しするとくぬぎが出て来た。

「いつも遅いわね。もう少しさっさと出て来れないの?」

「お母さんみたいに要領よくないからしょうがないでしょ」

 ふたりはいつものようにシェルターに向かったが、万が一の注意を受けていた。毎日往復とも必ず違う道を通ることと指示されていた。今日は遠回りの道を歩いていた。

「お母さん、後ろを見ないで私の話を聞いて」

 思わず永久子が後ろを見ようとするのをくぬぎは強く遮った。

「駄目!」

「…どうしたの?」

「お父さんが付いて来てる」

「… !! 」

「…どうする !? 」

「シェルターには帰れないわ」

 ふたりの足はシェルターに帰ることをやめるしかなかった。

「おかあさん、どうしたらいい?」

 考えていた永久子がくぬぎを見た。

「付いて来て…気付いてない振り出来るよね」

「うん! お母さんこそ大丈夫 !? 」

 永久子は真っ青になりながら純喫茶『牡丹』に向かった。平静を “装って” 歩くことがこんなにつらいことだとは思わなかった。数十メートルほどの距離が何キロにも思えた。純喫茶『牡丹』が見えて来た。ふたりの足は自然と速くなっていた。ふたりの歩く速度が速まったことで、袴田は付けているのを感付かれたことを察知した。仕方なく追い付いて強引に今の住まいを聞き出すしかなくなった。

 袴田が小走りになった。絶対に追い付かれてはならないと、くぬぎは叫んだ。

「お母さん、走るわよ!」

「だって、これ夕食の荷物が…」

「そんなの捨てて!」

 くぬぎは永久子から荷物を奪い取って、後ろに投げ飛ばした。

「このやろう! 逃がさねえ!」

 袴田はグングン近付いて来た。

「追い付かれる! くぬぎ、先に行って!」

「駄目! お母さん、走って!」

 もう少しで手が届きそうになったところで、突然、袴田の足が止まった。目の前に徹人が現れ、永久子とくぬぎはそのまま純喫茶『牡丹』に入って行った。

「・・・!」

「死神の子守歌、聞く?」

 袴田は狂ったように喚いて逃げ去って行った。


 徹人と牧口に伴われて永久子とくぬぎは『禅乃楼』別館フロントに現れた。鞠江はその異常をすぐに事務所の逸子に伝えた。逸子は本館に来ている久坂に連絡すると、久坂と一緒に安藤も飛んで来た。

「奥さんたちが袴田に追われた」

「オレ、見て来る!」

 安藤が飛び出して行った。


 打ち合わせルームの永久子とくぬぎは恐怖に怯え、震えが止まらないでいた。逸子が紅茶を入れて入って来た。

「何も心配することはないのよ…大丈夫。さ、熱いうちにね」

 逸子も紅茶を啜った。

「おいしいわよ」

 永久子とくぬぎは逸子に倣った。会話がないながら、穏やかな時間が流れた。 徹人と久坂が入って来た。

「少し、落ち着きましたか? 私のところで働きませんか? 住まい付で」

「そこまでしていただくのは…」

「ここにはあの男は来ません。もし来ても、ここにはこういう強面が何人も居ます」

「あなたに言われたとおり、面会の時に弁護士さんに分からないようにあなたの写真をそっと見せただけで、あの人は怯えて椅子から転げ落ちました」

「袴田さんは、そのぐらい私の顔が大嫌いなんですよ。もっとひどいのも居ますけどね」

 と、久坂を見た。

「おい」

 そこに息の上がった安藤が入って来た。

「この辺にはいません」

「ああいうのも居ます」

 くぬぎが噴き出した。つられて全員噴き出した。

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