37
暗がりの中を歩いていると、俺は突然、なにか圧迫感のようなものを感じた。大きな壁がすぐ近くにあるような、そんな感覚だ。
そしてそれが “船”だという事を認識するまでには、そんなに時間は掛からなかった。
張氏は足を止めると、こちらを振り返った。
「さて、まだ少し時間がありますね。せっかくですので、一度試しておきますか。」
「……試しておく?」
そう俺が言い終わるや否や、張氏は俺の顔面を思いっきり殴りつけた……!
身構える暇もなかった俺は、殴られた衝撃で近くにあったコンテナに叩きつけられてしまう。
「ぐぁ……。」
行き場を失くした空気が喉から漏れ出る。
痛覚が除去されているおかげで痛みはない。しかし、今の一発でどうやら口の中を切ってしまったようだ。
久々に感じる鉄の味……。
張氏の部下のひとりが俺に手を差し出して、身を起こすのを手伝ってくれる。
と、ほぼ時を同じくして、遠くの方で派手なブレーキ音と、それから衝撃音とが起こった。……車の事故だ。それも恐らくはバイクじゃなく、四輪の。
「蘇芳サンは車ですよね?」
張氏のその言葉で、俺は何が起こったのかを察する事ができた。
「……ああ。だけど、あいつに恨みなんてあったのか?」
「それほどのものはないですよ。ただ、私達に嘘をついた罰は、受けてもらわなければいけませんからね。」
嘘、というのはあいつが実はヤクザじゃないとか、俺の名前の事だとか、どうせその辺なんだろう。それにしてもどうせ殴るなら、その前に一言言って欲しいもんだ。
「確認する時間はありませんが、タイミングから見て今のは蘇芳サンで間違いないでしょう。我々の頂いたデータは事実だったと言う事が、これで分かりました。」
純夜が車で来ているというのを予想していた上でやったんだとしたら、なかなかエグい話だ。
たぶん俺の能力はそんなに強くは発現しなかったはずだ。それでも運転中のあいつにショックを与えるには充分だったに違いない。俺はあいつに少し同情した上で、(まぁ、報いだな。)と心の中でそう付け加えた。
「殴ったお返しに、もうひとつだけ質問に答える事にしましょう。 船に乗ったら、もうお話する機会は、我々の国に着くまではありませんからね。」
と、張氏が言った。
その親切なご提案に、遠慮なく乗っからせてもらうとしよう。どうせそのうち分かる事ではあったが、気になる事は早めに知っておきたいとも思った。
「それじゃあひとつだけ。俺は、今後どうなるんだ?」
「一言で言えば、実験台ですね。手に入れたデータを基にして、アナタの持つ力の全貌を暴きます。手荒な事もするでしょうが、実験が終わるまでの身の安全と、それなりの生活は保証しますよ。死んでしまわれては元も子もありませんからね。」
……なんとも意外な返答に、俺はきょとんとしてしまった。もっとボロ雑巾のように扱われるものと思っていたからだ。
「予想してたよりだいぶマシっぽいな。」
と、苦笑いを浮かべた俺に対し、張氏はかぶりを振った。
「それは我々の言葉ですよ。
我々があの研究所をマークしていた当初は、まさかこんな魔法のようなものが有り得るとは思っていませんでしたからね。無駄働きだと思っていたのですよ?」
「魔法、ねぇ。」
「アナタは金の成る木に違いない、だから丁重に扱うのです。もしアナタの力が期待外れだった時は……その時は想像つきますね?」
張氏がニヤリと笑みを浮かべてそう言った。
「……あぁ。」
その時こそ、本当にボロ雑巾のように扱われて、俺は殺されるのだろう。
海に打ち捨てられるのか、それとも山か、はたまたホルマリン漬けにでもされるのか。なんにしても、ご勘弁を願いたい未来である。
張氏は、再び懐中時計を取り出した。
「さて、時間のようですね。」
すると船の方からギギギギ……と、なにかがきしむ音がした。音のした方を見ると、船のタラップなのだろう、薄暗い闇の中から白色の橋のようなものがゆっくりとこちらに伸びてきているのが目に入った。
船の中からひとりの男が現れ、タラップを手早く設置してゆく。そしてその男に促され、張氏、灯りを持っていた部下、俺、それ以外の部下達の順でタラップを渡っていく。
タラップなんて、ほんのわずかな距離だ。にもかかわらず、俺はそれを渡っただけで「あぁ、これでこの国ともオサラバなんだな。」という実感を得ていた。だがそこにあったのは、あくまで他人事で、突き放したような感覚だけだった。
今まで出会ってきた人たちの顔も、浮かんではすぐに消えていった。ついさっきまで一緒にいたあいつの顔も。
1年以上一緒に暮らしていた、あいつの顔でさえも。
すべては遠い過去のように……。
それからの俺はと言うと、逃げ出したりしないよう手足を拘束されて、船室のひとつに閉じ込められてしまった。立場が立場だし、体の自由が利かない事なんてどうでも良かったが、これで事故なんて起きてしまったら最悪だ。どうか無事にあちらの国まで着いて欲しいと心から願わずにはいられなかった。
そうして横たわりながらしばらく旅の無事を祈っていると、不意に、地震のような揺れを全身に感じた。もし立っていたら気付かなかったかもしれないぐらいの、微弱な揺れだ。
俺は直感した。
船が動き出したのだ、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます