第4話 遺体依頼者
改築後の『禅乃楼』別館には次々と依頼者がやって来ていた。別館の責任者となった逸子にとって訪問者はこれまでに『禅乃楼』を訪れる宿泊目的の雰囲気とは全く違って見えた。旅の期待に溢れているわけもなく、別館を訪れる人々からは沈痛な面持ちが伝わって来る。何と声掛けしていいのか…ただ、優しい微笑みで丁寧に一礼するしかなかった。
誰もが傷付いている。それは身内の不幸ではなく、遺体を安置する先をさ迷い、途方に暮れた後の姿だ。遺体を預かる旅館とはいえ、近隣住民への刺激を避けて、公に宣伝はしていない。徹人の方針で、暫くは口コミでの普及に賭けることにした。旅館名の横に “遺体安置は別館で承ります” の目立たない木彫り看板を添えているだけだった。切羽詰まっている人はその文字に気付くはずだ。それでも、本当に預かってもらえるのだろうか…火葬の予定も立たない程の混みようで、遺体を預かる日数に限りがあったらその先はどうするのか…訪問者は重い足で受付に辿り着く。着いたはいいが、何からどう質問したらいいのか、初めての訪問の姿は多くが無言で立ちつくしたままだった。
依頼者の中に富樫善二郎という人がいた。
「ご遺体安置のご依頼ですね?」
逸子は単刀直入に投げ掛けた。
「…いつまで」
依頼者はそう言うのがやっとのようだった。“いつまで預かってもらえるのか” が、一番の気掛かりなのだ。
「大丈夫ですよ。もし延期になるようであれば対応いたします」
その言葉に依頼者はやっと平静を取り戻した。
「息子が…」
そのまま依頼者は感極まって無言になった。
「別室でゆっくりお伺いします」
逸子は富樫を個室に案内した。依頼者は素直に従った。
「温かいお茶でもお入れしますね」
そう言って、富樫に暫しひとりの時間を与えるために個室を出た。
依頼者が案内された個室は、まだ木の香りのする程好い灯りに包まれてた部屋だった。逸子に出された緑茶の盆に逸子の名詞が置かれていた。依頼者は一口啜り、やっと落ち着いたようだった。逸子は微笑みで富樫の次の言葉を待った。
「富樫善二郎と申します」
「はい」
「…息子は…自殺をしまして」
「はい」
「遺書が無かったので司法解剖で…明日、遺体が帰ってきますが…どこも混んでるせいか安置を受け入れてもらえなくて」
「はい」
「こちらは、自殺でも受け入れてもらえるんでしょうか?」
「もちろんです」
「ただ…息子の顔が…」
逸子は察した。
「修復をお望みであれば可能です。出来るだけ生前の状態に致します」
「あの…」
「はい」
「いつまでなら預かって頂けるのでしょうか?」
「火葬の予定日まで大丈夫ですよ」
「まだ、いつになるか…」
「はい、大丈夫です」
富樫の張り詰めていた苦悩が目を潤ませた。一筋の涙とともに、やっと肩の荷が下りた感じだった。富樫は安置依頼の手続きを済ませ、安心して帰って行った。
『禅乃楼』別館は “氷点下非凍結” という複数の遺体を凍結せずに保存する複数遺体保存の設備を備えていた。断熱された収納庫内を冷気で循環させ、庫内をマイナス温度に保ち、水分子に電子微細振動を与えることで遺体を凍結させることなく保存する設備である。徹人にとって、気の遠くなるような投資額となったが、半年も経たないうちに返済の目途が立つほどの需要となった。
人は死ねば、その瞬間から自分のために無力になる。自身で自身を納得のいく形で葬ることは出来ない。富樫のように死後の処理をしてくれる人がいなければ、一般に望むような死は完結しない。そういう存在に恵まれない場合、正体不明の無縁仏として終わらなければならない。
住所氏名、本籍地なども判らず、遺体の引き取り手が存在しない人を “
保管期間は自治体によって異なるが、3か月または1年間ほどで、その間、「行旅病人及行旅死亡人取扱法」に基き、行旅死亡人は死亡推定日時、発見場所、所持品、外見などの特徴を市町村長名義で官報に掲載されるが、保管期間が過ぎても引取人が表われない場合は無縁墓地に合葬される。
死んでからなど、どうなったっていいという野垂れ死に容認派の人は、次の事を考慮しておく必要があろう。三途の川を渡る費用が6文掛かると言われるが、死後、遺体の身元調査、火葬、遺骨の保管や埋蔵、遺産の取り扱いなど人手に掛かる費用を含め20万円以上掛かる。最低でもそうした死後に於ける準備の責任がある。いずれにしても殆どの人は自分が懸命に生きた証が “行旅死亡人” として無縁墓地に合葬されるのは、特段消したい過去を持っていない限り、寂しい気がするのではないか。
自殺と判断されたにしろ、富樫善二郎の息子・善暢にはその死に涙を流す人が居り、死後に懇ろに葬ってくれる人がいる。どんな経緯で自殺に至ったかなど、遺体安置を受け入れた側が立ち入るべき問題ではないが、2万体の死体を検死した尊敬すべき監察医・上野正彦氏の自殺の9割は他殺という提言を鑑みれば、徹人にとって “相談の窓” は開いておくべき依頼者でもあった。
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