四十二

 門から出てくるミラの姿を認めて、キクチは目を見張った。

 今日ここを訪れる時までの、あの無気力な娘ではない。かと言って、研究所時代に接していたモルモットの子供でもない。無機質な印象こそ変わらないものの、彼女の佇まいが実に堂々と自信に溢れたものにキクチには見えたのだ。

 ミラは助手席側のウィンドウをコンコンと叩いた。開けろという事だろうと判断し、キクチはウィンドウを開けた。

「用事は終わったわ。ここから先は、私一人でいい。」

 その言葉に、キクチは怪訝そうな表情を浮かべた。

「どうせ街の方に出るんだろう? 私としても帰り道だ。ついでに乗って行けばいい。」

 しかしミラはその提案を固辞した。しかも、理由を聞いても答えようとしない。

 キクチとしては無理にでも乗せていこうという気はなかった。あくまでもミラに協力をするのが目的だったわけで、その必要が無くなったのであればそれはそれで良いのである。それでも、やはり釈然としないものはあった。

「……ならば、せめてこれからどうする気なのかくらいは教えてくれないか。それともまさか、それすらも答えられないと?」

「ええ。あなたは部外者だから。」

「部外者?」

 キクチはオウム返しに呟いた。それから少しの間、言葉を失い、やがて声を上げて笑い始めた。

「……笑う事かしら?」

 不満そうに言うミラを見て、キクチはさらに笑った。しまいには腹を抑えながら、涙を拭う始末である。

 ミラはキクチをこれ以上巻き込むまいとしている。自分たちの関係にここでハッキリと線を引く事で。それが分かったからこそ、キクチは可笑しかったのだ。   

「はー、笑った。疲れた……。」

 しばらく笑い転げた後で、疲労感たっぷりにキクチは呟いた。

「気に食わないというのはこの事ね。」

「……その言葉も含めて、君の成長だと私は思うよ。

 さて、じゃあ部外者は帰るとするか。おそらくもう会う事もないだろう。

 ……そうだ、その前に。」

 キクチはダッシュボードの中から、少々クタクタになったブランドものの黒い革財布を取り出してミラに手渡した。

「これは……私の。」

「君の部屋が整理される前に持ち出しておいた。

 それと、君の口座にいくらか金を入れてある。使いなさい。」

 口座には、贅沢しなければ軽く10年以上は生活できるほどの金が入っていた。勿論、この時点でのミラにそれを知る術はないが。

「……気になっていたのだけど。」

「なんだ?」

「どうして私にそんなに親切にしてくれるの?」

「…………。」

 それはずっと抱いていた疑問だった。

 ミラには幼い頃の、被験体として生活をしていた頃の記憶がほとんどない。キクチの研究に協力していたという事実はあるものの、その実感がほとんどないのである。それに彼女は、他にも複数の研究者に協力をしていた。 “数ある研究者のうちの一人”というのが、ミラのキクチに対する印象だったのだ。

 数か月前、初めてミラがキクチに助けを求めた時にしても、その理由はあくまでも “香坂博士以外に自分の事を知っていて、且つ連絡の取れる研究者”が彼以外にいなかったというだけの事である。

 自分とキクチの間にあるギャップの正体はなんなのか?

 しかしキクチはしばし黙考すると、自嘲するような笑みを浮かべて言った。

「……君と同じだよ。」

「同じ?」

「『それを言う事はできない。』

 ……だが、これだけは断言しよう。今後の君に不利益になるようなものではない、と。」

 そう言われてしまっては、ミラに返す言葉はなかった。ミラにしてもキクチに話すわけにいかない事情は山ほどあるのだ。

「じゃあ、仕方ないわね。」

「いい子だ。

 では、今度こそ帰るとするよ。帰って、山積みの仕事を片付けないといけない。」  

 そう言って、キクチは車のエンジンを始動させた。

「ドクター。」

 ミラが呼びかけた。

「まだ、なにかあるのか?」

「ありがとう。」

「……。」

 キクチは何も答えなかった。ただ口の端を吊り上げただけだった。

 彼の頭の中に、あの時の光景が鮮明に蘇ってくる。自分が研究所を辞めたきっかけとなった、あの爆発事故。嫉妬と功名心と焦りから起きた失敗だった。

 自身も重傷を負った。しかしその爆発の中心にいたひとりの少女は、即死こそ免れたものの既に手の施せるような状態ではなく、彼は己の無力さにただただ慟哭した。

『こんなはずじゃなかった――。』

『私は人を救うための研究で、逆に死に追いやってしまった――。』

『私は、なんということを――。』

 その後、少女は別の研究室で働いていたひとりの老博士に委ねられて、なんとかその命を繋ぎとめる事になった。彼の起こした事故は内々に処理されて、彼自身も不問に処された。しかし彼は、少女のリハビリが済んですっかり元通りになると、彼女に一枚の名刺を渡して研究所を去ったのだった。


(私は君に本当の事を言い出せない臆病者なのだ。)

 キクチはサングラスを掛けた。

 瞳の奥から込み上げてくるものを悟られたくなかった。 

 

 助手席の窓が閉まると、車は少しバックして、それからUターンをして静かに走り去っていった。

 ミラはそれを見送ると、ゆっくりと周囲に視線を巡らせた。自分がメンテのために使っていた山、丈が使っていた田んぼ、それから2人で住んでいたアパート。それらの光景もしっかりと胸に留めると、ミラは前を向いて一歩、それからまた一歩と足を踏み出していった。蓮見丈の居所を求めて。

 彼女の、長い長い旅が始まった――。

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