4 領主様との対面
想いを寄せる人に触れられて乱れたことは、シュエシにとって残酷な記憶となった。囁かれた言葉を思い出すたびにヴァイルに呆れられたのだと痛感させられ、その夜は一睡もできなかった。
明け方、シュエシはもう一度浴室で湯に浸した布で体を丁寧に拭い、ヴァイルが起こしに来る前になんとか一人でドレスに着替えた。選んだのは露出の少ないふわっとしたもので、一見しただけではシュエシが男だとはわからないだろう。
それも無駄なことかもしれなかった。昨夜、ヴァイルはみっともない姿を目にしている。それを主人である領主様に伝えていれば、すでにシュエシが男だということは露呈しているはずだ。
もし男だと知られていたら、前に考えたとおり「東の国の者は高値で売れるので売ってほしい」と訴えるしかない。もし男だとわかったうえで花嫁としての行為を求められれば、受け入れるしかない。
たとえ男であっても、懲罰としてそういった行為を強要されることは知っている。それに東の国の者は珍しいから、興味があるという意味で脱げと言われるかもしれない。どんな内容でも、領主様に命じられれば拒むことはできない。
(……もう、どうでもいいんだ)
シュエシは諦めていた。想いを寄せていたヴァイルに「とんだ淫乱だ」と言われたことが、思った以上にこたえていたのが原因だった。
それなのに、ヴァイルの顔や指の動きを思い出すだけでいまでも体が熱くなる。自分はこんなにも厭らしい人間だったのかと思い、ヴァイルとは顔を会わせられないと痛感した。
それはヴァイルも同じだったのか、今朝はヴァイルが部屋を訪れることはなかった。代わりにシュエシが起きるより前に来ていたようで、居間のテーブルには朝食が用意されていた。
その脇には、「朝食後に旦那様がお見えになります」と書かれた紙が置かれていた。美しい文字は惚れ惚れとするほどで、シュエシはこの土地の文字を覚えておいてよかったと心底思った。
体を拭ったあと、シュエシは一人静かに冷めた朝食を食べ始めた。しかし半分も食べないうちに手が止まり、屋敷に来て初めて食事を残してしまった。
それからはいつ領主様がやって来るかばかりが気になって、ただじっと椅子に座っていることしかできなかった。
冷めた朝食の残りを見つめながら、領主様はどんな人だろうかと考えた。
十年以上この土地に住んでいれば、シュエシも領主様の噂はいろいろと耳にしていた。不男に違いないだとか眉目秀麗な貴族だという中には、次々と若い娘を求めることから娘を食らう化け物ではないかといったものまであった。
もし不男だったとしても、シュエシに思うところはない。もし美しい貴族だったら……と考えたところで、ふとヴァイルの顔が思い浮かんだ。
きっと眉目秀麗な貴族というのは彼のような人を指す言葉に違いない。最初に執事だと言われなかったら、彼こそが領主様だと勘違いしただろう。
それほどヴァイルは美しく優雅で、そんな彼が仕える領主様がどんな人なのかと考えていたとき、カチャリと扉が開く音がした。
ついに領主様が現れたのだと思ったシュエシは、慌てて立ち上がると腰をかがめ頭を下げた。これは送り出される前に育ての親から教えられた貴族への挨拶の仕方で、領主様から声をかけられるまで決して頭を上げてはいけないとも言われた。
シュエシは、ただ教えられたとおりひたすら頭を下げ続けた。カチャリという音で扉が閉められたのだと思い、布が擦れるような音で領主様が近づいているのだと悟る。その足音が止まったことで、領主様が目の前に来たことがわかった。
シュエシは、声をかけられるのをじっと待った。しかし、いくら待っても領主様の声は聞こえない。さすがにおかしいと思い始めたとき、甘い香りが漂っていることに気がついた。
それはヴァイルが毎晩髪の手入れに使っている香油に似た香りで、それよりもずっと濃密な気もする。遠い昔、両親と旅をしていたときに初めて目にした大輪の薔薇の香りにも似ていて、どうしてそんな匂いがするのだろうとシュエシの意識が香りに向いたときだった。
「今朝は随分と早起きだったようですね、奥様」
「え……?」
聞き覚えのある声に驚いて顔を上げると、そこには執事であるはずの美しいヴァイルの姿があった。
※
目の前のソファに座っているのは、たしかに昨夜まで執事としてシュエシの世話をしていたヴァイルだった。しかし執事のときの慎ましやかな姿ではなく、見るからに貴族らしい華やかな飾りのついた服を着ている。いつも結わえていた銀色の髪は長く伸ばされたままで、美しく白い指にはいくつもの指輪が見えた。
目の前にいるのは、どこから見ても優美な貴族だった。柔らかい色合いだった
毎日のように顔を合わせ想いを寄せていた相手なのに、表情も雰囲気も別人のようなヴァイルにシュエシは困惑していた。
当然、シュエシから話しかけることなどできるはずもなく、ヴァイルが何か話してくれることをひたすら待った。しかし、ヴァイルは何もしゃべらなかった。一人掛けのソファに優雅に座り、肘置きについた手の甲に頬を載せ、観察するように立ち尽くしているシュエシを眺めている。
そんな時間がしばらく続いたあと、ようやくヴァイルの美しい唇が動いた。
「さて、まずは弁明でも聞かせてもらいましょうか」
「……べん、めい?」
「わたしは若い娘の花嫁を所望したはずですが、こうしてやって来たのは若い男です。その理由を聞くのは当然だと思いますが?」
「……あの、……」
ヴァイルの声に、執事のときのような柔らかなものはなかった。丁寧な言葉遣いは同じなのに、硬質な声にシュエシの体がぶるりと震える。
それでも何か言わなければと唇に力を入れるのに、どうしてか喉が詰まったように声を出すこともできない。
「まぁ、いいでしょう。どうせ娘を差し出すのが嫌だったとか、そういった理由でしょうしね」
「……」
「しかし、まさか異国の青年を替え玉にするとは思いませんでしたよ。せめて出戻りの娘くらいなら、まだ見逃してもやれたでしょうに」
その言葉にビクッと肩が震えた。
ヴァイルは……いや、領主様は、自分が身代わりの花嫁になったことを怒っているのだ。娘を出せと言ったのに、男を寄越したのを不快に思っている――ため息をつきながらの言葉はひどく冷たく、それが心底怒っているのだと証明しているようだった。
領主様を怒らせてしまったことに、シュエシにはいまさらながら恐怖を感じた。
(このままでは土地の人たちが、育ててくれた人が大変な目にあってしまう……!)
そう思ったら、先ほどまで動かなかった口から勢いよく言葉が出てきた。
「僕はどうなってもかまいません! あの、東の国の者は、高値で売れると聞きました。だから、僕を売ってください……!」
「売って、どうしようと言うのです?」
「……売って、お金を……」
「このとおり、わたしはすでに余るほどの金銭を持っています。いまさら異国の男一人を売って得られるような、微々たる金銭に魅力は感じませんよ」
「…………でも、ほかには……」
ほかにシュエシに差し出せるものは何もない。売って金にしても仕方がないと言われたら、代わりにできることは何もなかった。それでも何かしなければ皆が大変な目にあうと思い、シュエシは必死に考えた。
体の前で両手をギュッと握りしめ、領主様に喜んでもらえる金銭に代わるものはないだろうか考えを巡らせる。しかし、シュエシの唯一の価値といえば東の国の者だということだけで、それ以外に役に立ちそうなものは何もなかった。
それでも何かしなければ、皆がひどい目にあわないように何とかしなければ……。そう必死に考えていると、再び甘い薔薇の香りがしていることに気がついた。惹かれるようにおそるおそる顔を上げると、
「ほかにもあるでしょう? あなたが差し出せるものが」
「ほかに……?」
そう返事をすると、ヴァイルの瞳が一瞬、赤く変わったように見えた。
「そう、おまえ自身だ」
そう言って笑う姿は執事のときより妖しく、圧倒的な美しさと威厳を漂わせるものだった。
シュエシは、ただ呆けたように見つめることしかできなかった。ぼんやりとした目に、ヴァイルの人差し指が自分に向けられたのが見える。その指先がクイッと動くと同時に、どうしてかシュエシの体は勝手に領主様のほうへと動いていた。
慌てて踏みとどまろうとしたものの、両足ともシュエシの意志に反して止まろうとはしてくれない。そのまま足は動き続け、ヴァイルのすぐ目の前で床に膝をついてしまった。このとき、シュエシはようやく自分の体がおかしいことに気がついた。
「あぁ、いい香りだ」
鼻先が触れそうなくらい近づいたヴァイルの気配に、ハッとした。慌てて離れようとしたけれど体は動かず、耳たぶをカリッと噛まれてビクッと肩が跳ねた。同時に昨夜のことを思い出して、顔が真っ赤になってしまった。
これ以上怒らせないためにも早く離れなければと思っているのに、シュエシの体はまったく動いてくれない。まうすます焦っていると、首筋に生温かいものが触れ、今度は上半身すべてがビクッと震えた。
それがおかしいのか、クスクスと小さな笑い声がすぐ近くで聞こえる。その声は昨日までの執事のときと同じ柔らかな雰囲気に感じられた。そのことにシュエシの気が緩んだ瞬間、首筋に激痛が走った。
「ひぃ……っ! いたっ、なに、い……っ!」
何か鋭いものを突き刺されたような痛みに、一瞬意識が飛んだ。直後、痛みは発火したかのような熱に変わり、激痛が走る場所がドクドクと脈を打ち始める。
(なに……なにが……)
シュエシはひどく混乱した。何が起きているのかわからず、信じられない激痛にますます体が強張っていく。
そのうち、血の気が引いたように頭がぼうっとしてきた。痛みと目眩に交互に襲われ、耐えきれずにわずかに開いていた目を閉じる。気がつけば手足は痺れたようにジンジンしていて、ますます頭が霞みがかったようになっていった。
その間も、首筋に鋭い何かが刺さったままなのははっきりとわかった。それが何なのか、一体何が起きているのかわからないことが、シュエシにはたまらなく恐ろしかった。
そんな果てしなく続く痛みの中で、不意にジリッとした別の感覚を感じた。ギリ、と鋭い痛みが走った直後、ズク、と疼くような感覚が走る。恐怖で震えるくらい痛いのに、その奥にジリジリとした違うものを感じる。
(一体、何が……)
奇妙な感覚にシュエシが気を取られていると、首筋に突き刺さっていた鋭いものが、さらにグッと深くに突き刺さるのがわかった。仰け反るような激しい痛みとともに、どうしてか背筋に甘い痺れが走る。
「ひぁ……っ」
思わず漏れたシュエシの声は、悲鳴ではなく嬌声だった。一度気持ちよさを感じると、激痛なのか快感なのかわからなくなる。シュエシは混乱しながらも、何度も掠れたような甘い声を上げた。
たしかに首筋には激痛を感じているはずなのに、それが頭にたどり着く前に快感にすり替わってしまう。気がつけばズクズクと燻るような淫らな熱が腰の奥深くに生まれ、それを放ってしまいたい衝動に駆られた。
シュエシの手は、小さく震えながらもヴァイルの服を必死に握りしめていた。それどころか直接的な快感がほしいあまり、無意識に下半身を目の前の足に擦りつけていた。それでも何も与えられないことがつらくて、閉じていた目をそっと開く。
最初に視界に映ったのは、銀色のものだった。
(髪、の毛……?)
自分の顔のすぐ近くに髪の毛がある。耳たぶにかかる吐息や首筋に触れているものが何か、ようやくシュエシは理解することができた。
(口が、首筋に……?)
そう思った途端に、ゾクリとしたものがシュエシの体を這い上がった。激痛だったものはすっかり消え、あっという間にすべてが快感に置き換えられていく。想いを寄せた相手が首筋に口づけているという状況に興奮し、吐精前のようなどうしようもない感覚がせり上がるのを感じた。
「ぁ、ぁ……ぁあ……ん……」
遠くで自分の厭らしい声が聞こえている。直後、下半身が濡れた気がした。
「美味だな」
艶やかな声がした。しかし言葉を聞き取ることはできず、シュエシはそのままゆっくりと意識を手放した。
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