5 領主様の正体
目が覚めたら、そこはいつもシュエシが寝ているベッドの上だった。目は開いたのになぜか体がひどく怠くて、どうしても起き上がろうという気になれない。カーテンの隙間から朝日が漏れ入っているから、そろそろ美しい執事が起こしにくる時間のはずで――そこまで考えて、シュエシはヴァイルが領主様だったことを思い出した。
そこからは芋づる式に昨日のことを思い出し、慌てて首筋に手をやった。あの激痛なら大怪我をしていてもおかしくないはずなのに、そこに怪我をしたような感触はなく、血が流れたような感じもない。
それにホッとしつつ、今度は下半身に違和感を感じてドキッとした。
(もしかして……)
寝衣の中にそっと手を入れて触れた小さな下着は、明らかに濡れていて少しごわついてもいた。ということは、意識が薄れていくなかで感じた快感と、その直後の果てたような感覚は夢ではなかったのだ。
この状態はヴァイルにも悟られたはずで、そう思うとシュエシはたまらなく恥ずかしくなった。
あの夜、冷たい手に触れられて気持ちよくなってしまったのを、ヴァイルは厭らしいと言った。あのときも果ててしまったが、今回はヴァイルの足に腰を擦りつけながらということなのだから、さらに厭らしい奴だと思われたに違いない。それはみっともないほど恥ずかしいことで、たまらなくつらいことでもあった。
ヴァイルが領主様だとわかったいまも、シュエシはヴァイルへの想いを抱き続けていた。昨日も首の激痛に怖くなり混乱しながらも、ヴァイルにすがりついてしまった。そうしながらシュエシはヴァイルに激しく欲情し、みっともないほど体に触れてほしいとまで思っていた。
これほどまでに想いを寄せる相手に呆れられるのは、どうしようもなくつらかった。もしかしたら今度こそ蔑まれ嫌われたかもしれない、そう思うと胸が痛くて苦しくなった。身代わりの花嫁である自分を快く思っていないことはわかっているが、それでも軽蔑されるのには耐えられなかった。
シュエシはぎゅっと身を縮こまらせてしばらく泣き、そのまま再び眠りについた。
次にシュエシが目覚めたとき、外はすでに夕暮れになっていた。まだ体は怠かったものの起き上がることはできたので、ようやく気持ち悪かった下着を着替えることができた。
浴室で汚した下着を洗い、ついでにと体を布で拭う。それから新しい下着に着替え、少し悩んだものの再び寝衣を着て寝室を出た。いつもなら温かな夕飯が置かれているテーブルには何もなく、当然、執事として世話をしてくれるヴァイルの姿もなかった。
「ヴァイルさんを、……領主様を騙してたんだから、当然か……」
食事がないことは気にならなかった。以前のシュエシの食事は日に一回か二回だったから、一日三回食事を与えられることのほうがおかしかったのだ。
それよりも、ヴァイルの姿が見えないことが悲しかった。
身代わりが自分のような男だということを不快に思い、厭らしい奴だと蔑まされたに違いない。わかっていても、自分はまだこんなにもヴァイルのことを想っている。
シュエシは何もかもが苦しくなった。何も考えられず、再び寝室に戻るとベッドに横たわる。まだ体が怠かったからか、すぐに訪れた眠気に身を任せ、もう一度眠ることにした。
それからのシュエシは、いつも一人きりだった。テーブルの上に水差しはあっても食事が置かれることはなく、ヴァイルが姿を現すこともない。シュエシ自身も空腹を感じることがなかったため、喉が乾けば水を少し飲むといった感じで過ごした。
部屋の扉に鍵がかかっていないことは知っていたが、外に出ることもしなかった。屋敷に到着したときに「この部屋からは出ないように」とヴァイルに言われたので、それだけは守りたいと思ったからだ。
一人きりになってから六日目の夕暮れ時、喉が渇いて立ち上がったシュエシは、グラリと体が揺れて床に倒れてしまった。派手な音がしたから、どこかをしこたまぶつけたに違いない。それなのに、ぶつけたであろう体の右側に痛みはなく、代わりに膝の下あたりをひどく熱く感じた。
視線の先には割れたコップがあり、「あぁ、割ってしまった」とぼんやり思った。片づけなければと起き上がろうとしたけれど、どうしてか腕にも足にも力が入らず起き上がることができない。
(なんだか、疲れたな……)
この部屋の床はどこもフカフカの布が敷いてあるからか、こうして横たわっていても寒くも痛くもない。だからこのまま少しだけ眠って、目が覚めたら割れたコップを片づけようと瞼を閉じる。その直後、カチャリと扉が開く音がした。
ゆっくりと扉のほうに視線を向けてみるものの、ソファがあってよく見えない。そのままじっとしていると、視界の端に見覚えのある靴が映り込んだ。
(あれは、たしか……)
何度も見たヴァイルの靴だ。そこで初めて部屋に入ってきたのがヴァイルだと、領主様だとわかった。
シュエシは、慌てて起き上がろうとした。しかし、やはり体のどこにも力が入らず起き上がることができない。それでもどうにか体を起こそうともがいていると、はるか頭上からヴァイルの美しい声が聞こえてきた。
「おまえは床で寝るのか?」
その声は少し笑っているような気がした。顔は見えないけれど、きっとあの
(騙していたんだから、しょうがない……)
執事だったときの柔らかな瞳を思い出し、切なくなった。クスクスと優しく笑う声を思い出して胸が痛くなった。綺麗なあの顔がまた見たいと思うだけで、涙が溢れてきた。
「こんな扱いをされたことに泣いているのか?」
そうではないと言いたくて、シュエシはなんとか頭を緩く横に振る。それは些細な動きだったけれどヴァイルには伝わったようで、笑みを浮かべているような声が続いた。
「食事を与えられず、こうして閉じ込められていることに涙しているのではないのか?」
それにも違うと頭を少しだけ動かした。しばらく無言が続いたあと、視界に煌びやかな上着の裾が映り込んだ。そうして、先ほどよりもっと近いところからヴァイルの声がした。
「では、どうして泣いている?」
今度は、笑んでいるような声ではなかった。執事として世話をしてくれていたときに聞いた、柔らかな声音に近い気がする。
そう感じたシュエシは、どうしても自分の気持ちを伝えたいと思った。伝えたところでどうにもならないとわかっていても、好きだという気持ちを伝えたいと思ってしまった。
こんな強烈な感情を抱いたのは両親が死んだとき以来だった。どうしても伝えたい、そう思っているからか、体にわずかばかり力が入った。そのまま首をねじり、見下ろしている美しい顔をなんとか見上げる。
「あなたが……、好きだから、です」
目の前にいるのは領主様だったが、ヴァイルであることには違いない。接していたのは執事のほうでも、自分にとってはどちらも想いを寄せる相手だった。だから気持ちを告げたいと思った。ただ伝えたいと思い、叶ったことにホッとした。
もう思い残すことはない――そう満足した直後、再びヴァイルの声が聞こえた。
「このような扱いを受けてもなお、そんな気持ちを抱くというのか?」
呆れたような声に胸がチクリと痛む。それでも好きな想いが消えることはなく、シュエシはわずかに頭を動かして肯定した。
「……くっくっくっ。…………そうか」
やけに楽しそうな笑い声のあと、なぜか納得したようなつぶやき声が聞こえてきた。
「その気持ちがわたしの力のせいなのか、違うのかはわからんが、……漆黒の瞳は澄んだままだな」
ヴァイルの綺麗な目がじっと自分を見つめている。美しい瞳を見るだけで、シュエシの頭はぼうっとしてしまう。すると、以前と同じようにヴァイルのクスクスとした笑い声がした。
「おまえはほかの輩とは違うのかもしれんな。……であれば、おまえを我が花嫁とするか」
楽しそうな声で告げられた内容に、驚いたシュエシの目が丸く見開かれた。
いま、聞き間違えでなければ「花嫁」と言っただろうか。たしかにシュエシは領主様の花嫁としてやって来たが、自分が男だということは知っているはず。それなのに、どういうことだろう。
混乱していたシュエシの体をヴァイルがひょいと抱き上げた。その瞬間、熱く感じていた右足に激痛が走ったような気がした。しかし抱きかかえられていることに驚いているからか、シュエシの頭はすぐさまヴァイルの横顔へと向かった。
ベッドに下ろされた瞬間も足が痛んだような気がしたが、頬にかかった髪の毛をふわりと撫でられたことに意識が向いて気にならなかった。
「足をどうかしたのか?」
声をかけられて、ようやくジンジンと痛む右足に意識が向いた。床にしたたかに打ちつけたときに、どうにかしてしまったのだろう。しかし自分でもどうなっているのかわからず、答えることができない。
「あぁ、いい。触れればわかる」
シュエシがうまく説明できないことに気づいたのか、そう告げたヴァイルが足のあたりに視線を向けたのがわかった。何をするのだろうと思っていると、寝衣の裾をまくられて驚いた。慌てて口を開こうとしたが、ゾクッとするくらい冷たいものが足に触れたのを感じ、思わず首をすくめてしまった。
この冷たくも柔らかな感触は、ヴァイルの手に違いない。それだけでカッと頬が熱くなる。冷たい手がふくらはぎあたりを撫でてから膝頭に触れ、すねを膝から足首に向けてゆっくりと撫でる感触に、頬がますます熱くなった。
「折れているな」
「ぇ……?」
「問題ない。すぐに元に戻る」
そう言って再び膝の下あたりを撫でられたとき、今度はどうしてかじんわりとした温かさを感じた。先ほどまでは驚くくらいの冷たさだったのに、いまは痛みが和らぐような気持ちのいい温かさを感じる。そのまま撫でられる心地よさに浸っているうちに、激しい痛みはすっかり消えてしまっていた。
シュエシは何が起きたのだろうかと不思議に思った。
「折れた場所は元に戻した。これでもう痛くはあるまい?」
元に戻したということは、ヴァイルが何かやったということだ。よくわからずに顔を見ると、そこには執事のときによく見ていた微笑みがあった。
「滅多に治癒などやらないが、花嫁のためだ」
「ちゆ……?」
「わたしはただの人ではないからな。血も啜れば、こうして治癒の力を使うこともできる」
「ち……血を、啜る」
「おまえも啜られただろう? 少々飲みすぎてしまったが、今後は気をつけることとしよう」
「領主、様は、……どなた、なのですか……?」
「人からは吸血鬼などと呼ばれているな」
「きゅうけつ、き……?」
「人の生き血をすする化け物の名だ。わたしからすれば人のほうがよほど化け物だと思うが、まぁ見解の違いは仕方あるまい」
領主様の噂の中には、娘を食らう化け物の話があった。それは間違いではなかったということになるが、シュエシには信じられなかった。
「理解しなくともよい。どうせ人が勝手に付けたくだらん名だ。それより、……ほら、舐めろ」
そう言って差し出されたのは、ヴァイルの美しい人差し指だった。指の腹にはぷっくりとした赤い血が載っていて、真っ白な肌にやけに鮮やかに見える。
「わたしの血にも多少なりと治癒の力が宿っている。ひと舐めすれば朝には起きられるだろう」
やはりヴァイルの言っていることは理解できない。できなかったが、シュエシは目の前に差し出された指を舐めてみたいと思った。何度も自分の首筋に触れ、耳たぶに触れ、官能的な感覚を引き出してきたこの指を舐めてみたい……そう思うと、そこに鮮血があることなど気にならなくなった。
引き寄せられるように顔を近づけたシュエシは、ゆっくりと口を開き、そっと舌を出した。つ、と触れた指先は驚くほど冷たかったが、どうしてかとても心地よく感じられた。
そのまま舌を伸ばし、玉のような形をした鮮血を舐める。それは鉄臭いものではなく、小さい頃に食べたことのある飴玉のように甘かった。舌の上に甘さがじんわりと広がり、それが唾液と一緒に喉を通ると、今度は胃のあたりがカッと熱くなる。熱はすぐに全身に広がり、指先まで暖かくなる頃にはひどい眠気に襲われていた。
「朝になったら起こしに来よう。花嫁の役目は、それからだ」
ヴァイルが何か話していたが、眠気に襲われていたシュエシには最後まで聞き取ることができなかった。
遠くで誰かが呼ぶ声がした。周りを見れば木々や草ばかりで、ここがとても深い森の中だということがわかる。どうして自分がこんな森にいるのかわからなかったが、森のさらに奥のほうから誰かを呼ぶ声が聞こえた。
シュエシは、その声の元へ行きたいと思った。いや、行かなければと思った。
木の枝をかき分け、足元の草や蔓を踏みしめ、必死に声のほうへと歩いて行く。そうして森の奥へと進んでいくと、急に開けた場所が現れた。原っぱのようなそこに草花はなく、むき出しの土はところどころが不自然に盛り上がったり抉れたりしている。
その先には大きな屋敷があった。……が、建物は火の包まれていた。バチバチと燃える音の中に、柱か何かが崩れ落ちる音が混じっている。焦げ臭い匂いと、なんとも言えない不快な匂いも漂っていた。
不意に誰かの声が聞こえた気がした。屋敷の門のあたりに目をやれば、人が倒れているのが見えた。
慌てて走り寄ると、倒れていたのは首のない女性だった。女性だとわかったのは立派なドレスを着ていたからで、途切れた首のあたりからはドス黒い大量の血でできた血だまりがあった。女性の奥には小さな子どもらしき姿と、もう少し大きな少女らしき姿が見えたが、どちらも頭はなかった。
むせ返るような血の匂いに目眩がした。惨状に耐えられず視線を逸らしたとき、少し離れたところにもう一人倒れているのが見えた。
仰向けに倒れているその人物は、貴族だとわかるような立派な服を着ていた。しかしその胸には、なぜか大きな木の杭が突き立てられていた。
男には頭が付いていた。ひどい死に方だったはずなのに、その顔はなぜかとても美しいものだった。血に染まった髪の毛は鈍い銀色で、薄く開いた奥にあるガラス玉のような瞳は、炎を反射して綺麗な金色に光っていた――。
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