十
「さてと、これでいいじゃろ。」
蓮見丈から “ジジイ”と呼ばれている老博士、香坂健早(コウサカケンゾウ)は電話を切ると、デスクの上に受話器を放って、椅子に深く腰を掛けた。腕を組んでチラッと目の前のモニターに目をやる。
モニターには、一人の人間が、斜め上からのアングルで静止状態で映し出されていた。この研究室に設置された監視カメラの映像である。顔は隠しているが、肉付きからして男だろうと香坂は推測していた。またハッキリしているのは、この人物が無断でこの部屋に侵入したという事と、香坂の研究成果の一部を盗み出したという事だ。
香坂はやや疲れた表情で、視線を天井に向けた。椅子の背もたれがギシギシと音を立てる。
無機質に打ち付けられた感のある灰色の天井と壁。その壁の内の一面は大半がガラス張りになっていて、本来は隣の部屋が見えるようになっているが、今はカーテンが引かれていて中を伺う事は出来ない。また、別の一面には白く巨大な冷蔵庫が設置されていて、この研究室とはまるで不釣り合いな生活感を醸し出している。部屋の中央には作業台が、そしてその上には綺麗に整えられた書類の束が置かれてあった。
どのくらいの時間そうしていただろうか。香坂は気だるそうに椅子から立ち上がると作業台に近づき、そして書類の一番上に置かれた一束を手に取った。反対の手にはいつの間にかライターが握られている。
書類には『××年〇月に起きた実験事故とその結果についての研究記録』と書かれていた。
「……盗まれたデータがこれだけだったのは、不幸中の幸いじゃったな。」
香坂は書類に火をつけて、ポイッと床に放り捨てた。火はみるみる炎となって書類を焼き尽くしていく。続けて、他の書類にも火をつけて次々に放り捨てていった。
「……あ~あ、勿体ない、勿体ない。しかし、そうも言ってはいられんわな。」
やがて作業台に乗っていた書類すべてに火をつけると、それらが燃え尽きるのを待って、床に残った燃えカスをグリグリとすり潰すようにして念入りに踏みならしていった。
続いて香坂は、空調のスイッチを入れた。だいぶ煙たくなっていた室内の空気が、次第に洗浄されていく。
「まだ核の方がマシだわ。」
香坂は冷蔵庫からコーヒー入りのペットボトルを取り出して飲み始めた。始めこそゆっくりと飲んでいたのが段々とペースが上がっていき、1ℓ入りのコーヒーはみるみるとその嵩を減らしていった。急激なカフェイン摂取の効果なのか、彼の顔にたちまち生気が戻ってくる。
「おお、そうじゃ忘れておったわ!」
そう言って香坂は太ももを叩いた。パチンと小気味のいい音が響く。そして、すっかり空になったペットボトルをゴミ箱に叩きつけるように投げ捨てて、再び電話を手に取った。
「はい。」
「おぉミラか。ひとつ、言い忘れておったわ。」
「明日の事ですか?」
「そうじゃそうじゃ。今のうちに言っておかねばならんと思ってのう。」
「なんでしょう?」
しかし、ここまで切り出しておきながら、香坂を逡巡の念が襲った。
自分の決意は、身勝手で独善的なものなのだろうと、彼は認識していたのである。
(しかし……そうせねばならんのじゃ。)
例えそうであったとしても、結果としてそれは世界のためにもなる。
彼は迷いを打ち捨てるようにして息を吐くと、ゆったりと、強調するように、決意を言葉にした。
「ワシ、明日、蓮見くんを殺すことにしたから。」
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