四十一

「おばあさま、もう少しだけお時間を頂けますか?」

 ミラがすっくと立ちあがって言った。先ほどまでの怯えたような姿はない。決然とした芯のようなものが彼女に通っていた。 

「いくらでも待つわ。」

 その変化をフサ江さんも感じ取ったのだろう。嬉しそうにそう答えた。

「それでは、4分20秒お待ちください。」

「あらあら。細かいことね。」

 そう言ってコロコロと笑うフサ江さんを置いて、ミラは流れるような動きで外へと出て行った。目指すはキクチの車である。

「私の服はどこ?」

 助手席のドアを開けるなりミラは藪から棒に言い放った。リクライニングを倒して眠っていたキクチは驚いて一瞬びくりと体を震わせたが、すぐに手を伸ばして、後部座席からバッグを掴んで助手席のシートに置いた。続けてクリーニング屋のビニールの包みも、同じようにして助手席へと移した。

「……普段着はこっち。こっちはスーツだな。……なんだ? 用事は終わったのか?」

 あくび混じりのキクチに返事もせず、ミラはビニールの包みを開け始め、そして一連の勢いそのままに着替え始めた。

 ……その場で。

「……おいおいおいおい‼」

 まさかのストリップショーの始まりにキクチは仰天した。ほとんど反射的に体を起こし、なぜか服を取り上げてしまう。まさか誰も見てやしなかっただろうなと、辺りをきょろきょろと見回してみたが、幸い目撃者はまだいない。しかしミラはそんなキクチの心配をよそに、ブラジャー一枚となった上体をなぜかふんぞり返らせるようにしながら手を伸ばした。

「時間が惜しいわ。返して。」

「そういうわけにいくか!」 

 キクチはハンドル横のスイッチを押して、助手席側の後部スライドドアを開けた。

「中で着替えろ! 窮屈だろうが、外では許さん!」

 厳しい口調でそう言われて、仕方なくミラは後部座席に乗り込み、着替えの続きを始めた。

「まったく……。」

 鼻息を荒くしながらもキクチはシートを起こして、着替えが視界に入り込んだりしないようにとバックミラーを下向きに倒した。メンテナンスの時にミラの裸身は散々見ていたし、今さら女性の体を見ても何の欲も起きはしないが、さすがにこんな状況では気まずいものがあった。

 この車はゆったり空間を謳っている車ではあったが、さすがに着替えをするには手狭である。

 しかしミラは、170㎝を超す長身にも関わらず、体を器用に動かして実に手際よく着替えを済ませていった。そして靴までしっかりと履き替えると、さっさと車を降りて再び家の方へと歩いて行ったのだった。

 キクチはその後ろ姿をポカンとした顔で見送った。

「なんだったんだ……一体……?」

 

 玄関の引き戸が開かれる音に気付いてフサ江さんは顔を上げると、思わず嘆息をもらした。

「おやまぁ、見違えちゃって……!」

 そこには、パンツスーツをぱりっと着こなしたミラが、少し息を切らして立っていた。ちなみにフサ江さんは気付いていないが、ミラが戻ってきたのは、家を出てからきっかり4分20秒後である。タイムロスを見事に修正した形だ。

 ミラはフサ江さんをまっすぐに見据えて、言った。

「おばあさま。私は、これから丈を探しに行きます。」

「そう。それが、あなたのやりたい事なのね。」

「はい。」

「丈さんは幸せね。あなたみたいな素敵な人に、こんなに大切に想われて。」

 ミラは頬が熱くなるのを感じて、思わず顔を逸らした。照れてしまったのである。そして自分の中にそんな感情が現れた事に驚いてもいた。

 蓮見丈を探す。そしてあの時の誤解を解く。そしてもし彼が許すならば、今後も彼のもとで一緒に――。 

「最期の最期に、いいプレゼントを頂いた気分だわ。ミラちゃん、どうもありがとう。」

「いいえ。私も大切なものをおばあさまから頂きました。ありがとうございます。」

「ふふふ。それじゃあおあいこね。

 ……さ。もう、お行きなさい。決心が鈍らないうちに。」

「……はい……。おばあさま……どうか、お元気で。」

「あなたもね。」

 ミラは深々と頭を下げた。震える唇を真一文字に引き締めて。

 そして外へと出た。ゆっくりと玄関の引き戸を閉めてゆく。なるべく音を立てないように、静かに……。それが感謝の示し方だと、なぜか思った。

 トン……と、微かな音が鳴った。ミラはしばし瞑目し、引き戸から手を離した。


 ……これ以降、ミラがこの家の老婆の事を心に思い浮かべる事はなかった。

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