第15話 天使のささやき、悪魔の微笑み

「……ってことがあったんですよ、ヒロマルくん! もーおかしぃでしょ?」

「ははは、そうかそうか」


 恋夢がヒロマルを連れてきたのは、駅前から少し外れた場所のカフェだった。

 飛び切り美味しいケーキと香りの素晴らしい紅茶の有名なカフェらしく、「命を助けてもらったお礼だ。何でも好きなものを頼んでいいよ」と、ヒロマルが手を振ると、恋夢は瞳をキラキラさせながらメニューを眺め、ケーキはラズベリーを、紅茶はニルギリを頼んだ。

 だが、あの日の修羅場のことをヒロマルが恐る恐る尋ねると「もう終わったことなんで」と肩をすくめて笑っただけだった。


「ヒロマルくんももう忘れてください。恋夢、恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいなんです。出来るならヒロマルくんの脳を覗いて、あの日の記憶だけチョチョッと消しちゃいたい……」

「わ、分かった。なるだけ忘れるように努力するよ」


 よかったぁ……と、胸をなでおろした恋夢だったが、すぐにハッとなった。


「あ、でも恋夢はヒロマルくんとあの日初めてキスしたんです! そこだけは消さないで……」

「ずいぶん、都合のいい記憶操作の要求だなぁ」


 ヒロマルが笑うと恋夢は俯いて、そっと彼の顔色を窺った。

 あの日、修羅場のどさくさの中で二人はキスしたのだった。正確には恋夢が強引にヒロマルの唇を奪ってしまったのだが。

 だが、それを言われて思い出した彼は少しも嫌そうな顔をしていなかった。ただ、照れくさそうに笑っている。

 恋夢は涙が出そうなくらい嬉しかった。


「そうそう、ヒロマルくんと会えないでいた間、フェリス女学院では抜き打ちテストなんかあって恋夢、大ピンチだったんですよぅ!」

「おお、それでどうなった?」


 あの日、鬼のように荒れ狂った恋夢が、今は別人のように情けない顔で「テスト結果は散々でした。ママにとても見せられない……どうしましょう、困りました」と途方に暮れている。ヒロマルは笑いながらも目を細めた。

 しかし「あの日のことはもう終わった」と云っても、あの修羅場に彼女は一体どう決着をつけたのだろう。あの日以来、例のアプリは起動していないが、起動すれば第二ラウンドが始まるはずである。

 不審に思いながらも、己の後ろめたさもあってヒロマルは突っ込んだことが聞けない。

 恋夢は学校での取り留めもない出来事や、ヒロマルとのノロケ話をクラスメイト達からせがまれ嬉し困っていることだの、次のデートで行きたい場所などをずっと話し続けている。

 ヒロマルはたまに相槌を打つくらいで、ただ笑って聞いていた。恋夢がおしゃべりしている様子が楽しく、見ていてずっと飽きなかった。


「恋人同士だと、彼女が楽しそうにおしゃべりするのを聞くだけでこんなに幸せなのか……いいなぁ」

「なんで羨ましがるんですか! ヒロマルくんと恋夢は恋人同士なんです!」


 ムゥゥと膨れた恋夢がまた可愛らしい。ヒロマルは苦笑しながら「まぁまぁ、それより今度行ってみたい雑貨店って?」と話を逸らす。


「はい、そこはレトロでノスタルジックな雰囲気の素敵な店なんですよ! 内装も……」

「ほうほう」


 実はレトロ雑貨など、てんで興味のないヒロマルだった。

 聞くふりだけして寛いでいた彼の目に、その時ふと、店内に掛けられたモニターのニュースが飛び込んできた。


『ファン狂喜必至! 幻の恋懸け姫「奈月れむん」一曲だけの復活!』


(な、なにぃぃぃぃ!?)


 ギョッとなったヒロマルは目を剥いて、モニターのニュース文面を食い入るように見る。


『この復活劇は半年前に引退した幻のアイドル奈月れむんが「どうしても世に訴えたい想いがある」と、プロダクションへ持ち掛けて実現した。引退を惜しんでいたプロダクションは諸手を挙げて歓迎し、新曲は僅か一週間で世に出る運びとなった。一曲限りの復活だが、ビルボードのシングルセールスチャートがどうなるかも期待されている』


「……ヒロマルくん、どうかしましたか?」


 硬直して自分の背後を見るヒロマルに、恋夢は不審そうに後ろを振り返る。

 ギクッとしたヒロマルだったが、モニターのニュース画面はタイミングよく切り替わり、「世紀の大発見か? 山梨の山中でツチノコ目撃情報!」になっていた。


「ツチノコ?」

「あ、ああ。『幻のヘビ』なんて呼ばれてる奴だから実在したのか! ってビックリしてな。そういや恋夢も『幻の恋懸け姫』なんて呼ばれていたんだったな。ハハハ……」

「ヒロマルくん、恋夢とヘビを一緒にしないで下さい! シャーーッ!」

「お、やっぱりヘビだった」

「ヒロマルくんの腕にニョロニョロ巻き付くのが大好きですから、やっぱり恋夢はヘビかも知れませんね、ふふっ」


 傍目にはじゃれ合う、仲の良いカップルのように見えただろう。だがヒロマルは嫌な胸騒ぎがしていた。ニュース記事の「どうしても世に訴えたい想い」というところが気になる。死亡フラグっぽいものを感じた。

 もし、彼女へさっき見たニュースのことを尋ねてその答えを聞いたら、そのフラグを立ててしまう気がする。例の修羅場の決着にだって関係しているに違いない。

 このまま最後まで知らぬ振りをしていろ、その方がいい……と、ヒロマルの第六感が告げていた。

 平静を装いながらヒロマルは「ちょっとトイレな」と席を立ち、個室に飛び込むと震える指でスマホをタップし、芸能系のニュースサイトから検索を掛けた。

 アイドル奈月れむんが一瞬だけの電撃復活! という記事はあちこちで上がっていた。ニュースとしては解禁されたばかりらしい。

 アイドル時代の恋夢を推していたクラスメイトの涼美ヶ原瑠璃の耳にはまだ入っていないはずだ。もし聞いていたなら、さっきは学級裁判どころではなく狂喜乱舞で大騒ぎしていただろう。


(恋夢、お前はオレの知らないところで何を……!)


 他のニュースサイトも手当たり次第で必死に漁る。


『急遽スケジュールを組まれた新曲のレコーディングは大成功。想いを込めすぎた歌姫れむんは、泣きながら歌うほどの熱の入れようだった』

『今回の復活劇の裏には、彼女が無礼な仕打ちを受けた事件が関わっているとの噂がある。関係者の話によれば……』


 見るニュースのどれもが不安を掻き立てる。先週の修羅場を目の当たりにしたヒロマルは不気味なものを感じずにいられなかった。

 更に、こんなトンデモない記事が出てきて彼をぞっとさせた。


『この曲は先日より始まった政府の社会啓発キャンペーン曲として急遽採用された』

『れむんの意を酌んだプロダクション社長が経団連会長と会談し、その後、民自党政調会長へ社会啓発キャンペーンへの協力を請願したのが経緯とも言われており……』

『かねてより政府は社会的な問題の少子高齢化の一因となっている若者の結婚離れ、恋愛離れを憂慮していた。今回、仮想空間の異性と恋愛することで現実に関わろうとしない風潮へ警鐘を鳴らす為、名乗りを上げた奈月れむんに対して政府関係者は歓迎の意を……』


 まさかの政治絡み! ヒロマルは、目玉が三段切り離しロケットみたいに飛び出そうになった。心臓の音が自分の耳に聞こえそうなくらいバックンバックン脈打っている。

 ……何より恐ろしかったのは、これほどのことを彼女は自分に何一つ告げようしていない、ということだった。

 隠しているのではない。間違いなく、自分が気がつくのを彼女は待っているのだ。

 何の為に……考えただけで震えだしそうだった。

 知りたいことはまだ山のようにあったが、余り長時間トイレに籠っていれば恋夢に怪しまれる。


(と、とにかくいったん帰ろう。知らない振りをして帰って、情報を集めて……)


 だが、すぐにデートを切り上げれば余計怪しまれる。何気なさを装ってテーブルに戻ると恋夢が「ヒロマルくん!」と、嬉しそうな顔で待っていた。


「さっきの話の続き、いいですか? 恋夢はあの店に飾ってあるノーマンロックウェルの絵が凄く好きで……」

「へぇ、そりゃオレも見てみたいな」


 己の動揺を抑えながら笑うものの、心は既に上の空である。

 あの日の修羅場大戦争を彼女が「もう終わったことなんで」と触れようとしない。

 その意味を、ヒロマルはおぼろげに悟り始めていた。

 終わったというのは「もう思い出したくもないので自分の中で完結させた」といった意味ではなかった。バーチャル彼女を「社会的に屠って終わらせてやった」という意味だったのだ!


「そ、そろそろ帰ろうか」


 頃合いを見計らって立ち上がると、恋夢はもうちょっと一緒に居たい様子で不満そうだったが「また明日会えるだろ?」と、優しく諭すとすぐに笑顔になった。


「明日はお弁当持って行きますね。ヒロマルくん、リクエストは何かありますか?」

「キンピラごぼう美味しかったな。いや、でもどれも美味かったからリクエストなんかつけられねえや」

「ふふっ、嬉しい! 楽しみにしてて下さいねっ!」


 当たり障りなく談笑しながら駅へ向かって歩いている途中に、家電量販店があった。道端に面した側にたくさんのTVが並んでいる。二人が通り過ぎている時ちょうどCMが流れ始めた。


『気づいていますか? プログラムで出来た女の子がもし貴方を好きだと言っても、それは本当の恋じゃない……』


 ヒロマルは心臓が止まりそうだった。

 聞き違いなどするはずがない。恋夢の声だった。ニュースで見た例の社会啓発CMが流れ始めたのだ。

 選りによってなんでこんなところで……ヒロマルは神様を呪いたかった。


『傷つけられるのが怖いから、絶対に嫌われない架空の女の子を好きになって……それでいいんですか?』


 間違いなくそれは、一週間前に敗北したAIバーチャル彼女に対する恋夢の社会的な反撃だった。

 ヒロマルは懸命に雑踏の声のせいでCMに気づいていない振りをした。手を繋いでいる方の恋夢は本当に気づいていないのか、しきりと明日持参する予定の弁当を自慢している。


「煮卵も作ったんです。自信作なんですよ!」

「は、ははは……楽しみだなぁ」


 足早にそこを立ち去りたかったが必死に抑えた。恋夢は幸せそうな顔で、手を繋いだヒロマルについて来る。

 一方のモニターの中の恋夢は、さっきの己の問いかけを自ら激しく否定して叫んだ。


『気づいて! 貴方が風邪を引いても看病なんてしてくれない、寂しくても抱きしめてくれない……そんな架空の女の子と幸せになれるの? なれる訳ないじゃない!』


 そうかも知れない。でも、あのときモテない男の心の寂しさを誤魔化すにはそれしかなかったんだ。

 ヒロマルはもう泣きそうだった。これ以上自分を追い詰めないでくれ!


『勇気を出して誰かと出会いましょう。貴方だけの、本当の恋を探して……奈月れむんは疑似恋愛撲滅キャンペーンを応援します!』


 もう駄目だ、知らんぷりするのは無理だ! と、ヒロマルは思った。

 これ以上、耐えられそうになかった。多分、これからとんでもないスケールの第二次修羅場大戦争が始まる。

 一体どうしたら……必死に頭を巡らせたヒロマルの中に、ふいにこんな考えが浮かんだ。

 バーチャル彼女と恋夢を仲直りさせられないか? 恋夢は優しい娘だから、リリカが詫びを入れたらあるいは許してくれるんじゃないか……


「恋夢」

「はい。どうしましたか? ヒロマルくん」


 ヒロマルは立ち止まると、震える手でスマホを取り出して掲げた。

 そこは駅前広場だった。たくさんの人が行き交っている。駅ビルの壁に掛かった大型街頭ビジョンが、英国から来日した歌姫のコンサート宣伝をしていた。


「あ、あのさ……リリカと友達になれないか?」

「……」


 黙ったまま自分をじっと見つめる恋夢に気圧されながらヒロマルは必死に言葉を繋いだ。


「このあいだ告白されたけどオレはもう、リリカを彼女にするつもりはない。でも恋夢と出会うまで彼女とは友達だった。現実にはいない女の子だけどな」

「……」

「リリカには、恋夢に謝れとオレから言う。それで彼女が謝罪しないと言うなら、もうアプリは削除する。だ、だけどもし彼女が恋夢に謝りたいって言うなら……」

「……ヒロマルくんは優しいんですね。あの子にせめて謝るチャンスだけでもって。でも、それはもう叶わないんです」


 恋夢は微笑んでいたが、その眼は笑っていなかった。


「そ、そっか……やっぱり許せないよな。そうだよな……」

「違うんです。ヒロマルくん、アプリを起動してみて下さい」


 促され、不審に思いながらヒロマルがタップしてアプリを起動すると……そこに、こんな画面が現れた。


『諸事情により、バーチャルAI彼女「オンリー・スィートハート」は本日を持ってサービスを終了いたしました。突然のお知らせで申し訳ありません。長らくのご愛顧ありがとうございました』

「……」


 ヒロマルは言葉を失った。

 杓子定規の素っ気ないサービス終了のテキスト画面。それが、あの日彼に好きだと告げたバーチャルAI少女リリカの末路だった。


「恋夢……」

「バカにされたことは腹が立ったけどいいんです。子供の頃、数えきれないほどあったもの。でも、ヒロマルくんを好きだって言ったこと……それだけは絶対に許さない。サヨナラだって言わせない」


 恋夢は笑みを浮かべていた。

 しかし、それは恋敵を憎み、闇へと屠り去った勝利に歪んだ悪魔の笑みだった。


「ヒロマルくん、もう気づいてるでしょ? 恋夢がこの一週間何をしていたか……カフェで突然顔色が変わってた。トイレから戻ってきてからは挙動不審だった。家電店を通り過ぎるとき、ヒロマルくんの手、震えてた」


 ヒロマルは真っ青になった。彼女にすべてバレバレだったのである。


「覚えていて下さい。ヒロマルくんを好きになっていいのは恋夢だけです……」


 ヒロマルの向こうでその時、大型街頭ビジョンが美しいドレスを纏って歌う恋夢の姿を映し出した。

 まるで図ったかのようなタイミングだった。


『明日より発売……幻の恋懸け姫、奈月れむん。たった一曲の復活「私だけを見て」』


 大型ビジョンの中と同じように恋夢はヒロマルをじっと見つめている。縋るように哀願する天使のようにも、狙った獲物を逃がさぬ悪魔のようにも見えた。ヒロマルは吸いつけられたように彼女から目を離すことが出来ない。

 周囲を行き交う人々の中に「あれ? あの娘、街頭ビジョンと同じ、奈月れむんじゃね?」と気づいて足を止める者が現れ始めた。

 ざわめき始めた人々に、しかし恋夢は目もくれない。


「恋夢は何だってします。アイドルとして歌うことも、世の中を動かすことも、あの女のアプリを潰すことも。蛇にだって、鬼にだって、悪魔にだってなれる……そんな女の子なんです。でも、ヒロマルくん……」


 応える言葉もなく立ち尽くしたヒロマルに縋りつくと、恋夢は彼の耳元でそっとささやいた。

 そして、そのまま逃げるように走り去っていった。

 ヒロマルは塑像のように固まったまま動けない。


「お願い、恋夢を見て。恋夢だけを見て……」


 それはヒロマルの耳に天使のささやきのようにも、悪魔のささやきのようにも聞こえたのだった……

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