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 カランカランと音を立てて、バーの扉が開いた。九月も終わりだというのに、吹き込む風はまだまだ生ぬるい。

 マスターがさりげなく俺に目配せをしてきた。俺はその視線の意味に気付いて、秘かにため息をついた。いつの間にか、背後に、存在感の極端に薄い気配が現れていた。

「ここにいたのね。」

「……知ってて来たんだろうが。」

 声のした方に振り向きもせずに答える。声の主は俺の左隣の席に座ると、マスターに「ビールとマンハッタンを。」と注文した。その声は涼し気とも無機質ともいった具合で、さっきの俺のぶっきらぼうな物言いなんかまるで気にも留めていない様子だった。

 ……この女、ミラの事をなんて説明すればいいだろう? 俺の生活に関わる面倒事を引き受けている女で、俺が怪我で動けなくなった時なんか、飯まで作って食わせてくれた。だからと言って、別に恋人だとか家族だとかそういう間柄なわけじゃあない。こいつはただの連絡係?であり、世話係?のようなもんだ。とにかく、要はそれが仕事なのである。

 俺は今度はわざとらしく大きなため息をついて、煙草を取り出した。

「……で、どうだったんだ、めぼしいデータは取れたのか?」

「特に報告することはない、と博士は言っていたわ。」

「ちっ。何をしてやがるんだ、あのクソジジイは。」

「分かってるでしょう? あなたの能力についての研究よ。」

「えーっと……そういう事じゃねえんだけどなぁ……。」 

「傷は痛む?」

「いーや、まったく。お前らのおかげでな。」

 俺はげんなりとしつつ、吸い込んだ煙を鼻からフンッと吐き出した。

 この体には、痛覚というものが存在しない。と言うのも、ミラが “博士”と呼んだそのクソジジイの手術によって、しばらく前に取り去られてしまったからだ。勿論、こんな手術は公式には存在しない。ジジイは「研究の邪魔になるからの。」と言って笑っていたが、とんでもないマッドサイエンティストである。

 おかげ様で、例えば “熱い”や “冷たい”とは感じても、それが “痛み”にまでなってくると、全く何も感じない体になってしまった。

「それは良かったわ。最初の頃はずっと泣いて痛がっていたものね。」

「いくら機能としては痛みを感じなくても、痛いって思っちまうのは仕方ないだろ? 

 ……それと。泣いてねーから。」

 ミラは俺の言葉などスルーして、マスターから受け取ったビールのグラスをそのまま一息に飲み干していった。

 俺は煙草を吸いながら、その横顔をぼーっと見つめる。氷嚢を持った手に右頬を乗せているから、自然とこうなってしまうわけだが……。

 この女、正直に言って俺の好みのタイプなのだ。どストライクと言っていい。切れ長の目に黒髪ショートボブ。横に流した前髪が美しさと艶やかさを演出する。身長も170㎝はあるだろう、そのせいかスーツ姿が映えるの何のって。そこに加えて、ビールを一気に飲み干して顔色ひとつ変えないそのクールさがたまらない。違う出会い方をしていたら間違いなく虜になっていたと思う。その自信がある。

 空いたビールのグラスと交換するようにして、今度はカクテルのグラスがミラの目の前に置かれた。俺は、ミラがそれに手を伸ばすより早く口を開いた。 

「今日はもう終わりでいいんだろ?」

「ええ。」

「じゃあそれ飲んだらもう帰っていいぞ。俺はこれから飲むから。」

 そう言いながら、メニューを手に取る。口の中の出血も止まったようだし、腹も減った。今日はスペシャルコースが入ったおかげで実入りが良かったから、もうトコトン飲んでやるつもりだ。

「さて、何にしようかなっと。」

 ……しかし、そんなウキウキ気分の俺を地獄のどん底に叩き落すかのように、ミラは恐ろしく冷徹に言い放った。

「ダメよ。」

 思わずメニューが手から滑り落ちそうになった。

「はぁ!? なんでだよ!」

 ミラはマンハッタンの香りを確かめながら、こちらの方を見もしないで答える。

「明日はあなたの体の定期検査だからよ。前夜のアルコールは控えなければいけない。」

 そう言って、またもやグラスを一息で飲み干してしまった。

 定期検査……! 俺の最も嫌いな一日である。パンツ以外は全部はぎ取られて、やたらテンションの高いジジイに体のあちこちをいじくり回される。その羞恥と屈辱たるや! そんな定期検査が、また明日やってくる……!

 何度か逃げようとした事もあったが逃げ切れなかった。俺の居場所はこいつらに筒抜けのようで、どこに逃げてもこの目の前の女に先回りされて捕まってしまう。

「さ、駅まで送るわ。」

 俺は本日3度目にして正真正銘ホンキのため息をつくと、ポケットに入れていた一万円札をマスターに手渡した。ミラの酒の分も込みだ。

「俺が労働の後に酒を飲むことも許されないってのに、なんでお前が飲んでんだよ、まったく……。」

 つり銭を待つ間、残ったレモン水を飲みつつ文句を言ってやる。

 ミラは垂れた前髪の一房を耳にかけながら立ち上がると、クールな目で俺を見下ろした。

「お酒の飲めないあなたに代わって飲んであげただけよ。」

 お前はドSか。

 ……くそ。マジでこんな出会いじゃなかったら。

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