6 花嫁の役目

「…………っ!!」


 シュエシは、ハッと目を開いた。見慣れた天井にホッとしながらも、心臓はバクバクと激しく動いている。目が覚めたのだから頭のない死体や男の死体は夢だとわかっているのに、心臓は痛いくらいに激しく脈を打ち続け、全身の冷や汗も止まらなかった。

 シュエシは記憶を遮るかのように再び目を閉じた。そうして何度も深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようとする。

 それでも、やけにはっきりとした色や匂い、炎の熱さが消えることはなかった。まるで本当に目撃したことがあるようかのような錯覚に鳥肌が立つ。しかし、これまでシュエシがあれほどひどい光景を目にしたことは一度もなかった。それなのに夢で見たものがあまりに現実味を帯びていて、ひどく混乱した。


「血を舐めた影響で余計なものを見たか。それは夢だ、忘れろ」


 突然の声に目を開けると、ベッドの脇にヴァイルが立っているのが見えた。いつもどおり美しい顔をしていて、銀色の髪も黄金色こがねいろの瞳も見惚れてしまうほど綺麗なことも変わらない。

 それなのに、美しいその顔を見るだけでどうしてか胸がキリキリと痛んだ。痛くて悲しくてたまらず、勝手に口が言葉を紡ぎ出す。


「あなたの、家族は……」

「昔のことだ。おまえが気にする必要はない」


 夢で見たのは、ヴァイルの家族に違いない……シュエシはそう確信した。


 どうしてあんな夢を見たのかはわからない。ただ、あの夢が本当のことだったとしたら、どうしてヴァイルの家族はあんな最期を迎えることになってしまったのだろうか。

 頭がない女性、血まみれの少女と幼い子ども、胸を杭で穿たれた男の人……。夢で見た彼らを思い出すだけで、胸がギシギシと軋むように痛む。ひどい惨状に気持ちが悪くなるというよりも、ただどうしようもなく胸が痛かった。


「おまえが泣く必要はないだろう? それに言ったはずだ、人のほうこそ化け物だとな。それを棚に上げて我らを吸血鬼などと下品な呼び方をするとは、とんだ笑い話だ」


 うっすらと笑みを浮かべるヴァイルの顔が近づいてくる。それを滲んだ目で見つめたシュエシは、なんて美しい人なのだろうと改めて思った。こんなに美しいのに、どうしてこの人の家族はあんなことになってしまったのだろうか。


(そうか……美しいから、かもしれない)


 そうシュエシは思った。

 人は美しいものに惹かれる生き物だ。同じくらい美しいものに恐怖を覚えることがある。シュエシがまだ小さかった頃、両親とともに旅をしてきた土地には、そういったことを感じさせる話が溢れていた。

 シュエシも美しいものが怖いと思ったことがあった。それは旅の途中で見た踊り子だったり、歌を教えてくれた吟遊詩人だったり……、死んだ母もそうだった。


 母はその美しさから、東の国の偉い人に花嫁にと求められた。しかし、すでに母は父に嫁いでいて、お腹にはシュエシが宿っていた。ところが偉い人はそれでも母を求め、無理やり父と引き離し、宿った子を流そうとした。それに激昂した母は相手を殺し、父とともに遠い西の土地へと逃れたのだと話していた。

 シュエシの記憶にある母はいつも優しく美しかったが、東の国の人を見かけると人が変わったように恐ろしい顔になったことを覚えている。それは吟遊詩人に聞いた、東の国にいるという鬼神のようだと幼心に思うほどの形相だった。

 母の過去を聞いたのは少し大きくなってからだったが、シュエシは母の過去を憎むこともひどい人だと思うこともなかった。むしろ、鬼神のように変貌する母の顔に見惚れてしまうことさえあった。


 ヴァイルの家族は、その美しさゆえに命を落としたのかもしれない。夢で見た男の人は、死んでいるのに怖いくらい美しかった。その顔は、まるでヴァイルのように麗しく優美に見えた。


「……領主様、の、……どうして……」


 シュエシの問いに、ヴァイルが答えることはなかった。ただ美しい瞳が、じっとシュエシを見ている。


「……ひとり、なのですか……?」

「なるほど、おまえは一人きりということか」


 今度は言葉が返ってきた。しかしどういう意味かわからず、シュエシのほうが答えられない。


「花嫁は生贄だと言われているのだろう? それに選ばれたということは、かばう者がいなかったということだ。異国の地で一人きりになり、化け物の生贄に差し出されるとは不運な異国人だな」


 不運、なのだろうか。シュエシにはわからなかった。しかし六歳から十八歳になるまで育ててもらったのだから、不運ばかりではなかったように思う。

 ただ、「異国の地で一人きり」というのは間違いなかった。十年以上生きてきたこの土地のどこにいても、シュエシは一人きりだということを強く感じていた。だから土地の者たちと関わることはほとんどなく、ひっそりと生きてきた。むしろ、一人きりでいるほうが気が楽だと思うことのほうが多かった。


「ひとりは、楽です……」


 思わず口をついて出ていた。それはシュエシの本心だったが、裏を返せば一人でいるしかなかったという切ない事実を現していた。


「たしかに一人は楽だな。だからこの屋敷にこもっているというのに、うるさいハエのように人が寄ってくる。まったく不愉快極まりない」


 眉を寄せる顔は美しかったが、告げられた内容にシュエシの胸は小さく痛んだ。


(領主様も、一人きり……)


 家族を失う痛みはひどくつらいものだ。その痛みとともに、シュエシは一人きりになった。そのつらさをヴァイルも経験したに違いない。

 だからといって、一人孤独に生きていくのは悲しいことだ。そのことを、シュエシは誰よりもよく知っていた。


(……領主様を、一人にしたくない)


 シュエシは、唐突にそんなことを思った。自分とヴァイルとでは、身分も生きてきた場所も何もかもが違う。それなのに自分と同じなのではと勝手に思い、胸が痛くなった。


「……僕は、あなたが好きです」

「あぁ、聞いたな」


 シュエシの言葉にヴァイルの表情も声も変わることはない。それでも、シュエシは自分の気持ちを今度こそしっかり伝えなければと思った。


「あなたが、たとえ化け物だったとしても、好きです」

「物好きなことだ」

「……側にいても、いいですか?」


 伺うようなシュエシの言葉に、ヴァイルの目が一瞬小さく見開かれる。しかし、すぐに柔らかな黄金色こがねいろの瞳に戻った。


「おまえはわたしの花嫁だと言っただろう」

「……嬉しいです」

「化け物の花嫁だと言っているのに拒まないのか。本当に物好きな奴だ」


 最後の言葉はため息混じりに聞こえたが、表情は柔らかく微笑んだままだ。まるで執事のときのヴァイルに戻ったかのようなその表情に、シュエシの胸がふわりと温かくなる。

 思わず笑みを浮かべるシュエシに、ヴァイルが「では、花嫁の役目を果たしてもらうとするか」と静かに告げた。



  ※



「あの、領主、様……」

「領主様という呼ばれ方は好きじゃない。花嫁からは、ぜひ名を呼んでもらいたいんだが」


 覗き込むように至近距離から黄金色こがねいろの瞳に見つめられ、シュエシの頬が一瞬にして赤く染まる。


「……ヴァイル、さま……。あの、なにを……?」

「寝る前に言っただろう? 目覚めたら花嫁の役目を果たしてもらうと」

「花嫁、というのは……」

「花嫁は花嫁だ。なんだ、土地の者たちからは何も教えられなかったのか?」

「……それは、」

「おまえも花嫁になることに異存はないのだろう? ならば問題あるまい」

「でも、……僕は、その、……男、で」

「知っている。あの夜、ここが滾っているのを見たからな。それに、わたしの足に擦りつけて達しただろう?」

「ひぅ……っ」


 そう言ってヴァイルの冷たい手が、シュエシの下半身をそっと撫でた。それだけでシュエシのそこには熱が集まってしまう。


「相変わらず感じやすい体だな」

「そ、なことは、……っ」

「ほら、胸もすぐにこうだ。あの夜も、こうしてぷっくり膨らませていたな?」

「それ、は……、そうやって、触るから、ぁ……っ」

「嘘はいけない」


 あの夜と同じようにヴァイルに笑われている。それがシュエシを咎めているように思えて、一瞬体がすくんだ。しかし自分を見る黄金色こがねいろの瞳が優しいままなことに気づき、ホッとして体から力が抜ける。


「お望みなら、ほかのところも触って差し上げましょうか、奥様?」


 執事のときのような言葉を囁かれ、シュエシの体がビクン! と跳ねた。顔はジワジワと熱を帯び、体がジンジンと疼く。それはあの夜、シュエシが執事であったヴァイルに初めて教えられた快感の始まりと同じだった。


「……おまえは、本来のわたしよりも執事だったわたしのほうに感じるようだな」

「……ちが、っ、ます……」

「少々、悪戯が過ぎたか。いまのわたしにも感じてもらいたいものだが」


 意地悪にも見える微笑みを見ただけで、シュエシの体はみっともないくらい熱くなった。何かされているわけでもないのに、勝手に熱くなっていく体に戸惑ってしまう。こんなことは経験したことがなく、自分の体がおかしくなってしまったのではないかと怖くなった。


(こんなこと……ますます嫌われてしまう……)


 シュエシにとってはヴァイルに嫌われることが何より恐ろしかった。想いを寄せる相手に嫌われたくはない。


「あぁ泣くな、冗談だ。いや、淫乱なほうが願ったり叶ったりではあるんだがな」

「ちが、ぃ……ます……」


 熱くなってしまった体は隠せなくても、決してそうではないと訴えたかった。それなのに涙が出るせいか声に嗚咽が混じってしまう。そんな自分があまりに情けなく、シュエシの目尻にますます涙が浮かんだ。


「……やれやれ、子どもは面倒だな。だが、これはこれでそそられる」


 ヴァイルの唇がシュエシの耳たぶに触れた。そうして「厭らしいのもまた、そそられるものだ」と告げられた瞬間、シュエシはまた粗相をしてしまったことに気がついた。


「なんだ、一人で果てたのか」


 ヴァイルの言葉に、シュエシの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「な、んで……ど、して……」

「わたしの力のせいだろうな。我らは人を淫らに興奮させることができる。自我をなくす者もいるくらいだが、おまえにはちょうどよく作用しているのだろう。それでも、自我を保ったままこれほどみだりがましくなるのは珍しいが」

「……僕、は……」

「あぁ、だから泣くな。責めているわけじゃない。むしろ喜ぶべきことだ。淫らに熱くなるほど、その血は極上の美酒となる。おまえには、その素養が十分にあるということだ」

「血、って……」

「言っただろう? わたしは血を啜る者だと。おまえは、そんなわたしの花嫁になったのだ。その役目は果たしてもらわねばならん」

「やく、め……」


 シュエシのつぶやきに、ヴァイルが美しく笑った。


「体のすべてをわたしに捧げることだ。わたしを受け入れ、熟した血を捧げる。これが花嫁の役目だ」


 恐ろしいヴァイルの話に、シュエシの体が小さくぶるりと震えた。しかしその震えは恐怖から来るものではなく、なぜか鼓動が速くなり自分が興奮していることに気がついた。


「さて、熱い体を持て余した花嫁を慰めることとしようか」


 そう言って笑うヴァイルは、いままで見てきたどの彼よりも美しく厭らしかった。

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