第2話 別館改築

 忠哉は火葬の順番が回って来る迄、『禅乃楼』別館に父の遺体を安置してもらうことになった。火葬までの間、忠哉は植木職人の下で荒れた庭園の復活作業を手伝っていた。2週間ほどすると火葬の順番が回って来て、葬儀が終わるまで暫く作業を休ませてもらった。やっと父の葬儀も無事に済ませた忠哉は『禅乃楼』に戻った。荒れ果てていた庭園はすっかり整備され、別館の改築工事が始まっていた。徹人との約束はハードルが高かった。このまま逃げたい衝動を抑えつつ本館に向かった。

 その本館の様子が以前と何か違って只ならぬ違和感を覚えた。それもそのはず、忠哉が父の葬儀で東奔西走してる頃、病気療養中の旅館オーナーの宮園鉄冶郎が急逝していた。徹人は父の旅館を継ぐべく監察医を退職し、喪主として葬儀の参列者の訪問に追われ、『禅乃楼』はごった返していた。葬儀には大勢の組合同業社の面々が駆け付けていた。


 昭和32年に成立したホテル旅館生活衛生同業組合の全国の組合員は約3万人を擁するが、都内にも60支部ほどあって1,000人の組合員に上る。『禅乃楼』は明治からの老舗とあって、その一割ほどの参列者がひっきりなしに訪れていた。

 徹人を探して恐る恐る中に足を踏み入れた忠哉は、偶然、廊下の片隅で二人の男のヒソヒソ声を聞いてしまった。聞く気はなかったが違和感が聴覚を鋭敏にし、その内容が聞き取れてしまった。あろうことか『禅乃楼』の“乗っ取り買収”の話をしている。居場所に困り出直そうと帰りかけると、忠哉に気付いた徹人に呼び止められた。

「西園寺くん、来てくれたのか!」

 ヒソヒソ話はぴったり止まった。

「あ、どうも間が悪いところに来てしまったようで…出直します」

「いや、いいんだ。紹介したい人がいるので…」

 と、辺りを見回し、ひとりの男を見付けて声を掛けた。

「袴田さん!」

 徹人に呼ばれて男が寄って来た。

「こちらは生前から父がお世話になっている袴田康臣さんです」

「袴田です」

 忠哉は袴田の声に驚いた。さっき廊下の片隅で『禅乃楼』の乗っ取り話をしていた男のうちのひとりの声だ。顔は見えなかったが特徴のあるかすれ声はこの男に間違いなかった。

「彼はこれから宿の運営を手伝ってもらう西園寺忠哉くんです」

「西園寺忠哉です。宜しくお願いします」

「袴田さんは同業の誼もあって、この葬儀の一切を切り盛りしていただいてるんだ」

「年を取ると人を送る機会が多くてね。徹人くんのお父さんには随分とお世話になっていたから…」

 間違いない。やはりヒソヒソ声の男だ。袴田の言葉は急に止まった。忠哉はヒヤリとした。この男は私に警戒の目を向けた。さっきの話を聞かれたと思っているかも知れない。忠哉は袴田の会話の続きを待っていたが、そこで途切れたままだったので徹人の顔を見ると、徹人も袴田を意外な面持ちで窺っていた。妙な間が出来たので忠哉は思わず言葉を発していた。

「あの…何かお手伝いすることがあれば…でも、僕は邪魔になるだけですね、きっと。やはり今日はここで…」

 忠哉は喪主として自分の父の葬儀を終えて葬儀一様の事は経験したばかりであるはずなのに、何も覚えていない。この慣れない場で自分が役に立ちそうなことは有りそうもない。

「人手が足りなくてね。奥でお引き物を配るのを手伝ってもらえるかな」

「お引き…物…ですか?」

「祝いの席じゃないのでね。お引き“出”ものじゃなく、お引き物をね。そうか、君は喪主としてお父上をお送りしたばかりだから蛇足だね」

蛇足ではなかった。そう言えばそうだった。葬儀社の社員が “お引き物” と言っていたので “引き出物” の間違いだろと若干ムッとしたのを思い出した。文句を言わなくて良かったと今更ながらに思った。

「参列者の方がお帰りの際にお渡ししてもらいたい」

「あ、ああ…はい! その程度なら何とか…」

 そういうと徹人は袴田を連れて参列者の対応に戻って行った。忠哉は帰りたかった。仕方なくお引き物を配る手伝いに加わった。幸運にも見知った顔があった。

「あら、お約束どおりいらしてくれたの?」

 宮園逸子である。忠哉は逸子が徹人の母だという事をこの時初めて知った。父の遺体を預けてもらった時には随分と便宜を掛かってもらった。てっきり『禅乃楼』の古株の親切な案内係だとばかり思っていた。ただの案内係にしては気品のあるご老人と思っていたが、徹人の母だと分かって合点がいった。

「ご葬儀だとは知らなかったもので…僕は間の悪い時に来てしまったかなと…」

「来ていただいて良かったわ。天の助け」

 天の助けにまでなってしまい、忠哉は恐縮するしかなかった。隙のない身のこなしの逸子が配るお引き物と、ぶっきらぼうにしか配れない自分の配るお引き物には雲泥の価値の差があるように思えた。

 いずこも葬儀は台風一過のようだ。自分の父の葬儀を終えたばかりだが、その間の記憶は殆どない。父の葬儀を終えて一息突いた時、一抹の虚しさが残っただけだった。何の為の葬儀だったか未だに分からない。忠哉の記憶には、火葬まで待つ間、毎日『禅乃楼』に通って、父の遺体と対峙していた時のことが思い出され、そうした時間があって幸せだったかもしれないと、今になって思えた。


 一段落し、休憩室になっている座敷でぼんやりとお茶を啜っていると、徹人が袴田を連れてやって来た。

「西園寺くん、今日はありがとう!」

「あ、いえ、全くお役に立てなくて…」

「禅乃楼の勤務初日が私の父の葬儀手伝いとは申し訳ない」

 忠哉が恐縮しているのを後目に、袴田が真剣な顔で徹人に問い掛けた。

「梨咲ちゃんは?」

 徹人は返答を濁したが、袴田は更にしつこく聞いて来た。

「お見舞いに行かないとね。どこの病院だい?」

「まだ意識が戻らないので、どなたにも言ってないんです」

「そう…早く回復するといいね」

「はい」

「近所の病院かい?」

「…すみません」

「あ、いいんだよ」

 場が深刻モードになり、忠哉は再び居場所を失った。

「あの、そろそろ僕は…」

「もう少し居て貰えないかな。就職後の話もあるし…それとも時間ない?」

「いえ…大丈夫です」

 袴田がまた話を続けた。

「犯人の目途は?」

「警察にお任せしてあるので…」

「…そう」

 その時、部屋の廊下に立って話を伺っている逸子に気付いた。

「袴田さん、今日はありがとうございました。お陰様で無事に夫の葬儀を執り行うことが出来ました」

 逸子の慇懃無礼な言葉に、袴田は意外な顔をした。

「お茶でもお入れしましょうか?」

 逸子は明らかにお茶を入れる意思などないのが分かった。袴田も逸子が苦手らしい。自分が立ち入った話をしていたことに気付いて、袴田は激しく動揺していた。

「いや、私はこれで」

 袴田は引き止められることを前提に帰る素振りをしたが、逸子の言葉は早かった。

「そうですか? お茶ぐらいと思ったのですが、今日はお疲れになったでしょ。明日からの旅館の営業もありますしね。今日はお引止め致しません。奥様によろしくお伝えください」

 袴田は帰るしかなかった。葬儀の切り盛りの中心人物に対する帰し方ではなかったが、何か深いわけがあることは忠哉にも分かった。

「母さん、あんな返し方をしなくても…」

「忠哉さんに話しておくことがあるんじゃないの?」

 徹人の表情が急に厳しくなった。

「そうだね…西園寺くん、向こうの部屋へ」

「はい」

 忠哉は徹人の後に続いた。


 徹人が案内した部屋は鉄太郎の書斎だった。室内は薄暗く、かといって執筆には落ち着く充分な灯りだった。机の前の窓には木漏れ日が揺らぎ、厚い孟宗竹林に覆われた隙間から僅かに別館工事が顔を覗かせていた。

 壁一面には百冊近い父・宮園鉄冶郎の著書が並ぶ本棚があり、その周りには参考資料と思える書類がその数十倍雑多に広がっていた。部屋の端には徹人の鑑識時代の資料が積み置きされて整理を待っていた。ここはいずれ徹人の書斎になるのであろう。


 その頃、工事中の別館には招かれざる客が “侵入” していた。葬儀の帰りがけの袴田である。そろそろ完成とあって、清掃の作業員たちが片付けに入って忙しく動いていた。誰も袴田に注視する者はいない。精々外部から入って来た別業者とでも思っているのだろう。

 袴田は待機遺体の置かれる安置室を一部屋一部屋確認して周った。まだ工事中とあって8畳ほどの細長い空間だけだったが、部屋の奥中央には遺体の出入口らしきドアがある。恐らく遺族の面会時にはそこから遺体が搬出入されるのだろう。20室以上確認したろうか…しかし、一番奥の部屋だけがドアにかぎが掛かっていた。袴田は近くの作業員を呼び止めた。

「この部屋だけ鍵が掛かっているのは何故かな?」

「さあ…私らが依頼されたのはこの廊下の並びの部屋だけですから、そっちはちょっと分かりませんね…おたくは?」

 袴田が声を掛けたのは工事責任者の黒田浩輔だった。

「あれ !? 袴田社長 !?」

「ああ…あんたは確か…」

「黒田BMの黒田です。一時期、袴田社長のホテル清掃をさせていただいてましたよね」

「あ、そうだったか」

 黒田の視線は重かった。袴田は居辛い雰囲気にその場を後にするしかなかった。袴田が出て行ったのを確認し、黒田は携帯を取った。黒田BM株式会社は先代から『禅乃楼』のビル管理をしていた。徹人とは小学校も一緒でビルメンテナンス会社の後を継いでからも親しい間柄だった。

 椅子に掛けたまま無言だった徹人の携帯が鳴った。

「…そうか…やはりな」

「徹ちゃん、気を付けたほうが…」

「工事現場に24時間監視を付けてくれ」

 携帯を仕舞い、徹人は母に視線を渡して頷いた。

「お茶を入れて来るわね」

 逸子が部屋を出て行った。深呼吸をして、徹人は静かに自分のことを忠哉に話し始めた。

「君に話しておかなければならないことは…」

 徹人は監察医として死因の明らかでない死体の死因を解明するために死体検案及び解剖を行う日々を送っていたが、或る日、娘の梨咲が殺害されるという悲劇に見舞われた。

 梨咲の死体は彼女の部屋の床で絞殺体として発見された。徹人は、事件を警察に報告する気にはならなかった。そのため“失踪届け”を出すに留めた。徹人は込み上げる感情を押し殺して、娘の遺体を自宅で隈なく検案解剖した。柵条痕以外、犯人の痕跡は何も残っていなかった。抵抗の跡もない。分厚い疑問が残った。そのまま娘の遺体を火葬せずに保存し、その死も伏せることにした。娘が生きているように振る舞って犯人を誘き寄せ、報復する決意をしたからだ。以来、対外的に娘は入院中ということにして、遺体は秘密裏に『禅乃楼』に保存することになった。

 逸子が入って来た。緊迫した空気を和らげる紅茶の香りがする。

「今日はお疲れ様でしたね」

 そう言って、逸子は生前の夫が好きだったという紅茶を注いだ。

「一息吐いたら別館に行きましょう」

 カップから儚い湯気が立ち昇り、香りが書斎を包んだ。


 徹人は忠哉を『禅乃楼』の別館に案内した。すると別館のまわりをまだウロウロしている袴田にばったり出会った。

「袴田さん、こちらにご用?」

「あ、いや…改築工事がどの程度済んだかと思ってね」

「言ってくれれば案内しましたのに…」

「いやいや、手を煩わせるのも悪いから…」

「何かお探しですか?」

 逸子の刺すような一言が飛んだ。

「あなたの探してるものは、あなたの背中にオンブしてる人じゃありませんか?」

 無表情の逸子の言葉に、袴田はゾッとしてたじろいだ。

「『禅乃楼』は古くてね。特にこの別館は東京大空襲で宿泊客が何名も焼死しましたから、特に不義の者にオンブする霊が後を絶ちませんでね」

「母さん、何を言ってるんだよ。すみません、袴田さん、母が変なことを言って。父の他界でまだ混乱しているようで」

「いやあ、無理もありません。じゃ私はこれで」

 そそくさと帰る袴田を横目に、忠哉は葬儀の物陰で“乗っ取り買収”の話をしていた情景が蘇った。思わず振り返った袴田の背にはずぶ濡れの浴衣姿の女が物凄い形相でオンブしていた。慌てて逸子を見ると、“ねっ”と言わんばかりに微笑んでいた。逸子の言葉は冗談ではなかった。


 徹人は袴田が不審に思った奥の部屋に案内した。その部屋には既に遺体が安置されていた。

「娘の梨咲だ」

 忠哉は秘密を明かされた最初の部外者だった。家族以外、梨咲の遺体が安置されている部屋には誰も入れなかったが、徹人の叔父・宮園朔太郎は葬儀社を経営していた関係で、梨咲の遺体の管理は秘密裏になされ、朔太郎は会社が休日となる友引の度にやって来て、梨咲の遺体保存のためにドライアイスを補充したり、その他の管理をしていた。

「僕なんかに何故こんな大切な秘密を…」

「あなたは信用できる人よ。私があなたを信用したの」

 逸子の指示だった。

「力になってもらえる?」

 忠哉は力強く頷いた。

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