三十九

 いかにも品の良さそうな、小柄な老婆だ。腰が少し曲がっている事も手伝ってか、長身のミラに比べると頭2つ分は小さく見える。

「これでも今日は腰の具合が良くってね。」

 老婆はミラを家の内に招き入れると、居間の方へと連れて行った。

「座布団を並べて、座っておいてちょうだいね。」

 そう言い残して、自身は台所へと歩いていく。

 ミラは居間に足を踏み入れた。そして思わず息を呑んだ。以前に訪れていた時とは、様相がガラリと変わっていたのである。

 まず、部屋の中央に置かれていた座卓が無かった。柱時計やタンスもなくなっている。視線を移すと、床の間に掛けられていた掛け軸もなくなっていて、後ろの砂壁にシミのようなものが残っているのまで見えてしまっていた。

 ミラはこの畳敷きの居間の雰囲気が好きだった。なぜかは説明できないが、不思議と自分の中の何かが落ち着くのだ。だがその感覚は今はない。部屋から家財道具がなくなるだけでこんなにも印象が変わり寂しくなるのかと、ミラは思った。

 そうして居間の変化に目を奪われていると、不意に上の階から男女の話し声が聞こえてくるのに気付いた。その内容から親類の者が来ているのであろうことを察して、ミラはなんとも言えず居心地の悪い気分になり始めていた。

 座布団は部屋の隅に積んであった。しかし並べるにしても座卓はすでにない。ミラは少し思案して、その内の2枚を縁側の手前に並べて敷いて、そのうちの片方に正座した。

 やがて、老婆が居間にやってきた。木で出来た丸いお盆を手にしている。そこには急須と、湯呑みが2つ、それからカステラを乗せた2枚の小皿が乗っていた。

 ミラはお盆を受け取り畳の上に置くと、老婆が座布団に座るのを待って、彼女……フサ江さんに改めて挨拶をした。

「ご無沙汰していました。おばあさま。」

 フサ江さんは、頭を下げるミラの手を取って上下に振りながら、嬉しそうに何度も頷いた。

「あなたが会いに来てくれなくなって心配していたのよ。……でも、元気にしていたようで何よりだわ。」

「色々とあったものですから……。」

「絹ちゃんも心配していたわ。お金と書き置きを残して居なくなっちゃったって。」

「はい……。」

 絹ちゃんというのは、ミラの住んでいたアパートの大家の名前である。ミラは倒れるしばらく前から、部屋の解約用のお金と書き置きを、部屋の机の上に置いておいたのだった。

 フサ江さんは、ミラ達が居なくなった後の事を話した。丈が世話をしていた田んぼのその後の事であるとか、近所の家の人の話だとか、日用品の宅配のサービス内容が少し悪くなって困っただとか。それは以前と変わらぬ、日常の他愛ない話ばかりである。

 だからこそ、ミラはどうしても気になって仕方が無かった。引っ越しの件をフサ江さんが口にしないのだ。

 そうして世間話が続き、お茶がほとんど空になった頃、ミラは意を決して問いかけてみた。 

「ところで、おばあさま。引っ越しを……されるのですか?」

 さっきまで饒舌に喋っていたフサ江さんが、はっと口をつぐんだ。そして、やがて寂しげにため息をついた。

「そうよね……、話さないわけにもいかないわよね。」

 フサ江さんは観念した様子で、話し始めた。

「あなたが居なくなる少し前だったかしら。遠方に住んでいる息子夫婦が久しぶりに訪ねてきたと思ったら、私に『老人ホームに入れ』って言ってきたの。最初の内は断っていたんだけれどね……。でも、私ももういつお迎えが来てもおかしくない年齢だし、それだったら……って思うようになってね。行くことにしたのよ。」

「それでは、上から聞こえてくる話し声は……?」

「あら、聞こえるの? そうよ。息子夫婦。」

「ご挨拶をしに行っても?」

「……身内の恥を晒すようだけれど……、私にお客さんが来てるっていう事を知っても挨拶に来ない息子たちよ。あなたからわざわざ行くことなんてないわ。」

「そうですか……。」

 それはあきらかな拒絶だった。しかしそれはミラに向けられたものではなく、息子夫婦に向けられたことであることを、ミラはフサ江さんの仕草から何となく察した。

 話題を変えようと、今度はフサ江さんが尋ねた。

「ミラちゃんはどうしていたの? 一緒に住んでいた方は?」

「あの人は……丈は……居なくなりました。」

 フサ江さんは目をまんまるに見開いて、驚きを示した。

「居なくなったって……どうして?」

「それは……私のせいで……。

 あ ……いえ! ごめんなさい。言えません……。」

 ミラは必死に、言おうとしてしまった言葉を飲み込んで、首を横に振った。

 なんとも気まずい空気が2人を包み込んでしまった。特にミラは、自分のにショックを受けてもいた。

 来ると分かっていた質問だったのだ。そしてその質問に真摯に応えられない事も分かっていた。なぜならそれは、丈の秘密や自身の仕事に直結する恐れがあるからだ。もしもバカ正直に全てを話してしまえば、最悪の場合、フサ江さんやこの村の人々に危害が及ぶ可能性すらあるのである。

 それなのに何故、私は今、素直に話そうとしてしまったのだろうか……? しかし考えても考えても疑問が堂々巡りにやって来て、まったく思考が前進しないのだった。

 フサ江さんは、俯いているミラの顔をしばらく見ていたが、それ以上追及するようなことはせず、ただ一言「……お湯、淹れて来るわね。」とだけ言って、お盆を持って台所へと姿を消してしまった。

 ひとり、居間に取り残される恰好になったミラは、急激に現実に引き戻されたような感覚に陥っていた。落ち込む程に、周囲の情報が入り込んでくる。ふすまの間を行ったり来たりしている人の姿も、階段を勢いよく昇り降りする音も、2階から聞こえる話し声も。それらひとつひとつが、ミラに囁いてくるようだった。

“ここは、お前の居場所ではない。”と。

 居心地の悪さを強くしたミラは、怯えたように室内を見回した。

(どれくらい時間が経ったのかしら……。) 

 いつも見ていた柱時計はすでにない。はたと思い当たりスマホを取り出して時間をチェックすると、すでに1時間近くが経過していた事に気が付いた。

(いつまでもお邪魔しているわけにはいかないわ。)

 ミラは強引にそう結論付けて、立ち上がった。その裏に潜む本音に気付かぬままに。


 台所では、フサ江さんがちょうどポットのお湯を急須に入れ終えた所だった。ミラがお暇する事を告げると、フサ江さんは心底残念そうな表情を浮かべて「そう……。」とだけ呟いた。

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