遺体旅館

伊東へいざん

第1話 旅館『禅乃楼』

 純和風の旅館『禅乃楼』は、周囲にまだ色町があった頃からの佇まいで、庭園を広く取った明治からの老舗だった。経営者が著名な作家・宮園鉄冶郎だったということもあり、交流のある政治家や文豪の密かな出入りも多かった。この時期は庭園のイロハモミジが紅葉の盛りだったが、鉄冶郎が病に倒れ、闘病の長患いとなって時が経つうち、旅館も老朽化の途を辿って朽ちる一方で、庭園は荒れ放題の幽霊屋敷然とした趣になっていた。救いは、都心にしては周囲がまだ緑が多かったことである。


 西園寺忠哉は追い詰められて夕暮の『禅乃楼』の前に立って居た。昨夜、父が闘病生活の末に他界し、病室から葬儀屋に搬送の段になって、火葬までに少なくとも一週間以上の待ちを告げられた。葬儀屋は火葬待ちの遺体が満杯で預かる事を断られ、かと言って両親と住むマンションには規約で室内に遺体を入れることは出来なかった。遺体を預かってもらえる葬儀屋をあちこち探したが、結局何処も空きはなく、困り果てた忠哉は両親からかつて何度か利用したことがあると聞かされていた『禅乃楼』に足が向いていた。

 老舗旅館のくぐり門の敷居の高さに、入るかどうか躊躇していると、後ろから声を掛けられた。

「お泊りですか?」

「あ、いや、その…オーナーの方にお会いしたいと…」

「生憎オーナーは今不在ですが…」

「あの…」

「私はオーナーの息子の宮園徹人と申しますが…」

「西園寺忠哉と申します」

「父とはどういう…」

「お会いしたことはありませんが、ちょっとご相談がありまして…」

「…ご相談?」

 忠哉は迷った。あきらめて帰るしかないが、ここをあきらめたからといって、もうどこも当てはなかった。忠哉の言葉は躊躇を越えて既に口から出ていた。

「しばらく父を預かってもらえないでしょうか?」

「預かる? 部屋は開いてるので…でも “預かる”って、どういう…お父さんは御病気療養とか…

「・・・」

「認知症か何かで寝たきりとか?」

「父は…」

「・・・」

「…遺体です」

「・・・!? 」

「…昨日、亡くなりました。今はまだ病院なんですが、今日中に引取りに行かないと…火葬の日まで父の遺体を預かってほしいんです!」

 忠哉は断られることを覚悟した。いくら人を泊める旅館だからとは言え、どう考えても死体を泊まらせることは出来ないだろう。

「実は…そういう相談はあなただけじゃないんです」

「え…」

「私もね、そろそろ経営転換をしなければ旅館は潰れるしかないと思ってはいたんですよ。何しろこのとおりでしょう」

 徹人は廃れた庭園を差した。生茂ってしまった雑草すら枯れて、庭園の面影もなく荒れ放題だった。確かに宿は細々と営業しているようだが、折角足を運んでもこの光景を見たら引返したくなる寂れ過ぎた風情だった。

「父が闘病中で、母ひとりではどうすることも出来ず、私もどうにかしなければと思いつつ、仕事に追われたままこんな有様になってしまいました」

 徹人は大きな溜息を吐いた。

「…そうですか」

 忠哉はその場に佇んだまま万事休した。


 現在、自宅で亡くなる人は1割程度しかいないという。病院や老人ホームで亡くなるケースが一般的で、出入りの葬祭業者が遺体搬送を担当することが多く、これまで遺体搬送は葬儀受注に繋がっていた。病院にとっても遺体を迅速に搬送する葬儀社の存在は欠かせない関係にあった。ところが近年、葬祭業者が遺体搬送出来ないケースが増えている。ひとつには、忠哉のように遺体が自宅に「帰宅」できないケースである。核家族化で近所付き合いが希薄になり、隣人に遺体の帰宅を気付かれたくないという心理が働くこともあろうが、マンション管理組合の規約によっては、部屋に遺体を運び込めない場合が増えた事にも因る。

 しかし、最も深刻なのは火葬が需要に追い付かないことである。特に都市部では高齢多死化に伴って、火葬までに最低でも一週間、長ければ一ヶ月以上も待機することが珍しくなくなっている。墓地埋葬法によって、死後24時間以内の火葬が禁止されているが、その程度ならばこれまで葬祭業者が遺体を保管し、そのまま葬祭まで請け負う流れになっていた。厚生労働省は何を基準に在宅死を推進しようとしているのか的外れにも程が有る現状で、この地域でも忠哉のように遺族が遺体の保管場所に困り、縋る思いで『禅乃楼』にやってくる人が増えていた。

 経営転換はひとり息子の徹人が以前から考えていたことだったが、老舗旅館の格調を重んずれば、遺体旅館への転向の構想はハードルが高かった。何より、頑固一徹の父が受け入れるわけもなかった。父とは全く反りが合わなかった徹人は、軌道を逸した青春時代を送り、母の逸子だけが唯一の理解者だった。そんな息子の経営構想などに鉄冶郎が耳を傾けるはずもなかった。しかし、コロナ過の不景気で徹人の経営構想が現実味を帯びて来ていた。徹人は旅館を継ぐ気もなく、卒業後もワル仲間とつるんでいたが、母の意を汲んで鑑識の仕事に就いて時が経った。

 しかし、父が闘病生活に入り、医師に余命を告げられた今、そろそろ旅館を継ぐことを迫られており、かと言って遺体旅館への経営転換にはどうしても踏み切るきっかけを掴めないでいた。ところが、忠哉の登場によって徹人はそうした地団駄を解く不思議な境地になった。

「この近くにも何軒かの宿泊施設が点在していますよね」

「はい、どこも断られました」

「でもね、新型コロナウイルス禍で利用客が激減したため、中には少しでも赤字を埋めようと、火葬までの一時安置を請け入れようとする宿も増えていることは確かなんですよ」

「そうなんですか! その宿を教えていただけませんか!」

「私はね…遺体安置の旅館運営は、他の旅館オーナーがやればいいと思っていたんです。でも、現実は中々そうはならない」

「でも、請け入れようとする宿が増えていると…」

「秘密裏にね。ただね、外から遺体が丸見えで近隣住民からの苦情が出ているんです」

「それって…まずいんじゃないんですか !? 」

「ところがね…遺体預かりは特に法規制がないんで違法ではないんです」

「そんな…」

「管理が野放し状態なんですよ。粗末な遺体管理の旅館を紹介するというのは…抵抗があります」

 忠哉は複雑だった。粗末な管理でも紹介してもらいたい…でも、預かったことをきっと後悔する。

「私も旅館業に関わる者として、この現状を放っておくわけにもいかず、何とかしなければならないとは思っているんです」

 忠哉はただぼんやりとした期待を持ったが、結局は断られる流れだろうと次の徹人の言葉を覚悟した。

「君の今の境遇は、依頼者の立場を理解できる正に依頼者の象徴でもあるんだ」

 変な持ち上げられ方もあったものだ。サービス業者の慇懃無礼な慎重さが身に付いたものなんだろうと肩を落として “丁重なお断り” のフィニッシュを待った。

「君を最初の依頼者として受け入れる代わりに、私の運営構想の実現を手伝ってくれないか?」

 “受け入れる?”…忠哉の思いとは違う方向に話しが展開している。交換条件としてとんでもない負荷を提示されているような気がする。忠哉はとっさに自己防衛体制になっていた。突然余りに重い内容の話をされ、忠哉は戸惑った。いや、重い話を最初に持ち掛けたのは自分のほうである。恐る恐る徹人の真意を問うた。

「あの…でもボクはまだ学生で…といっても、父の他界でもうすぐ学生生活にも区切りを付けなければならない常態なもんで…」

「学生生活に区切り?」

「もう学費が続かないんです。アルバイトをするにしても、体の弱い母を診るのが精一杯で…」

「そう…まず、この旅館の運営転換を手伝うことが、君のお父さんの遺体を預かることの条件だ。もし、手伝ってくれるなら大学卒業まで私が保証しよう」

忠哉を飴と鞭が一気に襲った。大学生活と旅館の運営転換の手伝いを両立出来る気など全くしない。鞭の荷が重過ぎる。しかし、よく考えてみると飴は今の忠哉にはどうしても必要なものだった。飴を断る理由は思い浮かばなかった。鞭を忘れてでも兎に角今を切り抜けなければならなかった。結局、忠哉は徹人の提案を受け入れるしかなかった。

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