最終話(完)

 どうやらこの女、このスクラップの山をぶん殴ったようだ。それで山のバランスが崩れて、俺はそこから滑り落ちた……という事なんだろう。何にしても、相変わらずとんでもない女だ。

 しかし地面に降り立ったのも束の間、ふんばりの利かない俺の体は、すぐにグシャッとその場に座り込んでしまった。ちょうど立ち膝をしているような格好で、もういつ倒れてしまってもおかしくないだろう。この姿勢を保てているのは奇跡のように思える。

 そしてそんな体の状態に反して、視力だけはさっきよりマシになったようだ。すぐ近くにいるミラの腰のラインがぼんやりと分かるぐらいにはなった。

 とは言え、もう首を動かすのも億劫で、ミラの顔を見上げる事すら難しい……。

「丈、大丈夫?」

 ミラがそう言ってこちらに近づいてくる。しかしその足取りは、この廃棄場に入ってきた時とは打って変わってやたら重だるそうな感じだ。

 そしてあと一歩という所で、とうとう歩みは止まってしまった。膝の辺りが揺れているのがハッキリと見える。

 と、次の瞬間、ミラはその場にへなへなとへたり込んでしまった。正座をして、力なくうなだれてしまっている格好だ。その表情は、前髪が垂れ下がってしまって窺う事が出来ない。

「……ミラ? どうした……? 大丈夫か?」

「ダメね。もう、動けないわ……。」

「お、おい……。」

 手をめいっぱい伸ばさなくても届くような距離にミラは座っている。だが、俺の体はウンともスンとも言わない。今の姿勢を維持するのが精一杯だった。

「くそ……このポンコツな腕め……。ピクリとも動かせないなんて……。」

 これではナイフを受け取る事ができない。自分を殺す事が、できない……。 

 すると、そんな俺の気持ちを見透かしたかのように、ミラが声を掛けてきた。

「丈。ひとつ、方法があるわ……。」

 ミラは、ナイフを持った手を何とか持ち上げて、自分の右胸の辺りにセットした。刃が、俺の方を向いている。 

「私の方に倒れて来たら、ちょうど心臓にナイフが食い込むはずよ。それくらいなら、なんとか出来るでしょう?」

「あ、あぁ……。」

「私は何もしていない。ただこうしているだけ……。あなたの能力が発現するかどうかは、あなた次第……。」 

「ミラ……。分かった。」

 雨が、止んだ気がした。実際には止んでなどいないのに。まるで時間が俺達を待ってくれているような、そんな感覚――。心臓の鼓動すらもゆっくり聞こえるのはその影響なのか、単に死ぬ直前だからなのか……。

 俺はミラを見つめた。相変わらず顔は見えないが、こいつはミラだ、間違いない。

 こいつはあの日からどんな時間を過ごしてきたんだろうか?

 こいつにとって、あの逃亡の日々はどんなものだったんだろうか?

 言いたい事も、聞きたい事も、たくさんある。だけど……。

「俺さ。あれから、たくさんの人間から傷つけられてきたよ。」

「知っているわ。見てきたもの。」

「憎まれてもいるんだろうな。」

「ええ。そうでしょうね。」

「ミラ、お前もか? お前は、俺のせいで人生が狂ってしまったから……。」

「私にそういう思考はないわ。なぜなら、私はロボット。アンドロイドだもの。」

「……そんなの初耳だぞ。」

「教える事を許されていなかった。だから、あの時も言えなかった……。」

「あの時……。俺があのアパートを離れた……?

 でも、それじゃあなんで今?」

「最期の最期くらい自分の好きなようにしても、いいじゃない?」

「……そっか。

 そうだな。」

 俺は最後の力を振り絞った。

 恨みや憎しみを、この体いっぱいに満たして。

 そして体をわずかに前に傾かせた。たったそれだけの事でエネルギーを使い果たしたこの体は、真っ直ぐ前へとバランスを崩してくれた。

 俺の体は、ミラの元に倒れ込んだ。……抱き締めるように。そして。


 ナイフは、確かに俺の心臓を貫いた――。

 

「……これで、良かったかしら。」

 声が、耳の裏の方から聴こえてくる。ノイズだらけの世界で、驚くほどシャープに、そしてクリアに、その声は響いてきた。 

「あぁ……サンキュ……。」

「どういたしまして。」

 ミラはそう言うと、ナイフの柄から手を離し、俺の首に腕を回した。

「うん……?」

「ずっとこうしたかったの。気にしないで。」

「……そか。」

 俺は苦笑した。

 好きにさせてやるさ。

 俺の命は尽きる。

 そしておそらく、腕の中にいるこいつも。

「どう……?」

 と、ミラが聞いてきた。体のあちこちから異音を発し、熱暴走から来る火花を起こしながらも、最期の最期まで人を下に置くような口調で。

「能力は……発動したと…思…う……?」

「どう、だろうな……。」

 ぷしゅ。ぱち……ばちっ……。

「そんなこと、もう、どうでも、いいや……。だって……。」

「だ、っ、て……?」

 ぢぢぢ……ぢ……。

「だって……こんな……いい女を……抱いて死ねるんだ……。

 どっちに、転んだって……。俺にとっちゃ……悪くない……結末だ……。」

「そう……。私もよ……。」

「へ……ざまあ……みろ……。」

 ―――――――。


 ガシャン、ガラランと、鉄くずが地面に落ちたような音が重なった。


 その乾いた音は、世界に響き渡った。


 悪意に翻弄され続けた男の、その憎しみの行く末はどうなったのか?


 それは誰にも分からない。 

 

 少なくとも……。


 “そこ” にもう “誰” もいない事だけは、たしかだ。  


                       ―完―

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