第76話 解いて結んで
飛ぶ最中に、
落ちてゆく充國は彼に気付かず、昏い空を眺めながらその底へ沈んでいった。
それを見送り、彼は呟いた。
「またね」
彼は闇の中を進んでゆく。
昇り、昇っているうちに、やがて篭は、暗い地表に明かりを見た。
明かりに向かって降りてゆくと、そこには町があり、一つだけ、明かりを灯した窓があった。
開け放された窓から中に入ると、部屋には
いつの間にか十馬の髪は黒く戻り、両目も黄金色から黒へ変わっていた。
今度こそ見つけた。
そう思った彼は、両腕を伸ばして十馬の背を抱きしめた。
「もう怖がらないよ。どこまでも一緒に行く」
しかし十馬は返事をしない。
もう一度、彼は言った。
「一緒に、戻ろう」
すると、十馬は首を振った。
「駄目だよ、もう、腐ってしまっているから。悪いことをたくさん言ったしたくさんした。自分のこともひとのことも、許すことができないんだ。悪霊になってしまったんだよ」
腐りゆく恐怖を、今や彼も知っている。
彼が言葉を発する前に、部屋の戸が開いた。
「兄上」
現れたのは、宋十郎だった。
宋十郎は十馬に駆け寄ると、その前に跪いた。
「ずっと、探していました。戻ってはもらえないでしょうか。……私が、願ってはいけないでしょうか」
彼が体を離すと、十馬が宋十郎を振り返った。
「そんなことあるわけないよ。ただ、戻れないことに変わりはないけれど」
弟は項垂れた。
「私には、あなたしかいなかったのに」
十馬は首を振った。
「そんなことないよ。お前にそう思わせたのが何か、もしかしたら知ってるけれど、お前は一人じゃない。お前を好きな人たちは昔も今もたくさんいるもの」
今度は宋十郎が首を振った。
「私は兄上に、戻ってほしいのです」
「でもね、悪霊は地上に戻れない。全部大嫌いだから、還る先もないんだよ」
「ですが、彷徨うのは苦しいでしょう。嫌う代わりに、愛することはできませんか。それとも何かを愛することも、それと同じくらい苦しいのでしょうか」
「そうかもしれない。苦しくなくても、難しいのかもしれない。どうしたらいいかわからないし、すごく苛々するんだよ。欺瞞や偽善や金で買えるものとの区別もつかないし、愛することが何か、きっと永遠にわからない」
「ならば、私も兄上と行きます。……同じ後悔を、したくありません」
すると、十馬は笑った。
「それはできないよ、宋は腐っていないもの。腐っているものとそうでないものは、同じ場所へ行けないんだよ」
「では、この時の
「そんな馬鹿なこと、」
十馬が言いかけた時、辺りに、ぽつぽつと黄色い燐光が浮かび、黄色い明かりを灯した蝶が、闇の中をひらひらと舞ってきた。
思わずその美しさに意識を奪われた間に、どこからか駆け足が近付いてくる。
振り返ると、駆け寄ってくるのは
孔蔵は彼らを見ると、大きな瞳ををさらに見開いた。
「おお、なんだこりゃ、皆お揃いじゃねえか」
坊主は駆けてくると、有無を言わさずに十馬の肩を掴んだ。
「なあ、あんた! よかった、あんたに言いたいことがあったんだよ!」
十馬の反応など構わずに、その肩を掴んだままの孔蔵は喋った。
「あのな、何が何でもいい、戻ってこい。馬鹿なことして後悔してもいいから、とにかく生きてみてくれよ。意地悪な連中の言うことなんて忘れちまえ。この世にゃつまんねえもんもいっぱいあるけど、それだけじゃないはずなんだ。魔物でも何でもいいから、行き詰まってんなら旅にでも出よう。そうしたら、好きなものとか、何か見つかるかもしれねえだろ。どうせ眠るつもりなら、最後に俺の我儘に付き合ってくれよ!」
突然矢のように言葉を浴びせられた十馬は両目を見開いたが、次には瞼を伏せた。
「でもね、……どうして悪霊が地の下へゆくか知ってる? 地の上にいると
今まで黙って聞いていた彼は、その時閃きを感じた。彼は、言葉を紡ぎ出した。
「ねえ、思い出したよ。あんたは、誰も傷つけたくないんだよ。あんたがほしいものは愛で、あんたは本当は生きたかったんだよ。だからともだちを探したし、剣も読書も頑張ったし、知らない世界を知ろうとしたんだよ。
まだ愛が何かわからないし、人間たちは何がいいのかわからない目的のために妬んだり嘲ったり憎んだりして、それに疑問も抱かない。殺す理由がわからないから、生きる理由もわからないだろうけど、それでも生きていいって、許されているんだ。だからおれたちは迷うけど、迷いながら、幸せが何か、どうしたら幸せになれるのか、探さなきゃ。あんたはそのために、おれを逃がしたんだよ」
そう言いながら、彼は自分の涙がこぼれるのを感じた。生きてゆくことは恐ろしいが、それだけではないはずだ。彼は続けた。
「宋十郎も孔蔵も、一緒に来てくれるって。この贈り物を、おれは受け取りたいんだ。だから、お願い、いっしょに、行こう」
すると、孔蔵が声をあげた。
「おおそうだ! あのな、あんたの呪い、こいつで送れるらしいんだよ」
そう言って孔蔵が掲げた蛾叉は、長く美しい元の姿を取り戻していた。
孔蔵は槍を構えると、黄色い鱗粉を纏う穂先を十馬の胸に突き付けた。
そこから孔蔵がゆっくりと腕を伸ばすと、蛾叉は十馬に触れたところから、崩れ、黄色い明かりに変わってゆく。
黄色い明かりは羽ばたくと、蝶の姿を取って次々に飛び去っていった。
「おっしゃ!」
蛾叉を失った孔蔵は、両拳を天に突き上げた。
彼らは、去ってゆく燐光を見送った。
孔蔵が穏やかに言う。
「これで呪いはどっか行っちまった。残ってるのはあんた自身の
冗談でも言うように笑った孔蔵を見て、ふと、十馬が笑った。その目尻から、涙がこぼれた。
十馬は、思い出したように宋十郎を振り返った。
「あのね……、ずっと、おまえの声を聞いてたよ。
本当はね、おまえのことが好きだったよ。ただ、羨ましくて、遠かった。でも、同じくらい大好きだった。そうやって言えばよかった。言ったらきっと、忘れなかったのに。みんな、どうしてそう言えないんだろう。そうだよ、伊奈だって、おまえでよかったって思ってるよ」
宋十郎が十馬を見つめ唇を開き、しかし言葉を発し損ねた。
宙にこぼれた十馬の涙を、孔蔵が袖で払った。
「ほら、あんたもう、弟さんのことが心配で仕方ねえんだから。ね、戻りましょうよ」
坊主が静かに言った。
宋十郎がその声に添えるように、十馬の手を取った。
最後に彼は、十馬が呟く声を聞いた。
「……ありがとう」
*
闇が明るくなり、光に溶けて、辺りは一面の白い野原に変わった。
篭は自分が
彼の持っていた記憶は彼から消えて、彼というひとり身は消えてしまう。
それが少し悲しかったが、そこにあったということそのものは永遠に変わらないのだと彼は思い出した。そしてこれが、彼が願っていたことだった。初めから、彼はずっと独りではなかった。
元の姿へ戻ってゆく。溶けゆく最後に、彼は短い命の間に出会った人々のことを考えた。
きっとまたどこかで会う。
それだけを想って、彼は溶けた。
*
孔蔵は目を瞬かせた。
彼は先ほどまでと同じように、崩れ落ちそうな屋敷の広間に立っている。
瞬きしていた間にどこかへ落ち、何かが起きたような気がしている。しかし、何が起きたのだったか。
再び開いた視界の中では、白い髪の篭が首から黒い泡を流しながら立っており、その首を掴んでいる充國も立っている。
ただしもうそこに、黒鬼はいない。
ぐらりと、充國と篭の体が倒れた。
「篭どの!」
印を解いた孔蔵は、倒れた篭に駆け寄った。首の傷は泡を吹きながら塞がってゆくが、同時に白い髪が黒く変わってゆく。
一方で倒れている充國の首の傷も、みるみるうちに塞がりつつある。
そこから少し離れた場所では、
しかし短刀を突き付けられたままの
「半鐘?」
「……
混乱した声で呟いたのは魔術師ではなく、器の本来の持ち主、望部頭領の半鐘である。
そして雨巳と半鐘の視線が集まる先で、充國の体がむくりと起き上がった。
充國の体は自分の体を見下ろし、次に天井を見上げ、そして視線を感じたのか、二人の忍を振り返った。
「雨巳? ……と半鐘?」
そう言って眉を曲げたのは、孔蔵も見たことがある
雨巳が短刀を放り出すと、地面の上の來に跳び付いた。
「來!」
孔蔵はそんな連中から視線を戻すと、破れた壁の間から出てゆこうとしている富紀と、その背に負われた袈沙和上を呼び止めた。
「あの、すみません。今の、何が起きたかわかりませんけど、和上が何かされたんでしょう」
富紀と和上が、振り返った。答えたのは和上である。
「ええ、でも、それだけですよ」
「それだけって。黒鬼は、どこに行ったんですか。九兵衛、あいつには、何が起きたんですか。俺は、どうなってたんですか」
和上は答える。
「黒鬼は、写し世の向こうへゆきました。どなたかが送ったのでしょう。他の方も貴方も、一度写し世の向こうへ行って戻ってきた、それだけですよ。こちらに写し身のない方は、戻ってこなかったかもしれません。あちらへ渡った時のことを憶えているかどうかは、人によるようですが」
話した和尚の眉は下がっており、どこか疲れて見えた。
すると、続けて富紀が言った。
「質問は終わりだよ。十分だろ、もううちを訪ねてくれるなよ。良く寝てお天道さんを拝んで、東の故郷へ帰んな」
撥ねつけられた孔蔵は言葉を失い、ただ二人が去ってゆくのを見送った。
やがて目の前の篭に視線を落とす。篭の首の傷は塞がったが、まだ目覚める様子はない。
今度は、背後から声が聞こえた。昂輝の声だった。
「すまんが、孔蔵どの」
振り返ると、そこでは
「て、手伝ってはもらえぬか」
呻く若殿に、孔蔵は駆け寄った。そして梁を持ち上げようとして、その下の影貫を見下ろした。
今や両の瞼を閉じている忍の顔は、紙のように白い。首筋を触ると、辛うじて脈はあった。
「ちょいと、ちょいと待ってくださいよ」
孔蔵は腰を屈め、袖を払って梁の下へ両手を入れる。
「ぐうううぬぬうぬ」
全身の力を振り絞るが膝は上がらず、膝を伸ばせば肩が上がらない。
若殿と二人して唸っていると、そこへ雨巳と來と半鐘がやってきた。
「
雨巳が來に言い、折れて転がっていた細い柱の一本を梁の下へ差し込ませると転がっている瓦礫を支点にして、半鐘と昂輝が柱のもう一端を押し下げた。梁が持ち上がった隙に、孔蔵が影貫の体を引きずり出した。
何が起きたのか未だにわからず目を白黒させている半鐘が、雨巳に言われるままに影貫の怪我を診始めた。
その間に、孔蔵は再び篭に近寄った。
そしてふと気付く。首の半分ほどを覆っていた、黒い痕が消えている。
もしやと思い、恐る恐る篭の着物の胸に触れた。皮膚が焼ける音はしない。
彼はそれでもまだ確かめるように手を伸ばすと、篭の左手を取った。
左手からも、黒い痕はきれいに消えていた。
思わず孔蔵は、眠る篭に笑いかけた。
彼は声をあげた。
「なあ、雨巳、ちょっと手伝ってほしいんだが」
半鐘の手元を覗き込んでいた雨巳を呼び、篭を背負うのを手伝ってもらう。忍は文句の一つも言わず彼に手を貸した。
篭を背負って立ち上がる彼に、雨巳は訊ねる。
「なあ、さっきの何だったんよ」
「いや、それが、俺もよくわからん。さっきそこに来てた、婆さんに背負われてた爺さんの仕業だってこたぁ確かなんだが」
「へえ。ま、何だっていいわな。おかしなことってあるもんよ」
そう言うと、雨巳は軽い足取りで、半鐘へ近付いていった。半鐘は、帯か何かで影貫の胴を縛ったところだった。
「かたじけない」
昂輝が言うと、雨巳は小さく頷いた。
「でも、こっから動かすのは難しいよ」
雨巳が言うと、昂輝は答えた。
「私と陣明は、ここで人が来るのを待つ。もちろん私は言い訳を考えながらだが……それよりお前たちが何者か知らんが、籠原どのの連れの者ならここを離れたほうがよかろう。余所者とわかれば、怪しまれる」
孔蔵は、篭を背負ったまま昂輝を振り返った。
「あんたは本当に大丈夫なんですか」
若殿は頷いた。
「早くゆかれよ。我らは何とか言い逃れできても、汝らは捕まると厄介であろう」
孔蔵は両目を閉じている影貫の白い顔へ目を遣ったが、頷いた。
「恩に着ます。お達者で」
「礼を言うのはこちらだ。世話になった」
頷いた昂輝に会釈すると、篭を背負った孔蔵は歩き始めた。
すると、頭上から声がかかった。
「じゃな」
声のした方へ目を遣ると、雨巳が裂けた天井の向こうへ消えてゆくところだった。半鐘と來も、同じように裂け目の向こうへ隠れた。
「じゃあな」
そう孔蔵は返す。
天井を遠ざかる微かな足音がすぐに消えると、孔蔵は崩れかかった部屋を出た。
町は宵闇に沈んでいるが、付近の通りにはがやがやと人の気配がする。
見るとまだ、母屋のほうなどから使用人が逃げ出している。それに紛れて、彼らは屋敷の門外へ出た。
通りに出ると、近隣の屋敷は明かりを灯しており、野次馬らしい人々が路上でたむろしている。
その中に、こちらへ向かって歩いてくる宋十郎の姿があった。
「宋どの」
呼びかけると、侍の姿をした青年が駆け寄ってくる。
孔蔵は宋十郎へ向かって歩いていった。
*
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