第5話 報復の依頼者
忠哉は鞠江を『禅乃楼』に紹介する日が来た。積極的な鞠江に促されるように『禅乃楼』に向かった。
純和風の老舗旅館とあって、鞠江の想像以上の情緒のある佇まいだった。鞠江は明治からの庭園が至極気に入った。忠哉が父の安置先を探して訪れた時はひどい荒れようだった庭園も、今ではすっかりかつての趣を取り戻していた。本館に続く石歩道に沿って歩くに連れ、お寺のような臭いが漂って来た。
「この旅館、いつもお香を焚いてるのね。お仏壇用のお香の臭いよね」
「最高級の伽羅のお香だそうだよ」
「そうなんだ」
忠哉は『禅乃楼』本館を通り過ぎ、孟宗竹林を挟んだ別館に鞠江を案内した。古式ゆかしい本館と違い、新しい別館内は純和風を現代風にアレンジした内装と、洋風の利便性が融合されたお洒落な佇まいだった。
「遺体がある旅館だと、普通の利用客はどことなく気味悪がらない?」
「一般の宿泊客は本館を利用する」
「そうか」
「それでも抵抗ある客には一瞬で開放してくれるオーナーのお母様の御呪いがあるんだ。ここは “どなたも一度はお通りになる道でございます”ってね」
「 “どなたも一度はお通りになる道でございます”…ばっちり同感!」
「遺体第一号は西園寺家の父です」
忠哉は自慢げに言った。
「たーちゃん、凄いな」
「凄くなんかないよ。成り行きでこうなったようなものだから」
「ここは知らなかった世界というか、確かに知っといたほうがいい世界だよね」
鞠江は忠哉を見つめながらしみじみ呟いた。忠哉はいつもと違う鞠江の熱い視線に狼狽えて不自然な愛想笑いで応えた。
鞠江に会った徹人は、鞠江を見るなり顔色が変わった。逸子が駆け寄って来た。
「梨咲ちゃん! あなた、梨咲ちゃんよね!」
逸子は感極まって鞠江を強く抱きしめた。徹人は必死に冷静を装い、忠哉に訊ねた。
「この方は?」
「あの…僕の幼馴染で、大学も一緒の大園鞠江さんです」
逸子はやっと我を取り戻した。
「ごめんなさい…私…」
「無理もありません。娘の梨咲と瓜二つなんです。失礼しました」
「…いいえ」
「鞠江さんって言ったかしら?」
「大園鞠江です」
「忠哉さん、もしかして !? 」
「はい、受付のアルバイトの件で…」
逸子が目を輝かせた。
「いつから来れるの!」
「母さん、ちゃんとお話ししてから考えてもらわないと。ここはいろいろ他とは違う仕事場なんだから」
「お話は忠哉くんからだいたい伺いました」
「…で、いつから来れるの? こっちは今からでもいいのよ!」
「お母さん!」
「じゃ…今からにします!」
「鞠江…」
「そう、うちは本館と別館があってね。一般客は…」
「私はこの別館を希望します」
「え…でも、ここは…少し慣れてからでもいいのよ」
「ご遺体のお預かりですよね」
「そうよ…それでいいの !? 」
「ええ、それがいいです」
「あなた…変わってるわねえ」
「 “どなたも一度はお通りになる道でございます” って言葉が気に入りました」
「私もあなたを気に入ったわ!」
妙に気が合っている逸子と鞠江を見ながら、徹人と忠哉は唖然と見守っていた。逸子からひととおりの対応説明を受けた鞠江は制服に着替えてフロントに立った。間もなく客が訪れた。
「遺体を置いていただけないでしょうか?」
「何日ほどでしょう?」
「遺体はいずれ警察から帰って来ます」
「警察から?」
「ですが、犯人が見つかるまでは火葬にしたくないんです」
「犯人…」
アルバイト初日に鞠江の想像だにしない客が訪れた。その依頼者は後藤田信和という小柄で猫背の初老紳士だった。
「妻は殺害されました」
「…そうでしたか」
隣に立っている逸子がそっと鞠江にオプションのパンフレットを示した。鞠江はそれを依頼者に差し出した。
「これは?」
「ここにはいろいろなご事情を抱えた方々が起こしになります。万が一の場合でも出来る限りのお力になる準備があります」
逸子が依頼者に優しく伺いを立てた。
「コーヒーをお入れしますから、向こうのお部屋で…」
依頼者は恐縮しながら、個室のソファアに腰を下ろしたが、その視線はパンフレットにある “被害者の無念を晴らします”の文字に釘付けになったままだった。
逸子は鞠江にフロントを任せ、コーヒーを入れて後藤田を通した部屋に入った。
「これは?」
後藤田は早速 “被害者の無念を晴らします” の説明を求めて来た。
「警察の捜査に頼っても、犯人に行き付くまでの期間がどれくらいなのか雲を掴むようなものですからね。ご自身でお捜しになるんであれば早い時期からのほうが宜しいかと思います」
「私がですか !?」
「そうです」
「しかし…警察を頼るしか…」
依頼者はパンフレットのページを捲った。高額の解決料だった。しかし、手が届かないわけでもなかった。それに何より信憑性があったのは “成功報酬” という文字だった。
「成功報酬ということは…」
「ええ、犯人に辿り着けなければ費用は掛かりません」
そう言いながら徹人が現れた。
「宮園と申します」
徹人は『禅乃楼』の名詞を出した。
「私どものほうでも後藤田さんが警察の捜査を待って犯人に辿り着くまでの間、いつまでも遺体を預かるのは本意ではありません。双方のための策でもあるんです」
警察には捜査の遅れを弁解する言い訳は山ほどあろう。依頼者はそうした警察の消極的なもたつきぶりにはうんざりしていた。遺体の預かりはもとより、早期の犯人探しは藁をもすがる思いだった。美しく枯れた逸子と物腰の柔らかい徹人の雰囲気は、後藤田の胸の苦しみを包むオーラを発していた。
「監察医の鏡である上野先生の著書に“自殺の9割は他殺である”という本があります。一般の医師や警察官が自殺や急死と判断しても必ずしもそうではない場合が9割もあるということです。私も監察医です。後藤田さんのお許しがあれば、徹底的にお調べ致します」
そう言って帝南坂大学法医学准教授の名詞も渡した。家業を継ぐため警察に於ける監察医は辞したものの、大学の法医学部の教育業務は続けていた。
「そうでしたか、それなら心強いです。調べてください…私は…出来ればこの手で恨みを晴らしたいくらいなんです」
「お望みなら、その願いも叶えて差し上げます」
後藤田は驚いた。
「勿論、合法的な手段ですがね」
そう言って徹人は微笑んだ。それはパンフレットにはない。後藤田にとっては意外な返答だった。しかし徹人に狂気は全く感じられない。自信に溢れた徹人の目には犯人を見透かしているかのような未来があった。
「私は…お願いしたい」
「承知しました」
後藤田には一点の灯りが見えた。
「結果的に、加害者は自らの手でこの世を去ることになると思います」
依頼者は徹人の意図を察して真剣な面持ちで頷いた。
「私に出来ることがあれば何でもします」
「何もしないことです」
死体解剖の許諾書に署名し去って行く後藤田の後ろ姿は、訪問時とは別人の如く堂々としていた。
アルバイト初日の鞠江が帰ると、徹人は書斎に忠哉を呼んだ。いつものように逸子がお茶を用意して入って来た。
「思っていたより早くやって来たわね」
「鞠江さんがいいタイミングで来てくれたよ」
「あの…ご遺体を預かるだけじゃないんですか?」
「そう、西園寺くん、君にも犯人の調査に加わってもらうよ」
「え…」
「実は『禅乃楼』別館は単にご遺体を預かるだけの旅館にする気はないんだよ。皆さん、いろいろな事情を抱えたまま、或る日突然、ご遺体に向き合わなければならなくなる。当然、今日のお客様のようなケースは少なからずこれからも有り得る。『禅乃楼』はその受け皿にもなろうと思うんだ」
「でも、ボクなんかに何が出来るんでしょう…」
「個人の能力の差なんて人が勝手に決め付けた思い込みだよ。私にはこれまで勤務したブレーンがある。忠哉くんには彼らから少しづつ調査のノウハウを学んでもらいたい。そしていつか、私と同じゴールを目指してもらいたい」
徹人は監察医でもある。警察関係のOBとの繋がりは強く、彼らは今も現役で金になる裏社会を強かに蠢いている。徹人はその名うての連中の中で忠哉を鍛えることにした。忠哉も鞠江の積極的な姿勢に影響されたのか、これまでにない前向きな自分に驚いた。
数日後、忠哉は牧口に呼び出された。そこは『禅乃楼』から程近い場所にあって、『禅乃楼』と同じくらい古くから開業している『牡丹』 という喫茶店だった。喫茶店のドアを開けると懐かしい貝殻ドアチャイムが揺れた。すぐ目に付く所にレトロなピンク電話、その横にはレトロなマッチが多数陳列されたガラスケース、店内に踏み入るやまた足が止まった。天井の其処彼処に吊るされた様々なランプのオブジェ、気が付けば柱時計の振り子が静かに時を刻んでいた。まるで別の時代にワープしたような空気だった。忠哉は昭和を知らないが、これが昭和なんだろうと見とれているうちに “しまった” と思った。牧口常三という男には一度も会ったことがなかった。どうやって牧口を探せばいいのか席を見回していると女性店員が近付いて来た。
「西園寺忠哉さまですね?」
「…はい」
忠哉は警戒した。するとその女性店員は書類の入った茶封筒を渡して来た。
「これを預かっています。事務所でお読みくださいと、牧口常三さまが…」
店員に言われるまま、忠哉は『牡丹』を出て『禅乃楼』に戻るしかなかった。
女性店員に渡されたのは依頼者とその関係者の詳細な調査書類だった。
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