四十

「せっかく来てくれたのに、こんなバタバタしていて……。」

 玄関に座りスニーカーの靴ひもを結んでいるミラのすぐ後ろから、フサ江さんは声を掛けた。腰の具合も思わしくないというのに、板の間に正座をしている。

「でも、最期にまたこうやってあなたに会えて、私、本当に嬉しかったわ。」

「私もです。おばあさま……。」

 ミラはどこか余所余所しさすら感じさせるような口調で返事をして、靴ひもを結び終えて立ち上がった。そしてつま先部分を地面にトントンとやって靴に足を馴染ませる。

 先ほどからミラは下ばかり見ている。彼女自身、これではいけない、そう理解はしているのに、身体がどうしても拒否してしまうのだ。

 ミラはやはり俯いたまま振り返って、頭を下げた。

「では……私はこれで……。おばあさま、どうかお元気で……。」

 そしてとうとう最後までフサ江さんの顔を見る事もなく、そのまま踵を返して外へと出て行こうとした……その時だった。

「ミラちゃん。……お待ちなさい。」

 玄関の引き戸に手を掛けようとしていたミラは、その声を聞いて思わず体を強張らせた。いつも彼女が聞いていたあの柔らかで上質な和紙のような声に、厳とした重みが加わっていたのだ。

「こっちを向いてちょうだい。」

 その声に逆らう事は出来ず、ミラは恐る恐る振り向いた。

 スラっとした長身の、美しさと格好良さを兼ね備えた大人の女が、まるで悪い事をして叱られる時の子供のような表情である。フサ江さんはそんなミラの様子を見て困ったように、しかし穏やかに微笑んだ。

「大丈夫よ、ミラちゃん。怒ってなんてないんだから。」

 そう言って、フサ江さんはミラを手招きした。ミラは大人しくそれに従って、フサ江さんの目の前に座った。靴を履いたままなので、ちょうどフサ江さんに対して体だけ横を向くような格好である。

 フサ江さんはミラの頭を撫で始めた。それはまるで愛しいものを慰めるかのように、優しい。

 皺だらけの指が髪を梳く度に、ミラは言いようのしれない心地よさを感じていた。いつしか体の緊張はどこかへ消え失せてしまっていた。

「少し、身の上話をしてもいいかしら。」

 フサ江さんの言葉に、ミラはコクリとひとつ頷いた。声はすでに普段の声音に戻っていた。

 フサ江さんは「ありがとう。」と言って少し黙すると、やがてぽつりぽつりと語り始めた……。

「……若い頃の話だけれどね、私みたいなのにも夢があったの。それは、遠く、西の方の国にひとりで旅行に行く事。ずっと、ずーっと夢だった……。

 けれど私は、自分よりも家族を優先してきたわ。……そうしなければいけなかったの。2人の子供を育てて、孫の面倒も見て、病に臥せった夫の介護もしてきた。

 ようやく全てから解放された時には、私はすっかりおばあちゃん。あなたも知ってる通り、腰も悪くしちゃって、他にもあちこち日替わりで、今日はどこが良くない、今日はここが悪い、ってそんな有様で。お散歩だって簡単には出来なくなっちゃったわ。夢を叶えるなんて、もうとてもとても……。」

 フサ江さんは話し続けた。その西の国は、戦争で死んだ前の夫の最期の地である事。今、2階で作業をしているのは、その後で見合い結婚をした夫との間に出来た子供である事。どうしても前夫の姿が心に浮かんでしまう事に負い目を感じ、それで余計に今の家族との時間を優先してきた事。そして、とうとう前夫の顔すら思い出せなくなった事……。

 語るフサ江さんに悔恨のニュアンスは無い。それらはすべて “懐かしさ”という忘却の彼方である。

 ……昔語りを終えて、フサ江さんは言った。

「ごめんなさいね。あなたに、どうしても聞いてもらいたかったのよ。」

 しかしミラはその話を聞きながら、どうしようもない苦しみに喘いでいた。

 “夢”とは“望み”だと、ミラは解釈している。自分の抱いている望み。その事をイメージすると、丈の姿ばかりが浮かんでくるのだ。

 どうして? 自分の任務は終わっている。丈に拒絶されたあの瞬間に。なのにどうしてあの人の姿ばかりが……?

「分かりません……。どうして……私は……どうしたらいいんですか……?」

 もはや、思考はぐちゃぐちゃになってしまっていた。自分がどうすればいいのか考えても考えても分からず、とうとう分からないという事をそのまま言葉にしてしまった。縋る思いだった。

「どうせ私にはもう何もない、全部失いました……! 何もないのに、いったい何があるんですか……?」  

 まるで駄々をこねる子供である。しかしフサ江さんはゆっくりとかぶりを振って答えた。

「……やりたい事は、あるでしょう?」

「え……?」

 またも丈の姿が脳裏に浮かぶ。ダルそうにしながら愚痴を言っている姿が。

 フサ江さんは、戸惑うミラの目をまっすぐに見つめて言った。

「やっておしまいなさいな。

 あなたは私とは違う。

 あなたは自由なのよ。

 なんだって出来るし、どこにだって行ける。

 あなたがどうするかを決めるのは、他の誰でもない “あなた自身”なの。

 ……それでやってみても、どうしても、どうしてもダメだと思う時がもし来たら。

 そうしたら、その時に諦めなさい。」

 最後にフサ江さんは「私みたいになっちゃ、ダメよ。」とにっこり笑いながら付け加えた。

(やりたい事……自由……決めるのは……私自身……。) 

 ミラの中でなにかが決壊してゆく。ガラスが散らばるかの如く。その欠片達には様々な映像がイメージが映し出されていた。

 記憶だった。言葉だった。それらは柔らかなオーロラのようでもあり、鎖でもあった。

 そして砕け散ったその奥にあったものに触れた時、気付いたのである。

(そうか、あの時もそうだったのね。)

 あの日。香坂博士が撃たれた日。ミラは親同然である香坂博士からの命令に逆らって、丈の逃亡の手助けをした。

 “今の私の仕事はあなたの世話係よ。”

 そう強引に理屈をつけた、その裏にあった本当の気持ちに、ミラは今になってようやく気付いたのだった。

 

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