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「秀。お前、海外に行かないか?」

 

 蘇芳純夜は、たしかにそう言った。聞き間違えのないぐらいにハッキリと、そう言ったのだ。

「海外……って……、この国を出ろってのか?」

「あぁ。そうすりゃ、少なくとも追われる心配なんてなくなる。

 そして、その手配は俺がしてやる。」

 正直な話、今まで自分の中にはなかったアイディアだった。

 俺を追っているのはヤクザだけじゃない。あれから一度も遭遇していないが、あの黒服たちや、そいつらが関わってる組織だって俺を追っている可能性はまだあるのだ。

 それを考えれば、海外に逃げるというのは現実的な手段なんじゃないか?しかもその手配までしてくれるのならば、まさに渡りに船。そして今の純夜ならば、そういう方面に手を回せるのも納得出来る。

 ……納得出来る……の、だが……。

 どうしても、俺には腑に落ちない事があった。こいつがそんな提案をしてきた理由だ。世のため人のためなんて考えがこの男に無い事を、俺は良く知っている。

「純夜……。お前、なに考えてる? 今んとこ、お前にはリスクしかないぞ。」

「リスク、ね。なら、罪滅ぼしっていうのは、どうだ?」

「だったら断る。」

「待て待て! 冗談だって!」

 ベンチから立ち上がろうとするのを、慌てて純夜が制止してくる。俺は両肩を押さえつけられ、半ば強引にベンチに座らされた。

「ったく……。罪滅ぼしの気持ちがないわけじゃねえんだよ。だから信じろよ。」

「……話せよ。お前のメリットを。話に乗るかどうかはそれ次第だ。」

「はぁ……。分かった。分かったよ。」

 純夜は降参と言った様子で肩を落とした。しかし、話してくれるのかと思いきや、純夜は俺にくるりと背を向けて黙り込んでしまった。その表情は窺えないものの、視線があちこちに動いているのは後ろからでも分かる。どうも、話し出すのに決心がつかない様子だ。

「おい。」

 待ちきれず、俺は催促するように声を掛けた。

 すると決心がついたのか、それとも破れかぶれになったのか。純夜はバッと俺の方に向き直った。

 視線が交錯する。

 やがて、純夜が口を開いた。

「……邪魔なんだ。お前が。」

「俺が……? なぜ?」

 ……思いもしなかった言葉だった。俺には純夜の言っている意味がまったく分からない。女遊びが出来ない事以外は、もうすっかり悠々自適の生活の男が、今さらなんで俺なんかを。

「怖いんだよ。鳴神秀は絶対にオレを恨んでる。いつか秀が、恨みを晴らしに、本当の事をすべてバラしにやってくるんじゃねえかってな。

 もしそんな事になったらおしまいだ。組の連中を今まで騙していたことがバレちまう。

 ……ま、あいつらなら、悪くても半殺しで済ませてくれるかもしれねえけどな。

 だけど問題はオヤジだよ。

 オヤジは昔気質の人間だ。嘘とか裏切りってのが許せないタチなんだ。しかも、男手ひとつで結華を育ててきてる。溺愛っぷりがハンパじゃねえ。

 もし、付き合う前から結華と寝てたなんて事がバレたら、オレは間違いなく殺される。間違いなくな!

 だから、お前にはこの国から消えてもらった方が、オレにとっちゃ都合がいいんだ。」

 そこまで一気に喋り終えると、純夜は肩で息をし始めた。 

 少し冷たさを含んだ風が、まるで漫画のように俺達の間を吹き抜けていく。

 俺の方はというと、頭の中がごちゃごちゃしてワケが分からなくなってしまっていた。

 こいつが言った事は理解できている。理解できているのだからそれでいいはずなのに、頭の中で本題とは関係のないワードが繰り返されて、それが混乱の原因となっていた。

(ウラミオハラシニ、恨ミヲ、晴ラシニ……? あぁ、恨みを晴らす、か……。そういや今まで散々、人を嫌いになったり憎んだりしてきたけど、恨みを晴らそうなんて考えたこと、なかったな……。)

 そんな思考と共に、今までに出会ってきた人たちの顔が浮かんでは消えていった。その中には、俺を殴った事で恨みを晴らす事ができたかもしれない、たくさんの客も混じっていた。

(そうか。普通はそうなんだ。

 もしかしたら俺はどこか歪んでるから、その発想に至らなかったのかもしれないな……。)

 心の中で自嘲する。今までの自分は、ある意味じゃオメデタイ奴だったわけだ。

 俺は “気付き”を与えてくれた純夜に感謝したい気分になりかけていた。

「……秀? おかしいのか、オレの言ってる事が?」

 その声にハッと気付くと、純夜が怪訝そうな表情でこちらを見ていた。心の中で起きていたはずの自嘲の笑みは、どうやら無意識に表面に出てしまっていたようだ。

 今考えなければいけない事柄はそこじゃない。俺は今度は意識的に小さく笑って、首を横に振った。

「いいや。こっちの話だ、気にしないでくれ。」

「……?」

 純夜の視線をよそに、俺は自分の答えを固めていった。心の中はいつの間にかさっぱりとしていた。

「純夜。……お前の話、受けるよ。」

「……本当か?」

「あぁ。たしかに俺がいたら、お前は不安でしょうがないよな。

 それに俺にしたって、いい加減、この逃亡生活からオサラバしたい気持ちはあるんだ。この国にだって未練はないしな。」

「……そうか。すまねえな。」

「あくまで利害が一致したってだけだ。お前の話を全部信用したわけじゃないからな。」

「あぁ、それでいい。」

 純夜は苦い笑みを浮かべてそう言った。


 話が決着したので、俺は今度こそベンチから立ち上がった。体を伸ばしながら、首を左右に倒してやる。辺りを見回してみると、さっきまで遠くから微かに流れてきていた音楽が鳴りやんでいるのに気付いた。俳優の卵たちもすでにここから姿を消している。まだ空は明るさを残したままだが、それなりに時間は経っていたようだ。

「それで? その手配ってのが出来るのには、どれくらい掛かりそうなんだ?」

 俺の問いに、純夜は少し考え込んでから答えた。

「……1週間は、見ておいてくれ。」

「分かった。じゃあ、ここの他にホームレスのたまり場、知ってるか? もし知ってるなら幾つか教えてくれ。そこのどれかに隠れてるから。」

「ハァ?」

 準備が整うまでに捕まってしまったら元も子もない。そう思った俺の真剣な問いかけに対して、なぜか純夜は素っ頓狂な声を上げた。そして、ハッと何かに気付いた。

「お前……これまでずっと逃げてたって言ったよな……? まさか、ずっとホームレスしてたのか!? 嘘だろ!?」

「いやそういうわけじゃねえけど。……ってか、誰のせいだよ。」

 ……やはりこいつに罪の意識なんてないのかもしれない。

 俺は、人生で一番と言っていいくらいの乾いた声でぼやいたのだった。

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