十五

 場面はほんの数分だけさかのぼる。


「急いで殺すんじゃ! ミラ!」 

 香坂の叫びが研究室の中にこだました。室内が真っ暗になり、侵入者たちが面食らっている今しかない。数十秒、いや、数秒の間にあの蓮見丈という不幸な男を殺してやらなければならないのだ。

 彼は固唾を飲んで、暗闇の一点、おそらくはまだ蓮見丈がうずくまっているであろう場所を見つめていた。

 すると「ごふっ!」という呻き声が、打撃音らしき音と共に上がった。

(やったか……!?)

 しかし、それからしばらくして香坂の耳に届いたのは、微かな電子音と、何か重たいものの動く音だった。

 香坂の顔色がさっと青ざめた。

「何をしておる! ミラ! さっさと殺すんじゃ!」 

 香坂は再び命令した。それはほとんど絶叫だった。

 彼の聞いた電子音。それはこの研究室に密かに備え付けられた端末がミラと連動し、命令を受け付けた音だった。研究室の扉を閉めたのも、灯りを落としたのも、室内に何か所か埋め込まれたその端末によるものである。

 そして今しがた端末が受け付けた命令は、『緊急脱出用の扉を開くこと』だったのだ。

 さっきの呻き声は蓮見丈のものではない。ミラは事もあろうに丈を逃がそうとしているのだと、香坂は瞬時に悟った。

「ミラ! ……ミラッ!!」

 再三の叫びもむなしく、脱出用の扉は音を立てて閉じてしまった。……研究室の中をシンとした静寂が包んだ。

(まさか、ミラが裏切ってしまうとは――。)

 香坂は傷の痛みも忘れて呆然と立ち尽くしていた。ふと、ミラは丈を外で殺すつもりなのではないかとも考えたが、すぐにそれは有り得ない事と断じた。自分は “急いで”と命令したのだ。

 しかし香坂は裏切られた事に対して、怒りよりもむしろ喜びにも似た驚きを感じていた。100%有り得ないはずのミラの背任行為。それを起こさしめたのは、蓮見丈の存在なのかもしれない。

 香坂は知らず若干の嫉妬を込めて、笑みを浮かべた。

「ふ……ふふふふふ……。」

「……笑っていられる状況ではないのですよ、私としてはね。」

 白く小さな光が灯るとすぐに、強い光線が研究室の床を照らし出した。鈴木が、スマホの懐中電灯をつけたのだ。彼は部下のひとりが悶絶している姿を確認すると、もう一人の部下に部屋の灯りをつけるように命令した。

 それを聞いた香坂はせせら笑って言った。

「あー、無駄じゃ。それにどうせあと1分も経たないうちに復旧するわい。」

「ほう……?」 

 鈴木は懐中電灯の灯りを頼りに香坂に近寄ると、穏やかな笑みを湛えたまま、無言で博士の撃たれた方の腕を殴りつけた……!  

「ぎあああっ!」

 潰れたカエルの様な声を上げて、たまらず香坂はその場にうずくまった。鈴木はしゃがみ込み、香坂の白髪をつかんで強引に顔を上げさせた。

「貴方の仕業でしょう? 今すぐ復旧させなさい。」

「そ、それは出来ん相談じゃの……。緊急指令という、や、奴でな……、時間が経つか……、命令を下した者でないと、解除できん……。」

「ふむ……。」

 香坂の言葉に嘘はないと判断したのだろう。鈴木は香坂の髪の毛を離して立ち上がり、後ろを振り向いた。一人はまだ地べたに這いつくばっている。

「君たち、研究対象を確保する準備をしておきなさい。一緒にいる女は殺す事になっても構いません。さぁ、君はいつまでへたり込んでいるんですか。撃たれたわけでも、切られたわけでもあるまいし。」

 懐中電灯で照りつけられて、うずくまっていた部下は重く咳き込みながらも何とか立ち上がった。先ほどミラが攻撃したのはこの男だったのだが、屈強な体つきにも関わらず、その肩はまだ辛そうに上下している。

 その様を見て香坂は再び笑ってしまいそうになって、何とか口許を歪ませる程度に抑えこんだ。

(こいつらではミラを殺すことなど出来ん……。)

 ミラはおそろしく “有能な存在”である。身体能力が高く、銃も含めた様々な武器の扱いに長け、格闘の技術までも習得している。ミラよりも遥かに大きい、ラガーマンのような体格を持った黒服の男を悶絶させたのも、香坂からすれば何ら不思議ではなかった。

 その彼女が手助けするのだから、ほぼ間違いなく蓮見丈は逃げ切れるだろう。むしろ問題なのは、その後どうやって彼を見つけ出して殺すか、である。

 香坂があれこれと思考している間に、研究室に灯りが戻った。それと同時に扉が開く。黒服たちは銃を取り出しながら慌ただしく廊下へと飛び出して行った。

「申し訳ありませんでした、博士。痛い思いをさせてしまって。重要な任務でしてね、ついカッとなってしまいました。」

 鈴木は、浅くお辞儀をして見せた。その顔に笑みを湛えたままで。

「いや……いいわい。それより……彼らと一緒に行った方がいいんじゃないかの……?」  

「お気遣いなく。マスターデータが手に入らなかった時点で当初の任務は終わり。正直に言えば、あの男性の事などどうでもいいのですよ。

 ……それに。私には国家の意向に逆らった人間を始末するという、大事な大事な任務もありますので。」

 鈴木は再び銃を取り出して、香坂に向けた。

 ふたりの間に、張り詰めた空気が漂い始めた。

「ワシは……逆らった覚えは、ないぞ……? 報告書の件は……、ついうっかりしてしまっただけじゃ……。」

「そんな話が通るとでも?」

「証拠も、なしに、ワシを殺せば……、困るのは……お前さんの方じゃよ……。」

 鈴木は苦笑いを浮かべて何度か頷いた。

 香坂は、この国における自分の立場を正しく理解していた。だからこそ、多少のわがままは通ると踏んでいるのである。

 だが――。

「なるほど。確かに仰る通りかもしれません。

 ……しかし、そんな事はどうだっていいんですよ。」

 銃声が、鳴った。 

「……?」

 香坂は一瞬、自分の身に何が起こったのか把握できなかった。気付くと銃弾は自身の右足を貫き、血しぶきを上げさせていた。

「ぐぁっ……!」

 着弾の衝撃で、もんどりうって倒れてしまう。

 鈴木はその様を愉快そうに眺めながら、香坂に近づいていく。

「私はね、面倒な事は嫌いなんです。」

 発砲。銃弾は香坂の腕の辺りをかすめた。外したのではない。わざとである。

「それに今の貴方は、国家にとって大事な研究のひとつを失くした、ただの老人。犯罪者と言ってもいい。」

 発砲。発砲。発砲。血しぶきが激しく舞った。

「ここで殺したところで、何の問題もない。」

 さらに発砲。赤く染まった白衣が、ビクンビクンと痙攣を始めた。 

 

 虫の息の香坂の脳裏に、自身の人生すべてが走馬灯のように駆け巡る……などということは起こらなかった。

 その代わりに思い浮かべたのは、実験衣を着た幼い頃のミラの姿だった。その顔には表情がなく、右腕もなかった。そんなミラが初めて見せた不器用な笑顔。成長し、他の研究室への協力を初めて拒んだ時のあの泣き顔。そして、爆発事故……。

 最初はただのモルモットだった。新機軸の義肢を開発するための、体のいいモルモット。大事にしたのだって、従順だったのと、その幼さゆえにほんの少し哀れに思ったからというだけの理由に過ぎなかった。

 それがいつしか自分の娘のような存在に変わっていた事に、香坂は今の今になって初めて気が付いたのである。

(ミラ……、身体を大事にするんだぞ……。そして少しでも長く……。)

 鈴木は香坂の脇腹を蹴り上げて、仰向けに転がせた。

 香坂の顔には、すでに死の色が濃く浮かんでいた。その口は力なさげに、パクパクと開いては閉じてを繰り返している。

「ははは。鮒みたいですね。」

 鈴木は笑いながら、また銃を撃ち始めた。弾が空になると、弾倉を交換してまた撃った。

「はははは。あははははは!」

 すでに香坂はこと切れていた。それでもまだ銃声はやまない。

「あははははははは!!」

 

 それからしばらくして、鈴木のもとに連絡が入った。相手はさきほどの部下の片割れである。

 保護は失敗。男と連れの女はそのまま逃走し、自分ともう一人は手傷を負ったとの報告だった。

「では研究所へ戻ってきてください。ここなら治療を受けられますので。」

 鈴木は通信を切ると、研究室から去って行った。


 研究室の中では、さきほどまで香坂健早と呼ばれていた人間の肉塊が、血の海と共に無惨に散らばっていた――。

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