楽園・おまけ

 木々の間に無数に張られた糸に色とりどりのガラス玉が飾られている。風に揺れ、ぶつかり合って軽やかな音が森に響く。ガラス玉を透過した日の光が落ちて、木陰に色鮮やかな影が踊る。

 ゆらゆらと心地良い揺れに少年は薄っすらと目蓋を開く。見上げると誰かに微笑み掛けられて、安心感に覚醒することなく再び目蓋を閉じる。

 チラチラと落ちてくる木漏れ日が目蓋に透けて僅かに眩しい。少年は寝返りを打つ。心地良い揺れとすっぽりと収まっている感覚にハッとする。勢い良く起き上がった少年はバランスを崩してハンモックから転げ落ちた。

「いつの間にっ……ハンモックにっ!」

 上半身を起こしながら悪態をつく。

「お目覚めですね。僕の可愛いご主人様」

「その呼び方ヤメロって言った筈だ」

 少年は瑠璃色の瞳で覗き込んで来る影を睨みつける。睨みつけられた青年は琥珀色の瞳を細めて笑う。

「よく眠っていましたね」

「そうだ。僕はいつものようにあの石の椅子の上で寝てた筈だ」

「あんな硬い椅子で寝るのはやっぱり身体に悪いと思うので。妖精達に手伝ってもらってハンモックを作ったんです。寝るならやはり心地良いに越したことはないと思ったので。僭越ながら運ばせて頂きました」

「そうだな。あんただな。あんた以外いないな」

「細心の注意は払いましたが、まるで起きる気配がなくて。信頼されていることが分かって僕は感無量です」

「勝手に胸いっぱいになるな」

「うふふ」

「気持ち悪い笑い方ヤメロ」

『ちょっと!』

 羽をキラキラと輝かせた手の平大の妖精が少年の顔の前に飛び出してくる。

『アキマにそんな態度取らないでくれる?』

少年はうんざりして、妖精を無視して立ち上がる。無視されたことが気に食わない妖精は畳みかけようとするが、それを青年が両手でやんわりと遮った。

『アキマ』

 手の平から見上げてくる妖精に青年は困ったように微笑む。

「あの人は君達の主人でもあるんだよ?」

『私達の主人は変わらずアキマだわ』

「今、この楽園を維持しているのはあの人だよ」

『そうだけど。あいつは私達に何かあっても、きっと助けてはくれないわ』

 青年は優しく妖精の頭を撫でる。

「そんなことないと思うけどな」

 青年は見る。少年が石の椅子に戻ろうとして、ハンモックを振り返り立ち止まっている。

「一先ず、ハンモックをもっと人目の付かないところに移動しようか」

『人目の付かないところって』

 妖精は呆れた顔になる。

『この楽園すべてが私達の庭なんだけど?』

「それでも、視線を極力遮れる立地はある筈でしょう」

『まあね』

 妖精は肩を竦めた。


 石の椅子が置かれる小さな広場から然程離れていないにも関わらず、木々が程よく視界を遮る場所にハンモックが掛けられる。

柔らかな木漏れ日が降り注ぐそのハンモックを前に少年は宥め賺されていると分かりながら、その魅惑 に抗い切れずに転がり込んだ。

 少年が微睡み始めると、石の椅子の側で青年は次のお菓子の内容を考えたり、妖精達から楽園の様子 の報告を受けたり、他愛もない会話を 繰り返す。

穏やかな時間が流れていく。

 森の奥、楽園の風景を模した壁 に亀裂が走る。

 妖精達がハッとする。木々の合間に張り巡らされたガラス玉がけたたましい音を立て始める。

『アキマ!』

「侵入者なんて久しぶりだ」

『暢気なこと言ってる場合じゃないわ! ひとり、鉢合わせた!』


   +++


 風景が割れてできた亀裂からふたりの男が楽園に侵入する。一人は正方形に手足が生えたような背の低い男。もうひとりは後ろ姿だけならタッパのある優男。

「これが伝説の楽園か?」

「ああ。間違いない。見ろ」

目付きも人相も悪いふたりの男は、目の前で恐怖に身体を竦ませて動けなくなっている妖精に手を伸ばした。


   +++


『大変! 捕まったわ! アキマ! どうしよう!』

 青年は一歩を踏み出そうとして立ち止まる。

『アキマ?』

「ほら。やっぱりそんなことなかった」


   +++


 空になったハンモックが微かに揺れている。

少年は走る。枝から枝へ、地面を走るように飛び移っていく。向かう先に、ひとりでに揺れる巾着袋を持った男の姿を捉えた少年は、迷いなく空気を掬うように腕を振る。

「妖精の肉は不老長寿や万病に効くって話だったよな」

「妖精自身が不思議な力を持つとも聞く」

「まだ居る筈だ。捕まえよう!」

「これで俺達も大金持ちだ!」

 近付いてくるものに気付いていなかった男達は視界の端に赤いものが飛び散って驚く。足元に巾着袋を持ったままの腕が落ちていた。それが自分の腕だと気付いた正方形の男が叫び声を上げる。

「腕! 俺の腕が!」

「落ち着け!」

 背の高い男が杖を翳す。すると、先のなくなった腕から噴き出していた血の勢いが弱まる。

「魔術師か。楽園に穴を開けたのはお前だな」

 応急手当を終えたタッパのある男が顔を上げる。少年が枝から飛び降りたところだった。

「ガキ? なんでガキがこんなところにいる? ここは楽園じゃないのか? あ、おい! それは」

 少年が巾着袋を拾い上げる。

「この楽園にあるものはすべて僕のものだ。僕の許可なく持ち去ることはもちろん、当然触れることも許されない」

 ひっくり返された巾着袋から、少年の手の平の上に転がり落ちた妖精は震えながら少年を見上げる。

「あいつのところにひとりで帰れるな?」

 少年の問いに妖精は答えない。

 妖精の震えが手の平から伝わってきて、少年はため息をつく。

「振り落とされるなよ」

 肩の上に乗せられた妖精は少年の服を強く握る。

「さて、不法侵入者にはご退場願おう。守りをもっと強固にしなくちゃな。扉をこじ開けるじゃなく、空間を割って入られるなんて、主人の名折れもいいところだ」

「主人? こんなガキが楽園の主人だっていうのか」

「僕が年相応の姿をしているとでも?」

 少年が正方形の男を蹴り飛ばすと、男は声もなく亀裂の向こうへ消えた。体格に見合わない力を見せ付けられたタッパのある男が少年に杖を突き付ける。

「楽園が聞いて呆れる!」

 少年は口角を釣り上げて笑う。

「ふっ、ハハハ! ここは僕の楽園だ。僕にとって楽園であればそれでいいんだよ」


 空気が撓む 。

小さな広場から動かない青年の側で、息を詰めていた妖精達が明るい顔になる。

『アキマの言った通りだったわね。あいつが一番最初に動くなんて。考えを改めるわ』

「うん。少しでもあの人のことが分かって貰えて良かった。でも」

『どうしたの? アキマ。一件落着でしょう?』

「あの人はこの楽園を維持するのに力の大半を割いてる。その上にこんなに力を使ったら」

『アキマ!』

 走り出した青年の後を妖精達は追い掛ける。


 亀裂を綺麗に修復し終えて、少年は小さく息を吐き出す。

「もう、ひとりで戻れるだろ?」

 少年の肩の上の妖精はキラキラと輝く羽を広げる。少し迷うように宙に留まる妖精に少年は追い払うように手を振った。二度程振り返りながら飛んで行った妖精の姿を見送って、少年は亀裂を塞いだばかりの壁に手を付く。ふらつく身体を支えられなくて座り込む。

 座り込んだ少年の背に青年が手を添える。

「お疲れ様でした」

「何しに来た」

「あなたを介抱しにですよ。ご主人様」

「余計な世話だ」

「はいはい」

 青年は少年を易々と抱え上げる。

「くそ……」

 ハンモックまで戻って、青年は少年を寝かせる。

 少年は落ちてくる目蓋に抗うことができずに目蓋を閉じた。

 少年の静かな寝息を聞きながら青年はその前髪を梳く。

「この人のことを頼むね。ちょっと行ってくる」

『アキマ。私達、あなたの心配はしないわよ』

 妖精の言葉に青年は苦笑した。


   +++


 森の奥、先程とは違う楽園の風景を模した壁に亀裂が入る。けれど、木々に張り巡らされたガラス玉は鳴り響かない。亀裂から、先程のふたりとは明らかに違う、鎧を着込み、統率の取れた小隊が侵入する。先頭に立つのは鎧を着ていても鍛えていることが分かる逞しい 男と、鍔の広い尖がり帽子を被った艶めかしい女。

「あのふたり。折角、楽園の場所を教えて入り方まで指南してやったのに。あっさりやられやがって」

「見張りや罠があった場合の囮になって貰うつもりだったのに、使えなかったわね。何はともあれ、うまく鳴子は外せたみたいで良かったわ」

「けど、見つかってるみたいだぜ」

 男と女を前に琥珀色の瞳が微笑む。

「ようこそいらっしゃいました。と、歓迎できれば良かったのですが。お引き取り願いたく思います」

「あら、残念。客人として迎えてはくれないのね」

「踏み荒らしに来たと分かり切っているものを、快く迎え入れることはできません」

「仲良くなれたら手間が省けて良かったんだけど」

 頬に手をやりため息をつく女の態度に青年はあくまで笑顔を崩さない。

「仲良く? そうして妖精達を差し出すとでも?」

「そう、友好の証としてね!」

「あり得ませんね」

 青年の笑顔が引っ込んだ。女が肩を竦める。

「で、あなたは誰かしら? 覗き見させて貰っていた時に現れた楽園の主人はもっと小さな子供の容姿をしていた筈だけど」

「本来、このような些事に当主人が出る必要はなかったのですが。僕が妖精達にあの人を知って欲しかったもので。僕は控えさせて貰いました」

「そっちの事情なんて知ったこっちゃねえんだが。些事、か。舐められたもんだな。俺達をあのふたりと同等だと思うんじゃねえぞ。主人を出した方がいい。あれ程の力ならまだ少しは俺達とも遣り合えるだろうよ」

「ふ、ふふ」

「あ?」

「自己紹介がまだでしたね。僕はこの楽園の管理を任されているものです。どうぞ。お見知り置きを」

「管理人だあ?」

「守衛ですらないなんて」

「怪我したくなけりゃ引っ込んでろよ、兄ちゃん」

男が背負っていた大剣を構える。女が拳程の大きさの石の付いた杖を構える。と、背後に控えていた兵隊が一糸乱れぬ動きで臨戦態勢を取った。

「どうぞ、そう仰らず。お 相手ください」

 青年は両腕を広げる。それこそ、すべてを迎え入れるかのように。


   +++


 青年は顔の高さにある枝葉を避けながら森の中を歩く。少年が寝ている筈のハンモックを覗き込んで空っぽであることに目を丸くする。

『アキマ!』

 焦った顔 の妖精が木々を避けて青年に向かって飛ぶ。

「あの人は?」

『えっと……』

 言い淀む妖精に青年は歩き出す。

『アキマ。落ち着いて。別に何かあった訳じゃないのよ。ただ、ちょっと……。アキマ!』

 森を抜けると芝の茂る小さな広場に出る。そこに置かれている石を削り出しただけの重々しい椅子に、むすっとした顔の少年が座っていた。

 青年は目を瞬く。

「もう少しお休みになられた方が」

「座れ」

「あ、はい」

 青年は椅子の前にとても自然に正座する。少年は鼻で息を吐き出す。

「ああ、分かってた。分かってたさ。この楽園を一から作り上げたのはあんたで。僕は既に完成したものに後からやって来て便乗しただけだってことは。俺なんかよりあんたの方が強いことは分かってたさ」

「そんなことは」

「ん?」

「あ、いえ」

 正座したまま俯く青年に少年は小さくため息をつく。

 理想の楽園に辿り着けたと思った。静かで、恐れるものも不安なこともない、煩わしいこともない。辿り着いた頃は妖精達の視線が少しばかり鬱陶しかったが、妖精達から積極的に関わってくることはなかった。妖精達が欲するものも運よくここに残っていた。与えれば今度こそひとりになれると思ったが思惑は見事に外れた。うまく行かないものだと少年は振り返る 。

 困った顔で俯き続ける青年の顔を見つめながら少年は心の中で呟く。

 ―――潮時か。

 黙り込んだ少年に青年は恐る恐る顔を上げる。少年は頬杖をついてあらぬ方を見つめていた。その瑠璃色の瞳はここではないどこか遠くを見つめている。青年は立ち上がっていた。

 ふっと視界が陰り、少年は顔を上げる。青年が少年に覆い被さる様に両の肘掛けに手を掛けていた。間近にある青年の顔に少年は仰け反る。

「な、なんだ?」

「どこにも行きませんよね?」

 抑揚に欠ける声で迫る青年に少年は椅子の上で縮こまる。青年は重ねて言う。

「行かないでください」

「い、いか……いや! 急にどうした!?」

「答えてください。逃げないで」

 青年の腕の下を通り抜けて椅子を降りようとした少年の腕を青年が掴む。

『アキマ。落ち着いて。一先ずアキマも座ったら』

「も?」

 怪訝な声を上げた少年を抱えて青年が石の椅子に座る。少年は青年の膝の上に座る羽目になる。

「なんでこんな体勢」

『アキマを落ち着かせる為よ』

 少年は不服そうに妖精を睨む。

『そんな顔しても無駄よ。私達はどう足掻いたってアキマの味方なんだから』

「まあ、そうだろうな」

『そして、アキマはあんたの味方よ』

「……僕にどうしろと」

『必要とされて悪い気がしないなら居なさいよ。アキマの為に』

 少年は口を噤む。身じろぎすると少年を抱える青年の腕に力が籠もる。少年は小さく唸る。

「そもそもなんでこんな話になってるんだ。僕は出て行くなんて一言も言ってない だろ」

『いなくなりそうな雰囲気醸し出してたわよ。あんた』

 少年は再び口を噤んだ。

 静寂が落ちると、木々に張り巡らされたガラス玉が風に揺れる軽やかな音が微かに響く。

「僕は、別に……。……出て行かない。おあ!?」

 立ち上がった青年は少年を椅子に下ろし、その前に膝立ちになる。

「二言はないですね」

 琥珀色の瞳が少年を見つめる。少年は居心地悪そうに瑠璃色の瞳を泳がせる。

「あなたを困らせるつもりはないんです。自分でも驚いてる。こんな気持ちは知らなかった。うまく、言葉にできなくて。すみません」

 少年の手を握り込み、青年はその手に口付けた。口付けられた少年は身体を強張らせる。少年の様子に青年は少し困ったように微笑んだ。

「お茶の用意をします。休んでいてください」

 歩き去る青年の後ろ姿を見送りながら少年はぐったりと椅子に身を沈める。

「分からない。なんであいつは僕に固執するんだ」

『アキマは寂しがり屋なのよ。知らなかった?』

 珍しく青年の後を追わなかった妖精が少年の頭の上を一周する。

「知ってて当たり前みたいに言うな。あんた達が居るじゃないか」

『嬉しいこと言ってくれるわね。でも、私達はアキマとは生物として在り方が違い過ぎる 。アキマは』

 妖精は少し逡巡 してから続ける。

『農家の次男坊として生まれたの。でも、私達が見えていたことで周りから少し白い目で見られてた。でも、みんな良い人だったわ。アキマは愛されてた。でも、誰もアキマを理解することができなかった。アキマもまた、そんな人達を理解することができなかった。受け入れることができなかった。自分を愛してくれている人達に報いることができない自分にいつも負い目を感じてた。毎日毎日、とても苦しそうだったわ。アキマは優しすぎたのよ。いつしか安らぎを求めて楽園の思想を持つようになった。アキマに請われて私達が協力しない理由はない。そうして、この楽園はできたの。他人の目がなくなってアキマはみるみる安定していったわ。でも、やっぱり寂しかったんだと思う。アキマは人間が好きだったから』

「ふん」

『あんたは人間に未練なんてなさそうね』

 妖精を斜に見て少年は笑う。嘲笑う。それが少年の答えだった。

 妖精は肩を竦める。

『アキマのことを教えたんだから、あんたのことも少しは語りなさいよ』

 少年は片眉を上げ、しかめっ面 になる。

「……。別段、特別な人生じゃなかったさ。恵まれていたとは思う。食べ物にも寝る場所にも困らなかった。けど、誰かと友達になりたいとか、仲良くなりたいとか、お近付きになりたいとか、一度も思ったことはなかった」

『ふーん。馴染めなかったという点でアキマはあんたに親近感でも覚えてるのかもしれないわね』

「当人とそういう話は一切してない筈だが」

『同じように楽園を求めた者って時点で通じるものは十分だったんじゃないかしら』

「それにしたって親近感にしては行き過ぎている気がする」

『鵜呑みにしないでよ。今私が語ったことはすべて想像でしかないんだから。アキマ自身が説明できないものを私達が説明できる筈ないんだから』

 少年は諦めのため息をつく。

「……くそ」

『ちょっと。行かないって言ったんだからいなくならないでよ。まあ、私達がさせないけど』

「僕はよっぽど信頼に値しないみたいだな。公言したからには勝手にいなくなりはしないさ。ただし、僕が破綻するかしないかはまた別の話だけどな」

『破綻? 妙な言い回しをするのね。つまり、アキマの気持ちが負担になって、あんたが壊れる可能性があるってことね』

「まあ、そういうことなんだが。丁寧に説明されると妙な気分だな」

 妖精のあまりに的確な物言いに少年はある可能性に考え至る 。

「まさか……覗けるのか?」

『ふふふ。さてね』

「それが事実なら恐ろしい話だな」

『本人が自覚していないことは分からないけどね』

「はぐらかしておきながら手の内を明かすのか」

『あら、うっかり』

 わざとらしく笑う妖精に少年は口をひん曲げる。

「ご主人様。お茶の用意ができました」

 呼ばれて、少年は椅子から降りる。

「なあ」

『ん?』

 先を飛んでいた妖精が振り返る。

「あいつは僕の姿がオッサンでもあんな風に接すると思うか?」

『アキマが見た目で人を判断すると思ってんなら、考えを改めることをお勧めするわ』

「そうか」

『私もあんたに聞いてみたいことがあるんだけど』

 少年が顔を上げる。

『私達の存在をアキマの妄想だと言う人もいたのよ 。あんたはどう思う?』

「人間の脳みその潜在性を信じるなら可能性はあるかもしれないが。生憎、僕はそんなもの信じちゃいないからな。かなりの数がいるあんた達の個性を、ひとりの妄想が作り上げるなんて絶対無理だね」

 吐き捨てるように言った少年に妖精は嬉しそうに笑う。

『いいわ。私達もあんたを主人と認めてあげる』

「そりゃ。どうも」

「ご主人様」

「今行く」

 相も変わらず、どこから出てくるのか、地面から生える木の机の上に並ぶのは見目も麗しい華やかで煌びやかな菓子類、軽食類。鼻腔をくすぐる芳しい香りに、温かな湯気が漂う。

 脅かされ掛けたことなど嘘のように楽園の日々は続く。


   +++


『ところであんた未だに名乗らないけど』

 妖精の指摘に少年の眉間にグッと皺が寄る。

「必要ないだろ。ここで僕の名前を呼ぶ奴なん、て」

 琥珀色の瞳が期待に輝いていた。

『この期に及んで もまだ名乗らないつもり?』

 少年は嫌そうな顔になる。

「なま、名前……」

『なんでそんなに歯切れが悪いのよ』

「思いつく名前が、多すぎて定まらないんだ」

『はあ? どういうことよ?』

「その時々、場面場面で名前を変えてたんだ」

『あんた詐欺師か何かだったの?』

「違う」

『そんなだから立ち位置が変わっただけで自分を見失うのよ』

「人の内を覗くんじゃねえ」

 少年は眉間を抑える。けれど、誰にも知られたくない内側を覗かれても、思った程の嫌悪感を抱いていないのは相手が人間ではないからか。

「見えたなら分かるだろ。どの名前もこの場の為の名前じゃない以上、どれもしっくり来ないんだ」

「では、この場の為の新しい名前を考えましょう。ね。そうしましょう。僕の可愛いご主人様」

 ウキウキ顔の青年に「そう」呼ばれ続けるぐらいなら、新しい名前を考えることを少 年は真剣に検討し始める。


                                  了

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『小休憩』17番目の物語 利糸(Yoriito) @091120_Yoriito

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