23

「嫁さんは今日はどうしとるんだ。しばらく姿を見せんけども。」

 あの激しい雨が上がって3日。土も乾いてきて、俺はようやく畑に出られるようになっていた。

 声を掛けてきたのは、先日、雨が降る事を教えてくれた近所の爺さんだ。嫁さんとは勿論、ミラの事である。

「朝早くから、またあそこのお婆さんの家に手伝いに行ってますよ。」

 と、俺はそのばあさんの家の方向を指さしながら答えた。

 ミラは雨が上がる頃には調子を取り戻したようで、3日連続でばあさんの家に行っている。

「そうかそうか。あそこの婆さんは腰が悪いから助かるだろうなぁ。

 うん? そういえば……最近どっかであんたの嫁さんを見かけたような気がするんだが……はてな……?」

 爺さんは作業の手を止めて、ぼけーっと空を見上げながら、なにやらブツブツと呟き始めた。

(どうせ、スーパーかその辺だろうに。)

 この爺さんはいつもそうなのだ。しょっちゅう何かを忘れたと言ってはブツブツ呟いている。それでいて、いざ思い出したところでそんなに大した話でもない。最初の頃は俺も一緒になって考えてあげていたけれど、作業がただ遅れるだけだと気付いてからは、申し訳ないながらも放置するようになった。

 俺は爺さんのそのノホホンとした様子に苦笑いしながら、作業を続けた。

 程なくして爺さんは無事、何かを思い出したようで、やおら手をポンと叩いた。

「そうだそうだ。 “山の方から出てきた”のを見たんだった。」

 意外な言葉だった。俺は思わず作業の手を止めて、爺さんの方を見た。

「……山の方から出てきた? 誰が?」

「誰って、あんたの嫁さんだよ。」

 しれっとした表情で言ってくる。

「それって、いつごろ……?」

「んん? 今月の事だったとは思うが、日にちまでは覚えてないなぁ。たしか、陽が落ちた頃合いだったよ。でも、なーんであんなとこにいたんだろうなぁ? あの山は持ち主がいるから立入禁止なんだけどもなぁ。」

「……なにか、その時変わった事はなかった? 気になった事とか。どんな小さな事でもいいから!」

 俺の剣幕に気圧されたのか、爺さんは動揺して禿げた頭をしきりに撫でている。

「さ、さぁ……、なにせハッキリとは見えとらんかったしなぁ。

 ……ん? あぁ、そういえば。」

「なに⁉」

「あれは……たしか同じ日だったなぁ。その山から出てくる車があったんだ。たまに山の持ち主が車で来る時があるもんで、それかなと思ったんだけども、いつもとは車の種類が違ったんだよ。」

「種類の違う車……。それって何時くらいに?」

「たぶん3時くらいじゃなかったかなぁ。」

 俺はスマホを取り出して時計を見た。

「今と同じくらいの時間……。」

 山から出てきた車。その何時間か後に、同じ山から出てきたミラ。この時間の差がいったい何を意味するのかは分からないし、もしかしたらまったくの別件かもしれない。でも、俺にはどうしても、この2つの事柄に関連がないと思う事ができなかった。

『一週間、時間を欲しい。どうか、お願い。』

 ミラの言葉が浮かんでくる。この言葉を受け入れて、俺はこの数日、何とかミラの隠している事については考えないようにしてきた。 

 しかし、この降って湧いた更なる疑念は、ズルズルと俺の思考を引っ張り込んでしまった。

「さー、ほれほれ。そんな手が止まってると、仕事終わらんぞ。にいさん。」

 爺さんが手を叩きながら、ハッパをかけてくる。しかし、正直もう仕事どころじゃなかった。

 俺は何も言わずに帰り支度を始めた。後ろの方から「お、おい……。」と爺さんが声を掛けてくるが、それも無視してしまう。

 とにかくミラに確認をしなければ。いやその前に、自分の考えと気持ちを整理しないと。もし、こうだったらどうする? ああだったら? それともまさかこっちか?

 頭の中がぐわんぐわんと渦巻いている。

 俺は、どうやって家に帰ったのかも覚えてはいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る