16

 あの日――。俺とミラが、ジジイや妙な黒服の連中の手から逃れたあの日から、約1年が過ぎていた。

 あちこちを逃げ回り続けて、最終的に辿り着いたのが、この「ド」のつく田舎だった。俺達はここで、少し前から共同生活を始めた。

 借りることが出来たのは、かなりボロい木造アパートの一室だった。畳が擦り切れて、風が吹くと窓がガタガタと鳴る、そんな昔の歌に出てくるような古い部屋。だがそんなでも、他の部屋より広いだけまだマシだった。 

 腰の少し曲がった大家は、サスペンスドラマの見過ぎのようで、俺達の関係を勘違いしているようだった。「いいさいいさ。人にはそれぞれ事情があるさね。」とは大家の言だ。しかも、部屋を借りるためにわざわざ用意していた書類も渡さずに済んでしまった。……とは言え、偽造なのだが。

 アパートの周りには、古びた民家と畑以外ほとんどなにもなかった。せいぜいジュースとタバコの自販機が一台ずつあるくらいのもので、買い物に行くにはかなり歩いて街まで出なければいけないし、コンビニなんか勿論なかった。俺達を除いて、住んでいるのは老人だけという、侘しい村である。 


「ただいま。あ~疲れた。これ、もらってきた。」

 泥だらけの長靴を脱ぐ前に、玄関入ってすぐそばの台所に立っている女に袋一杯の野菜を渡してやる。

「お帰りなさい。……大根が入っているわね、ちょうど良かった。」

 袋の中を一瞥して、そこから大根を取り出すと、その女――ミラはそいつをガシガシと洗い始めた。スーツを格好良く着こなしていた女は、今ではTシャツにジーンズというラフなスタイルに変わっている。本人はたぶん意識してないだろうが、どことなく快活な雰囲気が乗っかっているのが見ていて面白い。

 俺達は、朝食と昼食は各々の好きなタイミングで取る事にしていて、夕飯に関してのみ、当番制を敷いている。で、今日はミラが夕飯の当番というわけだ。炊きたての米のほのかな甘い匂いと、鰹出汁の匂いが漂ってきて、それが腹の虫を刺激する。

「あと9分40秒で出来るわ。」

「OK。」

 そう返事をして、俺は風呂場に直行した。畑仕事で汗と土にまみれた体をシャワーでざっと洗い流していく。

 俺は大家の口利きで、近くに住む爺さんから小さな畑を無償で借り受けていた。聞けば、もう腰がだいぶ弱っていて畑仕事ができないらしく、俺が現れなければ畑を潰すつもりでいたらしい。収穫できた野菜は一部だけ渡してくれれば、後は好きにしていいと爺さんは言っていた。要は、自分の代わりに畑を管理して欲しいというわけだ。しかも、畑がダメになってしまったとしても文句は言わないという条件付きで。

 畑仕事なんて、探偵時代に少しだけやった程度だ。俺は、同じく畑を借り受けた大家や、近くで畑仕事をしている別の爺さんに教えてもらいながら、日々、何とか野菜を育てている。

 ミラはと言うと、近所の婆さんの家にちょくちょく家事手伝いに行くようになっていた。その婆さんは2階建ての家にひとりで住んでいて、やはり最近、腰の具合が良くないらしい。それで、これまた大家の口利きで、ミラが寄越されるようになった……というのがいきさつだ。たまにその婆さんが作った惣菜をミラがもらって来てくれるんだが、それがまた田舎の婆さん特有の絶妙な味加減で、めちゃくちゃ美味い。

 ちなみに俺達2人は周りから “駆け落ちしてきた夫婦”だと思われている。大家の勘違いが発端なのは言うまでもない。まぁこちらとしても、「何か事情がありそうだから踏み込まないでおこう。」という雰囲気が出るのは都合がいいので、口裏を合わせてそれに乗っかっている。

 ……さらに蛇足になるが、これまでに俺は一度もミラを抱いた事がない。自分からはもちろん、向こうから求められた事もない。少なくとも俺には性欲や下心というものはあるし、童貞でもないが、どういうわけかコイツとは一線を越えようという気にならないのだ。案外、俺という人間はプラトニックな奴なのかもしれない。


 シャワーを浴び終わって、タオルで頭を拭きながら浴室から出てくると、ちょうど夕飯がちゃぶ台に並べられている所だった。白飯。小鉢にひじきの煮物。メインの厚揚げと野菜の炒め物には、さきほど持ち帰ってきた大根がおろされて、たっぷりとかかっている。見ると味噌汁にも大根が入っていた。

「お~美味そうだな。よっし、いただきます。」

「いただきます。」

 ふたり、手を合わせて食べ始める。

 テレビはつけない。「これ、うまいな。」とか「これはおばあさまから頂いたものよ。」とか、そういう何でもない話をするだけだ。だけどそれが妙に心地よかった。これが団らんというやつなのだろうか。

 メシをほとんど平らげて一息ついた頃、珍しくミラが話を切り出してきた。

「明日、おばあさまの家に掃除のお手伝いに行くのだけど、そのついでに少し散歩をしてくるわね。」

「散歩?」

 俺はその意外な言葉に、思わず気の抜けた返事をしてしまった。

「ええ。そんなに時間はかからないわ。」

「ふーん。まぁ、いいんじゃないか? 街の方だったらともかく、この辺ならそこまで追手の事を気にしなくてもいいだろうし。」

「いいえ、ちゃんと気を付けるわ。万が一があってはいけないから。」

 万が一があってはいけない、その言葉に俺はハッとした。

 ……1年で、いや、ここに住み始めてからの1~2か月で、俺はだいぶ気が緩んでしまっていたのかもしれない。そもそも敵が狙っているのはミラではなく、この俺なのに。

「そ、そうだよな。たしかにその通りだ。気をつけてな。」

 俺は恥ずかしさを押し隠すようにして何度か頷き、「ごちそうさま」と言って、そそくさと食器を片付け始めた。

 

 そう。思えばこの時、運命の歯車は再び回り始めていたのかもしれない。

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