挿話 彼と彼女のソネット

 初めて見たのは渡り廊下で。彼は彼女と楽しそうに話をしていた。

 今でもどうしてそんなことをしてしまったのか、それはわからないのだけれど、なぜかその時の私は彼女に声を掛けることをせず曲がり角の壁にもたれて二人の会話を聞いていた。

 楽しげな様子は彼女から聞いていた通りのただの幼馴染とは思えない雰囲気なのに、どうして彼ら自身はそれに気づいていないのだろうと不思議に思うほどだった。

 その時は楽しげな二人を見るだけで、彼と彼女に特別な想いを抱くとは思ってもみなかったのだけれど。


 次に会ったのはその日の放課後で、私は彼女と連れ立って正門へ向かっていた。

 同じ路線、同じ電車、同じ駅で降りて同じ道を通って帰る、それは彼女から聞いて知っていたけれど、なぜか私はその二人の間に入ろうと思ったのだ。

 穏やかに私へ会釈する彼は彼女から聞いていた通りのどこにでもいる男子高校生でしかないのに、どうしてか私の目をひきつけてしまっていた。

 それからは教室で友達をダベるのをやめて、毎日のように彼女と一緒に正門へ向かうようになった。


 きっと、きっかけなんてなかったんだと思う。

 彼と会った時の一つ一つが、何でもない会話や仕草が、訳もわからないままに跳ね上がる鼓動が、彼にとっては何でもない気遣いが、朝の挨拶が、15時の校門で読んでいた文庫本から目線を上げた瞬間の眼差しが。

 そんな小さな思い出が積み重なって想いになった。


 勇気が小出しになって彼女を通して誘った夏祭り、金魚掬いが案外上手なこと、兄に向けた目線の強さ、卑怯な自分に怯えた夜、中庭で初めて一人の時に声をかけられた嬉しさ。

 あの頃、小さな想いで踏みとどまれば良かったのに。

 笑顔が少なくなっていった秋、文化祭で彼女目当てに教室へ来たこと、図書館でもう一歩踏み出せなかった臆病な自分、そして彼に嘘をついてしまったこと。






 こんなにつらいなら、彼女を見送った雪で気持ちを埋めてしまいたかった。けれど。それでも、諦められなかったのだ。











 彼にとってはある意味特別で。幼馴染以外で気兼ねなく話せるたった一人の女の子だったのだ。

 彼にとっての女の子は、あまりにも彼女が近すぎて大きすぎて、だから小学校や中学校のクラスメイトたちを意識することもなければ仲良くすることもなかった。

 初めて見かけたのは彼女と話していた渡り廊下、曲がり角でこちらに来ようとした視線が彼女と自分を見て、きっと何かを勘違いしたのか、はっと気づいたように影に隠れてしまった。

 先輩なのにそんな姿が小動物みたいで可愛らしい人だと思ったのは、先輩に対してちょっと失礼かなとも思ったのだけれど。


 そんな特別な存在だから気になってしまったのかも知れない。

 それは彼にとっての彼女への想いとはまた違うものだったけれど、ただの学校の先輩だとか彼女の友達だとか、そんなものではなく確かに一人の女の子として見ていた。

 何度か会う内に、柔らかい雰囲気の中にあってすっと通った鼻筋や揺れ動かない視線とか、そんなところが彼女の存在の強さとして響いてくるのだとわかった。

 女の子なのに頼れてしまいそうな、そんな人なのだと。


 彼女と過ごした時期に比べればとても短かかったけれど。

 彼女との出来事の一つ一つが、特別な、けれど日常でしかない存在であるからこその何でもない会話が、彼の想いを知らないからであろう一言に傷つけられることが。

 そんな小さな思い出が積み重なって「先輩」になった。


 彼女の進路でささくれだった夏、ひまわりの話に真っ赤になった顔、文化祭でたこやきを奢ってくれたこと、放課後の正門から帰った道、黒い感情を受け止めてくれた小さな手のひら。

 きっと、好きになれていたら楽だった。

 早々に決めた進路、図書館で勉強に付き合ってくれたこと、彼女と違って照れもなく御礼を言えた自分への驚き、そのことが彼女と先輩との違いであることに気づいてしまった秋。






 こんなにつらいなら、彼女のいない正門への桜道で罪悪感を埋めてしまいたかった。けれど。それでも、自分の思いはたった一つしかないから。











 それは多分、はしかみたいなもので。

 十代の今だから、世間のことを何も知らない小娘でしかない自分だから、今の気持ちが自分の全てだと思い込んでいるだけなのだと思う。でも、そうだとしても後悔だけはしたくない。


 ちゃんと自分の気持ちに向き合って、きちんと振られるために。これから先、生きていく自分のために。


 短大でできた新しい友達、制服を着ない新しい生活、それらに相応しい新しい自分になるために。夏休みか冬休みか、きっと帰ってくる彼女に向き合える自分になるために。

 そのために、彼女は彼に会いに行くのだ。












 この先何十年経ってもきっと。生まれて初めて受けた告白、その時の気持ちも相手も忘れることなんてできないと思う。


 嬉しさと共に受けた胸の痛みを忘れない。

 きっとそのまま過ごしていれば、良い先輩と後輩の関係のままいつしか思いも薄れて高校時代の淡い記憶で終われたはずなのに。そこから踏み出した彼女の勇気を、彼は決して忘れない。


 ちゃんと自分たちの記憶に向き合って、彼女と生きていく自分のために。幼い頃、高校時代、大学、社会人、全ての記憶を彼女と共に笑って振り返るために。










 1993年の夏。

 ひまわりの中庭を眺める図書館の喫茶室。

 最後まで涙を見せずに去る彼女を、彼は眩しく見送った。






─────

 ※ソネット=十四行詩。日本語の小説で韻を踏むのは難しいので、前半部分はイタリアソネットのa-b-b-a,a-b-b-a,c-d-c,d-c-dの形式だけを踏襲して14段4回(14行は無理ぽ……)にしました。余計な文はやむを得ず加えてしまいましたが。


 ※彼と彼女のソネット=言わずと知れた大貫妙子の同名の名曲から。原曲は1986年のフランス映画「T'en va pas」の主題歌である「哀しみのアダージョ」です。原田知世の最初期も良いですが、できれば大貫妙子のA Slice of Life収録バージョンで聞いて欲しい曲。

 大貫妙子の文学的な歌詞作りも凄いですが、原曲サビ部分の「Nuit tu n”en finis pas」(ヌィ・トゥ・ノ・フィニ・パ)が日本語詞(訳詞ではありません)「いつの日にか」と重なっているのは本当に凄い。

 谷山浩子のように、恐らく表現したい世界がそこにあって本人には具体的に見えているんだな、というのも感心しますが、大貫妙子のように抽象的故に聞く側に想像の余地を残し、どんな場面にでも当てはまるような歌詞も素晴らしいですね。

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雪融けを待つプラットホームで 皆川 純 @inu_dog

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