第10話 死神の子守歌
久坂はホテル袴田前で、小松は袴田の自宅前で帰りを張っていた。当の袴田は自宅の方に現れた。
「やつはこっちに来た」
「すぐ行く」
小松から連絡を受けた久坂は、徹人に連絡を入れて袴田の自宅に向かった。袴田が部屋に入るなり小松は強引に押し入った。
「なんだ、おまえは!」
小松はいきなりスタンガンを見舞った。
「この感覚、懐かしいだろ。今日は大サービスのお注射ね」
倒れた袴田に間髪入れずに筋弛緩剤を注射した。
「袴田さん、あんた大志田波琉を殺っちゃったね」
目を見開いた袴田の体が麻痺していくとは言え、小松にはその混乱ぶりの醜態が笑えた。徹人ら三人が合流し、袴田への拷問が始まった。
「袴田さん、『禅乃楼』を乗っ取れなくて残念だったね。悪運の尽きる記念に、オレのこの顔をいい思い出にしてやりますね。それから、妻の分とあんたの愛人の分…」
袴田は必死に助けを乞う目で戦いた。
「それから…オレの娘の分…」
そう言うと、袴田の表情はさっきと違って強い反応を示したので、徹人は “オヤッ” と思った。しかし、袴田には瀕死の体験を繰り返すと決めていた。筋弛緩剤で動けない袴田の顔にビニール袋を被せた。間もなく痙攣が始まり息が絶えそうになると、徹人はその手を緩めた。
「ま~だだよ。 “死神の子守歌” は3回聴いてもらう。今のは殺したばかりのあんたの愛人の分な。次は、オレの妻の分」
そういって同じ作業を繰り返した。徹人は、窒息から心停止して完全に死に至るまでの時間を “死神の子守歌” と呼んでいた。筋弛緩剤で動けない袴田の目は充血し、2度目の “死神の子守歌” の地獄を見ていた。
「さて、最後は娘の分だよ、袴田さん。ちょっと長いよ」
袴田はまた1度目、2度目とは違う、徹人が “オヤッ”というような反応を見せた。3度目のビニールが袴田の顔を覆った。徹人の残酷な様を見ている小松は、高校時代のワルの頭そのままを彷彿とさせる徹人を思い出し、半ば鳥肌物でほくそ笑んでいた。
「おまえ、監察医になってから輪を掛けて性質が悪くなったな」
「オレは優しいだろ、こうして何度も子守唄を聞かせてやってるんだから」
「怖え~…さて…今度はオレの番だな」
小松は、朦朧としながら半ば痙攣している袴田の腕を取った。
「では、少し元気にしてさしあげますね。お客様は少し血管が細いですね。でも私は看護師ですのでご安心ください」
駆血帯を巻きながら小松は多弁になった。
「男の看護師って昭和の高齢者にはまだまだ存在価値に違和感持たれますけど、医師に成れなかったから妥協して看護師になったわけじゃありませんよ。看護師になりたかったんです。だって目の前の患者さんを毎日好きに出来るでしょ。あんたみたいな性悪ジジイには、わざと注射をミスることだって…あら、ごめんなさい」
袴田の腕に何度もグサグサと針を刺した。
「今日は調子が悪いや。痛いでしょ? 5回以上続けて注射をミスると、だいたい患者はへたれて “もうやめてください” ってキレるか懇願するんだよね」
袴田は体が動けない分、激しい息遣いで許しを乞うた。
「そんなに燥がないで。お遊びはこれくらいにしようね。ほら、これ! あなた、これ大好きなんでしょ?」
覚醒剤が注射されて間もなく袴田にバーチャルな正気が戻った。
「ほら、少し元気が出て来たでしょ。でも、今日はもっと打ってあげるね」
袴田はよりバーチャルな世界に突入し、その表情は生気を失って行った。
「さて、仕上げだ」
徹人は瀕死の袴田の首にロープを掛け、トイレのドアの取っ手にきつく結わえ付けた。死体に死後の偽装は出来ない。徹人は袴田が生あるうちに警察に発見されることを予測して拷問に区切りを付けた。
警察に袴田の件でリークの一報が入った。
「袴田の自宅の様子がおかしいと近所の住人から…」
「誰から!」
「関わり合いになりたくないと名乗らずに、切れました」
「星じゃねえのか、面倒臭えな」
巡査部長の戸田啓蔵は舌打ちをしたが、袴田は覚せい剤使用疑惑の渦中にあったことで、部下の仁科文隆を連れて袴田邸に飛んだ。管理会社に鍵を開けさせて中に入ると、トイレのドアの取っ手で首吊りをしている袴田を発見した。
「まだ息があります」
「首が折れないように気を付けて外せ!」
戸田は鑑識を呼んだ。袴田は救急車で搬送されて行った。
「…これは!」
鑑識が覚せい剤の使用後を確認した。室内が捜査され、大量の覚醒剤も発見された。
病院で一命を取り留めた袴田だったが、正気を取り戻したわけではなかった。薬物中毒が判明し、逮捕、措置入院となった。
覚醒剤取締法違反の場合、「罰金刑」はないが必ず懲役刑となる。略式起訴もなく、通常の刑事裁判である。営利目的の場合は、所持や使用でも1~20年を限度とする有期懲役となり、500万円以下の罰金を付加されることもある。
徹人らは『禅乃楼』に戻っていた。本館書斎はすっかり徹人らの対策本部になっていた。
「覚醒剤の罰則はだるいんだよ。1年もしたら袴田は娑婆に出て来やがる」
「出て来たら、徹人はまた “死神の子守歌” を聞かせてシャブ漬けにしてやるだけだろ」
「確かに袴田に選択肢はねえな。 “徹人” という死神に憑りつかれちまったんだ。これからも生きている分だけ苦痛を味わうだけだ。お可愛そうに」
「袴田はもう前後不覚の精神状態らしいじゃないか?」
「いや、そうじゃないさ。やつの脳は常に “徹人” という死神からの恐怖に戦いているんだよ。お薬一本打てば、またキチガイに戻るあぶねえ野郎だ」
徹人は “対策本部” に帰ってから終始無言だった。
「徹人…どうかしたのか?」
“…んー” と唸ったきり、徹人はまた考え込んだ。袴田の“オヤッ”と思える反応と、逸子の拾った落し物の御守が引っ掛かっていた。
徹人は袴田が釈放されて出て来る前に、袴田の妻・永久子と接触し、袴田の今に関する調査書類を永久子に見せることにした。袴田の妻は街外れの量販店に勤めていることが分かっていたので、『禅乃楼』近くの喫茶店『牡丹』で会う約束が取れた。永久子はやつれた顔で現れた。マスターが永久子を徹人の元に案内して来た。マスターの牧口常三は香奈枝の探偵事務所のボスであり、鉄冶郎の甥である。普段はこの喫茶店をアジトに、キナ臭い連中を動かして情報収集していた。
「社長…袴田永久子さんです」
徹人は疾うに永久子の事は把握していたが、袴田康臣の一被害者として会うために一般市民を繕った。
「主人が大変ご迷惑を…」
「奥様を責めるつもりでお会いした訳ではありません。この書類を見ていただきたいのです」
永久子は袴田の調査書類に目を通した。調査書は梨咲の死のみを削除していた。永久子は袴田の行状に驚くこともなく、ただ項垂れていた。僅かな呼吸の乱れは、必死に怒りを抑えているように見えた。
「私にどうしろと…」
「そうではありません。お困りのことがあるのではと」
「…え !? 」
「この調査書には奥様の事はありませんが、某シェルターに保護されていることは把握しています」
「…!」
「ご安心ください。私どもはその事をどうこうと干渉するつもりはありません。ただ、袴田康臣はもうすぐ釈放されます」
永久子は動揺した。
「奥様がお察しのように、彼はあなたの居場所を必死に探すはずです」
「私はいつまでもシェルターに身を隠したままで済むとは思っていません。あの人は必ず捜し出します」
「私もそう思います」
「でも、どうしていいか…早く自立の道も見付けないといけないんですが、どうしていいか分からないんです!」
徹人は冷め切ったコーヒーを一口啜った。重苦しい空気にカップの音が響いた。
「どうでしょう…離婚など考えておられるなら、弁護士を紹介します」
「・・・」
「もし、袴田が目の前に現れたら、この喫茶店に逃げてください。ここは人目がありますから、袴田に勝手なことは出来ません。ここのマスターは私たちの仲間です。彼はすぐ近くにある私の経営する『禅乃楼』に導いてくれます」
「どうしてそこまで私を…」
「同じ被害者だからです!」
永久子はこれまで、たったひとりの疫病神に追い詰められて生きて来た。DVに遭っている者に対する社会の目は冷たい。関わることを拒む。徹人の言葉に永久子は藁をも掴む思いで縋りたかった。一方で、強い警戒心もあった。
「…分かりました」
そう言って一礼し、永久子は席を立った。出口の貝殻ドアチャイムが揺れ終わる頃、牧口が近付いて来た。
「徹人さん、彼女、どうしますかね?」
「袴田の次の餌食は彼女しかいない。クソ野郎には一切の気晴らしはさせない。来たら、連絡してくれ。あとは手筈どおりに」
徹人は、猫がゴキブリを弄ぶように、袴田には最期まで生かさず殺さず “死神の子守歌” をプレゼンするつもりだった。
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