三十一

 蓮見丈(鳴神秀)と蘇芳純夜が、何年ぶりかの邂逅を果たしていたその頃……。

「ひとまず終わったよ、ミラ。」

 くたびれた声が狭い室内に響いた。男の声だ。

 白衣を着た痩せ肉で細面の、50を少し過ぎた男である。白髪交じりの髪の毛は短く整えられており、その声とは裏腹に、全体的に清潔感のある佇まいだ。

 男は手にしていたペン型のデバイスを、自分のすぐ脇にある作業用ユニットについているソケットに差し込んだ。

 ミラと呼ばれた女は、手術台のようなものの上に寝かされていた。スラッとした長身の、美しさと凛々しさが同居したような女である。しかしその体のあちこちにはケーブルが繋げられていて、あまり人間味が感じられない。

 ミラはゆっくりと目を開いた。その切れ長の目は、どうやらまだ焦点が合っていないのか、力なく虚空を見つめている。

「あれから……どれくらい経ったかしら……?」

 男は、作業用ユニットの上に並べられた器具を片付けながら答えた。

「だいたい3ヵ月と言った所だな。」

「だいぶ時間が掛かったのね……。」

「3ヵ月で済んだと思ってくれ。こちらは寝る間も惜しんで仕事をしたんだ。」

「なぜ、私を助けたの……? 私はあのまま朽ち果てるつもりだった……。」

「その質問は聞き飽きた。」 

 そう言うとキクチは立ち上がり、壁際に置いてある小さなボックスの蓋を開けた。ボックスの中にはアルコールを除いた様々な種類の飲み物が冷蔵されていて、彼はその中からスポーツドリンクを取り出し開栓すると、美味そうにゴクゴクと喉を鳴らしながら一息に飲み干してしまった。

 キクチはフゥと気持ちよさげに息を吐き出して、ミラの方を振り返った。

「君が呼んだから助けたんだ。余計な事をしたかのような物言いは、もう止めて欲しいな。」

「それは申し訳ない事をしたわ……。」

 そう口には出しつつも、ミラはまるで納得していない様子だった。“助けを求めた”という自分の行動が信じられないのである。


 蓮見丈が去ってからのミラは、外出をする事がまったくと言っていいほど無くなってしまっていた。

 丈からの決別の言葉は、ミラにとって任務を解かれたことを意味した。ミラは頭の中で丈という存在にロックを掛けようとした。彼の後を追わないようにと。それが彼の望みなのだからと。

 そうして何をするわけでもなく過ごしている内に、段々とミラは体調を崩すようになり、ついには倒れ伏してしまったのだった。

 ミラの体は本来、定期的なメンテナンスを必要としていた。香坂健早博士の元にいた時は、彼がそのメンテを施していたので、身体的な問題は特に起こらなかった。しかし香坂博士と別れて以降はミラが自分自身で行わなければならず、技術や設備などの面でどうしても限界があった。しかも本来は1~2ヵ月に1度のペースでのメンテが必要なのだ。それにもかかわらず、ミラは丈との生活を優先し、次第に崩れていく自身の体の調子を無視し続けてしまったのである。

 実は丈と暮らしている間に、ミラは一度、倒れそうになってしまった事がある。その時に彼女に呼びつけられて助けに来たのが、ドクター・キクチである。

 キクチは、香坂博士が殺されたあの研究所で仕事をしていた、医者であり、研究者である。ミラは被験体としてキクチの研究に協力していた時期があり、自分の体を任せられる可能性のある人間としてキクチを呼んだ。そしてキクチは、ミラがセルフメンテのために使っていた、アパート近くの山林の中にある小屋を訪れ、彼女に応急処置を施したのだった。

 しかし今回はその時よりも重症だった。前回と同じようにミラに呼ばれてキクチが駆け付けた時には、すでにミラは意識不明の状態で、小屋の設備や、彼の持ってきた機器ではとても対処できるようなものではなかった。キクチはなんとかミラを車に乗せて、自身の経営する病院の研究室へと運んで行った。それが、今から3ヵ月ほど前の事である。


 一息入れたドクター・キクチは、作業用ユニットのモニターを確認すると、手元のコンパネを操作し始めた。

「質問していいかな?」

「なに……?」

「あと1週間もあれば、君の体は完全に復調する。めでたく退院というわけだが……。

 ここを出た後、君はどうするつもりだ? 香坂博士が亡くなっている以上、研究所には戻れまい。

 ……やはり、死ぬつもりなのか?」

「……。」

「君は生きる希望を失くしたのだと、私は見ている。いや……生きる目的、もしくは理由と言った方が適切かな? そしてそれは、あそこで暮らしていた事と何か関係があるのだろうと思うが。」

 キクチのこの言葉は、あくまで推測から来るものである。数年前に研究所を辞めていた彼には、ミラの現在の事情など知る由もない。香坂博士の死にしても、ミラの頼みを受けて調べたから分かっただけの事で、その死の背景までは知らない。勿論、蓮見丈の存在も。

 ミラはキクチの質問に答える事ができなかった。キクチの指摘が大枠では外れていいなかったからである。だからこそ、ミラは自室で死にかけていたのだ。

「まぁ、君に何があったかを知るつもりはないがね。

 それでは質問を変えよう。退院したら、どこか行きたい所はあるか?」

「それは……」 

 無い。と言いかけて、ミラははたと思いとどまった。1ヶ所だけ、思い当たる所があったのだ。

「……近所の……おばあさまの家……。お別れの挨拶をしに……。」

「近所とは、あのアパートの、という意味か?」

「ええ……。」

「分かった。君が復調したら、そこまで送っていってやろう。」

「そこまでしてくれなくてもいいわ……。」

「そういうわけにはいかない。君は私に助けを求めてきたんだ。それも2度もだ。

 少しは私にだって我儘を言う権利がある。」  

「だったら……。」

 キクチはミラの言葉を遮るかのように、コンパネをタンッとひとつ、強くたたいた。するとモニターに映し出された画面は心電図のようなものに変わり、ユニットからは新たに1本のアームがミラに向かって延びていった。先端にはマスクがついており、ミラの口に装着されるとピピピッと電子音が鳴った。続いてミラの足元の方から、シールドが山なりにスライドしてくる。

「話はおしまいだ。とにかくあと1週間、しっかり体を休めるように。」

 シールドは手術台ごと、すっぽりとミラを覆ってしまった。卵状になったそれには丸い窓がついていて、ミラの表情だけは窺えるようになっている。マスクから臭気ガスのようなものが出ているのだろうか、ミラはいつの間にか目を閉じて、既に深い眠りへと落ちていた。


 キクチはミラの様子を確認すると研究室から出て行った。扉の先は院長室である。勿論、キクチの部屋だ。

 キクチは皮張りの、いかにも高級そうなチェアに腰を下ろすと、深く背中を預けた。卓上時計を見ると「21:09」と表示されている。

 ミラのメンテナンスのおかげで、この3ヵ月の間、処理し切れなかった院長としての仕事は随分と溜まってしまっていた。スタッフたちにも迷惑を掛けてしまっているだろうが、その埋め合わせは勿論するつもりだ。

「……いいじゃないか、私はあの子に出来る限りの事はしてやりたいんだ。あの子をあんな体にしてしまった全ての責任は、私にあるのだから……。」

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