7

 手が震えているのが自分でも分かった。

 ざっと読んだだけなのに、血の気が引いている。

 俺は慌てて報告書を折り畳み、ポケットの奥にねじこんだ。

「いったい……今のは……。」

 絞り出した声は掠れている。その声が引き金となって、全身から脂汗が吹き出し始めた。耳の奥がドクドクと脈打っているのが聞こえたが、これは酒のせいじゃないはずだ。

 これまでの調査では「恨みを持って俺を殴ると、恨みの対象にもダメージがいく」という事しか分かっていなかったし、俺もそう深くは考えていなかった。しかし、それは本当にデータが少なかっただけの話だったのだ。

「博士からの伝言よ。『読んだら燃やしてしまえ』。」

 ミラが言った。そのいつもと同じ静かな響きは、むしろ恐ろしさを増大させる。

「……ミラ、お前は読んだのか?」

「読んでないし、検査の結果も知らない。ただ、おおよその見当はつくわ。」

「そうか……。」

 もうこれ以上酒を飲む気にはなれなかった。俺はマスターを呼んで、万札を2、3枚渡して席を立った。

「おいおい丈、さすがにこれは多すぎるよ。」

 律儀な事を言ってくるマスターに対し、ミラの方を顎でしゃくってみせる。

「こいつが飲むから、その分も込み。」

 俺は端的に告げると、ふたりのリアクションを確認することもせず、足早に店を出て行ってしまった。


 やっと慣れ親しむ事が出来てきたこの都会の夜が、今は無性に鬱陶しかった。ネオンの輝きも、人々の声も、車のクラクションやあちこちから流れてくるBGMも。全てが、鬱陶しい。もう痛覚はないはずなのに、今日殴られた所がヒリヒリと痛む気がした。

 時計を見ると深夜の1時を回っていた。とっくに終電は過ぎている。

(タクシーを拾うか、それともこのまま気分に任せて歩いて帰るか……?)

 そんな一瞬の思考ですらも煩わしくなって、やめてしまった。

 そのまましばらく歩いていると、すぐ後ろの方からクラクションが3回、小さく鳴ったのに気が付いた。振り返ると、俺の視線の先には一台の古臭い外車が。そいつは俺の横までやってくると、俺と足並みを揃えるようにスピードを緩めだした。スモークに覆われたウィンドウがゆっくりと開いていく。

「家まで送るわ。」

 ……声の主はミラだった。

 こいつが外車を持ってるだなんて初めて知ったが……いや、それよりも――

「……飲酒運転で捕まるぞ。」

 ついさっきまでガバガバと酒を飲んでいた女が車を運転している、この事実。俺が今こんな気分でいるのも、そして今日の酒を邪魔したのもこいつが原因だと言っていい。いっそのこと警察探して突き出してやろうか。 

「問題ないわ。もうアルコールは分解されているから。」

「あン?」

 ミラの、そのケロリと言ってのける態度が、無性に俺を苛立たせる。だがそんな感情もつかの間だった。 


(もしかしたら、俺と似たような身の上なのでは? )

 

 そんな考えが、ふと頭に浮かんだのである。  

 

 あの研究所は、国が管理運営をする施設だ。公には知らされることがない、という注釈付きの。要は、知られてはいけない研究をしているというわけだ。


 そんな所で、俺と大してトシの変わらないこのミラは働いている。しかも研究者という立ち位置ではない。いったい、どういう経緯で? 

 もしかしたらミラのこの性格や言動は、何かしらの事情があるんじゃないかとさえ思えてきてしまうのである。

  

 しかし、そこまで考えてみて、俺は心の中でため息をついてしまった。どうやら、今の自分は弱気が先に立っているようだ。そしてそんな自分に対して改めようという気も起きず、どこかヤケになってしまっている。

「……どうして追ってきた?」

 馬鹿な質問をしてしまう。答えなんて分かり切っているのに、心のどこかで違う言葉を期待してしまっている。甘い言葉を。……優しい言葉を。

 だが、ミラの答えはどこまでもいつも通りだった。

「仕事だからよ。」

 ……そりゃそうだ。この女に、他の答えなんて期待する方がおかしい。

 苦笑いと、少しの落胆。

 俺は、強引に思考を切り替えようと、する必要もない確認を敢えてやってみた。

 辺りにタクシーらしき車は見えない。そして歩いて帰るにはかなりの時間がかかる。朝まで時間を潰せる施設はあるだろうが、まだ自分の精神状態は、わざわざそこに行こうと思えるほどには戻っていない。

 ……一番手っ取り早くて且つ確かな方法は、目の前にある古臭い外車に乗る事だけのようだ。

 しょうがないか、とわざとらしく肩をすくめて、俺はミラの車の助手席に乗り込んだ。

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