第75話 宵の狂騒




 そこは夜の山の中か、底無しの闇の中か。

 皓夜叉しろやしゃとなった十馬とおまが折れた剣を振るうたび、彼は脇差でそれを受ける。

 刃と刃がぶつかる度、暗闇の中に鮮やかな花火が散る。

 今や十馬の写し絵である彼と、十馬であった皓夜叉の太刀筋は、まるで鏡に映したようだった。

 写し鏡である彼らの技量に差はない。ただ皓夜叉の剣は恐ろしく重く、それを受ける度に彼は全身が戦慄わななくような痛みを感じた。恐らくこの痛みが、皓夜叉の嘆きであり呪いなのだろうと彼は思う。

 刃を受けた覚えはないのに、彼の着物は傷み皮膚には傷が増えてゆく。腕も体もどんどん重くなる。

 皓夜叉は彼を斬ろうとしているのではない。ただ、そこにあるもの全てを否定しようとしているだけだ。しかしこのままゆけば、皓夜叉の刃が彼を叩き斬るだろうと彼は思う。

 彼は消えるわけにはいかない。ここで彼が消えれば、十馬はもう戻ることができない。

「十馬、」

 名を呼ぶが、相手は応えない。

 その隙に大きく皓夜叉の剣が振られ、彼は斬られた、そう思った。

 次の瞬間には彼は倒れており、身体がばらばらになっているわけではないが、まるでそうなったような痛みを感じていた。

 彼の目尻から涙がこぼれた。

 皓夜叉は剣を振り上げる。

 あれが振り下ろされた時、きっと十馬は死ぬ。

 絶望の淵を見たように思った時、遠吠えを聞いた。

 闇の中を、巨大な白い矢のように、獣が真っ直ぐに走ってくる。

 宋十郎そうじゅうろうだと、なぜか彼はそう思った。

 遠吠えを聞いた皓夜叉が動きを止めていた。獣が夜叉の名を呼んでいたからである。大きな獣は駆けてくると、夜叉に跳びかかった。

 夜叉は剣と腕で自らを庇ったが、それらごと大きな獣に突き倒された。

 獣の下で夜叉がもがく。夜叉を押さえつけている獣の口に何かがくわえられており、獣はそれを、夜叉の頭のそばに落とした。

 闇の上に転がったのは、白い石だった。

 夜叉は残った右目を剥き、その石を凝視した。

 獣は跳び退き、重しのなくなった夜叉は石を掴むと体を起こした。

 座り込んだ姿勢のまま、夜叉は石を左目に当てた。

 白い石は暗いほらを埋めた途端、黄金色こがねいろの目玉に変わった。

 皓夜叉が瞬きし、揃った両目で宙を見上げる。

 しかしそれと同時に、そこに恐ろしく重い気配が現れた。

 白い影が立っていた。

『夜叉さま、夜叉さま、皓夜叉さま。とうとうまなこを戻し給うた』

 凍てつくような恐怖を、彼は感じた。獣が、白い毛を逆立てている。

 白い影が愉悦に笑った。

『数珠もなけりゃ陽も差さぬ。今日の今日こそ食ろうてやろう』







 雨巳あまみは鎧武者に変えた蛇たちと共に影貫かげぬきの手を塞ぎながら、ひたすら背後にある充國みつくにの様子を窺っていた。

 とうとう痺れを切らせた充國は、よりにもよって京の街のど真ん中で強硬手段に出た。自身が本当に鬼になることができれば、人目も今後の身の振り方も心配せずともよいとでも思ったのかもしれない。

 今朝、充國に命じられて雨巳は影貫を追い、京に着いた影貫が自邸へ寄って盲目の下女からあれこれと聞き出しているのを目撃した。

 本来ならば鋭い影貫を尾行するのは至難の業だが、常に篭を操りながら行動している影貫は、普段よりいくらか集中力を欠いている。雨巳も蛇を使うのでそのあたりの事情は想像がつく。篭を操り始めた恐らく昨日から、影貫は眠ってもいないはずである。

 影貫が下女に訊ねた内容から、寺本岳昇たけのぶの屋敷で催される宴会へ忍び込むらしいと推察できた。それを充國に報告している間に、影貫は篭を連れて早くも岳昇邸へ向かった。

 影貫の目的はわからないが、何かことをしでかす気であることは間違いなさそうである。

そこで篭をどうする気であろうと、どうにかされる前にその器と身を頂いてしまおうと充國は言った。身というのは東鷗とうおう慈爺じじの表現だが、霊魂か何かのことを指しているようである。

 とはいえ敢えて岳昇の屋敷へ突撃していくなどいかれすぎていると思うが、都合のいいことに、影貫が屋敷の中で黒鬼を出した。侍や使用人が逃げ惑う混乱に乗じて彼女たちは屋敷に突入する。そして好都合であるのは、雨巳にとってもそうだった。

 東鷗慈爺は充國と十馬の身を入れ替える気でいる。それが充國の狙いで、昨日連中はその術式について話していた。雨巳はその邪魔をしてやろうと思っている。

 狙い通りにことが運ぶかなどわからないが、試さなければ永遠に変わらない。

 坊主の呪文が切れて再び暴れ狂う黒鬼の腕を躱しながら、雨巳は乾いた唇を舐めた。







 影縫いがほどけ、床に膝を突いた篭の髪が白く変わってゆく。

その様を、孔蔵くぞうは見た。

 ぞわりと肌が粟立つ。沈むような気配を感じる。

 篭のものだった器に今いるものが何か、孔蔵にはわからない。

 しかし白い髪と黄色く光る目を見て、しろやしゃ、という言葉を思い出した。

 黒鬼が砕いた壁から月光が漂ってくる。

 白い髪の夜叉は立ち上がり、そしていつの間にか、左手に折れた剣を握っていた。

 まずい。

 そう感じた孔蔵が呪文を唱え始めたのは、あまりにも遅かった。

 振り回された剣の見えない刃は、派手に天井を吹き飛ばした。

 雨巳が引き連れてきていた鎧武者たちが身を挺して、降り注ぐ瓦礫から雨巳を庇った。充國は瓦礫を紫色の炎で灼き、自身と東鷗慈爺を守った。

 孔蔵は頭上で重いものが割れる音を聞き、考える前に跳び退いていた。降ってきたのは梁である。

 同時に彼は、隣にあった昂輝のぶてるのことを思い出した。

「昂輝どの!」

 青褪めた彼が叫んだ時、昂輝は梁に潰され――てはいなかった。数歩離れたところで地面に尻を突いている。

 先ほどまで昂輝が立っていた場所では代わりに、影貫が梁の下敷きになっていた。

「あ、ああ……」

 昂輝は既に刀は握っておらず、震える足で立ち上がろうとした。蒼白になった顔には疑問符が浮かんでいる。

陣明じんめい……?」

 影貫は答えず、細めた目も開きかけた唇も、そのまま閉じた。

 その間に、刺すような気配を感じた孔蔵はまた印を結んでいた。白い髪の夜叉が、じっとしているはずがなかった。

南莫ノウマク三曼多サマンダ縛日羅バサラダンカン!!!」

 全身全霊を込めて、孔蔵は叫んだ。

 剣を振り上げようとしていた夜叉の動きが止まる。こうなると力比べであろうが、恐らく最後には孔蔵が敗れる。

 夜叉の代わりに、篭か十馬を呼ぶことはできないのか。

 そんなことを考えている間にも、腰を抜かして逃げ遅れていた侍が、黒鬼に掴まれ頭上に開いた夜空へ抛り投げられた。

 彼一人では到底手に負えない、そう思ったところで、小刀を抜いた充國が呪文に縛られている夜叉へ駆け寄っていった。

 何をする気だ。そう思うが、それを言葉にする余裕は孔蔵にはない。

 彼の目前で充國は、動きを止めている夜叉の首に、何と小刀を突き立てたのである。

「お前の器を貰い受けるぞ!」

 高らかに宣言した充國は、さらに驚いたことに、抜いた小刀を自分の首に突き立てた。

 充國は震える左手で黒い血を溢れさせている夜叉の首を掴むと、その血を移そうとするように、黒く汚れた手を自ら赤い傷口へ当てる。


 あまりに混沌とした状況に、孔蔵は不快と混乱を通り越して腹が立ってきた。

 彼は必死で夜叉を縛っているが、これを解いて充國と黒鬼を吹き飛ばさせるべきだろうか。それとも黒鬼に群がる鎧武者たちを縛るべきか。現に暴れる黒鬼は、邪魔をする鎧武者たちさえいなければ、今にも夜叉と充國をぶん殴るだろう。

 座ったままだった東鷗慈爺が、またも奇妙な呪文を唱え始めた。

 充國の体がぶるぶると震え、右手に握っていた小刀を取り落とした。恐らく呪文の影響を受けているのだろう。

 すると鎧武者たちの群れから飛び出してきた雨巳が、呪文を詠唱している東鷗慈爺に跳びかかっていった。雨巳は半鐘の姿をした魔術師が反応するより先に、短刀の柄で魔術師の横面をぶん殴った。

「いい加減に人をおちょくんのはやめな」

 そして、短刀の刃を魔術師の首に突き付ける。

「それよか、來返してもらおうか? どうやるのか教えてくれるか?」

 魔術師は忍を睨んだが、短刀の刃先が首の皮に食い込み、身動きを止めた。

 忍は続ける。

魑魅魍魎ちみもうりょうにお仲間多そうだから、あんたは死んでも平気なんかね? それか魍魎どもから恨み買ってんなら、地獄行きは先延ばしにしたいとこだわな」

 そんな会話が耳に届いたが、孔蔵はそろそろ限界を感じていた。汗が流れる。噛みしめた顎が震える。米神の血管が切れそうである。

 いかれた連中は雨巳に任せ、次に放つべき呪文は何だと必死で意識を手繰り寄せているところに、昨日静韻寺せいおんじで聞いたばかりの声が届いた。

「和上、こりゃ何ですか」

 富紀ふきの声だった。

 まさかと思って瞳を動かすと、破れた壁の向こうから、大柄な老女とその背に負われた袈沙けしゃ和上わじょうが駆け込んできた。

「声がしたのはこの場所です」

 掠れた声で言った袈沙和上は、惨状を見て息を呑んだ。暴れる黒鬼に鎧武者が群がり、天井も壁も床も崩れ、鬼に殴られたのか瓦礫に潰されたのかわからない体が夜霧の中に転がっている。

「和上、去りましょう」

 顔を歪めた富紀が言い、しかし和上は首を振った。

「このままにはできません。ここにあるものを、一度全て落とします」

 そう言う和上の声を聞くが早いか、孔蔵は突然どぼんと水の中に落ちたように感じた。

 温いようで冷たい水は、しかし彼の目や鼻に入ったりするわけではない。

 落ちていくというのが、彼が次に覚えた感覚だった。







 突如彼らの前に、白い亡霊が現れた。

 白衣しろぎぬから身を引こうとした篭は跳ね起き、皓夜叉も立ち上がる。

 彼と皓夜叉を守るかのように、獣の姿をした宋十郎が前に立った。

 寄り添う彼らを嗤ったかのような白衣は、しかし次に現れたものを見て嗤いを収める。

 白銀の燐光がふわりと浮かび、篭が見たことのない銀髪の仙人が現れた。

 仙人は銀糸を結ってまげかんざしを挿し、裾長の衣を着ている。三つの瞳を持っているが、一つの口も持っていなかった。

『おお、倶佯ぐよう

 白い亡霊がまるで浮かれたように言った。

『眠ってばかりのうつけ者、ひとの食事を邪魔しにきたか』

 人の言葉を喋る亡霊は、人のように赤々とした口を開けた。

 一方で仙人は、無い口を開くことはない。

 代わりに、仙人は宋十郎を人の姿へ変えた。

 仙人は宋十郎の口を使って喋る。

「鬼を真似てたまを喰らえば、やがてそなたも鬼となる。人を真似て言葉をめば、やがてそなたもその檻に囚われる。甲主こうしゅ、そなたは変わってしまった」

 宋十郎が発した声を聞き、白い亡霊は哄笑した。

洋々ようようようよう、広い時を泳ぐうち、それも良きかな、そう思うたわ。皓々こうこう月が錚々そうそう歌うておるうちは、そう眠られぬ我は眠らぬ。同じように眠られぬ子を、我が根に生やして何が悪い』

 またも、宋十郎の口を借りた言葉が流れ出た。

「そなたが呪えば、呪いはそなたの一部となる。その根に咲くのは虚ろで醜い痛みの花だ。眠られぬ子があったなら、寝かせてやるのがそなたのわざではなかったか」

『ああ倶佯、我が我が空は濛々もうもうかげり、もう我が枝には醜い花しか咲きはせぬ』

 楽しく謡うように発された言葉が、この上なく悲しく聞こえたのはなぜだろうか。

 言葉を聞いた仙人の三つの瞳が、哀惜を映すように深い藍色に染まった。

「甲主、もしそなたがそう成ったとしても、この子はそなたの醜い花ではない」

 銀髪の仙人は長い袖とともに両腕を広げると、翼を広げたおおとりに変わった。

 そして篭は、声を聞いた。

『羽を持つ子よ、飛びなさい』

 その瞬間、鳳の翼は激しい風を巻き起こし、白衣の姿を彼らから覆い隠した。

 皓夜叉も宋十郎も、嵐に呑まれて風に巻かれる。

 翼を広げ宙を蹴り、彼は暗い夜空へ飛んだ。




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