第6話 梨咲の幻影
袴田は街で梨咲を見掛けたと言って『禅乃楼』本館の事務室に居る徹人のもとに興奮気味に駆け付けて来た。
「梨咲を?」
「この前の通りで擦れ違ったんだ」
徹人はとっさに答えた。
「声を掛ければ良かったのに」
「入院してるって言うから人違いだと思ってね…でも間違いなく梨咲ちゃんだった。向こうはあっと言う間に通り過ぎて行ったんだよ」
徹人はとっさに、自転車でアルバイトに通って来ている鞠江と梨咲を勘違いしていることに気付いた。
「梨咲ちゃん、いつ退院したんだい?」
「退院 !? 退院なんかまだまだだよ。この間、見舞に行った時、どうしても祖父ちゃんに線香上げたいって言ってたからね。病院を抜け出してこっそり線香を上げに来たんだろう。無理はするなって言って置いたんだが…」
「自転車に乗れるまでに回復したのかね?」
「自転車 !? 病院からは自転車で来てたのか、知らなかったよ」
「…そう…で、退院はいつ頃なんだい?」
「退院? だからそんな状態じゃないよ。相当無理して来たんだろ」
「何事もなく元気そうだったけどな」
「負けん気が強い子だから、病院に帰ったらまた動けなくなるかもしれないね」
「なんか話したかい?」
「だから会ってないんだよ。病院以外では会ってないんだ。私も今帰ったばかりだし、線香だけ上げて帰ったんじゃないかな。そう言えば、変な時間に線香が燻った跡があったから、母なのかと思っていたけど、梨咲だったんだな、きっと。会えば私に怒られるからね」
徹人は笑って誤魔化した。奥に立って居る逸子に気付いた袴田は急にそわそわし出した。
「梨咲ちゃんに会ったんですって? 昔の片思い女にでもあったような興奮ぶりだね」
「え、いや…」
「元気そうで安心したわ」
「逸子さんは会ったんですね」
「ええ、じっくり話したわよ」
「何か言ってましたか?」
「ええ、言ってましたよ」
「そうですか、お話が出来て良かったですね」
「ええ、とても重要なことを話してたわね」
「…重要なこと?」
「ええ、とても重要なこと」
「…そうですか」
逸子の袴田を見据える視線のきつさに話が途切れ、場の空気が圧縮した。
「それじゃ…仕入れの途中なんで」
袴田はその場から弾き出されるように本館事務室を後にした。
「鞠江さんを梨咲ちゃんと勘違いしたようね」
「そっくりだからな。西園寺くんが連れて来た時にはびっくりしたよ」
「梨咲ちゃんを殺したのはあの男よ。あの男はきっと鞠江さんを襲う」
「母さん、まだ証拠がないんだ。疑いがあるだけで勇み足をしたら元も子もなくなる」
「その考えは甘いわよ、徹人。鞠江さんにもしものことがあったらどうするの!あの男は犯人よ。すぐにでも梨咲ちゃんの口を封じようとする。つまり、鞠江さんは今から危険に曝されたのよ」
徹人も想定していたことだ。それが早くやって来た。袴田を警察に引き渡さずにどう残虐に料理するか…
「友達はいいものよね」
逸子はそう言って奥に消えて行った。“友達はいいもの”…徹人にはその言葉の意味が充分分かっていた。母は厳格な父とは正反対の性格だった。目的のためなら手段を選ばず、時に非常識と思えるほどに思い切った行動に出る人だった。父はそういう母の生き方に魅了され、強引なまでに物事を解決していく母の行動には一言も苦言を呈しなかった。徹人がぐれて軌道を逸した時、烈火の如く怒った父とは逆に、“バカじゃないのなら自分のマイナスになることだけはするな” と徹人のワル仲間を全員大切にしてくれた。“自分のマイナスになること” とは如何なることなのか…それを理解するまでは随分と遠回りをしてしまった。それが未だに繋がっている久坂淳也と小松憲にしても同じだった。彼らは徹人の高校時代の暴走族仲間だった。久坂と小松はそのまま地元暴力団『日吉組』に入った。組長の日吉武尊は昔気質の俗にいう弱きを助け強きを挫くがモットーだったが、息子の寿雄は地元ではどうしようもない我がままに育った。若頭の滝澤國男の息で舎弟頭の佐竹巖や
学生時代は厳しい父親の睨みへの反抗心で久坂や小松とつるんで暴れていた徹人は、逸子への恩返しのつもりで彼らとは真反対の警察組織に入ることになった。暴対法が緩い頃に属していた久坂らの組織は、取締りが厳しくなり解散となった。若頭の滝澤は老いた組長を見切り、舎弟頭と数人の舎弟を連れて組を離反し『
久坂と小松は『寿連合』壊滅を機会に、逸子の協力で探偵事務所を設立し、運営が軌道に乗った或る日、徹人の新規事業を知り、恩返しの協力を申し出て来た。ヤクザから足を洗ったとは言え、彼らの正義感は妙な方向も向いていた。一般の詐欺や浮気調査に飽き足らず、“ブラインドボックス退治” にも目が向いていた。ブラインドボックスと、珍しいペットを期待して買い手が興味半分に購入する “ペットガチャ” の闇販売業者で、配送されたペットが期待外れで気に入らないと返送するケースがあったり、返送はまだマシで、ペットを廃棄処分業者に処分させるという身勝手な買い手の現実に、久坂も小松も目を瞑れなかった。廃棄されるペットに自分たちの生立ちがダブったのであろう。彼らは闇ペット業者とペットの廃棄に関わった者を殺処分する裏稼業にも手を染めていた。かつて世話になった組長の気質がふたりには脈打っていた。逸子が久坂と小松に探偵事務所を設立させたのは、徹人にその “友達” の出番であることを示唆したのかもしれない。
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