呼声

第74話 最後の踊りを




 ろうは飛んでいる。

 彼は長い夢を見ていた。

 あるいは、先ほどまでのものが現で、今この時が夢だろうか。

 これは宵闇か暁闇か、どちらだろうか。

 彼はあの人を見つけた。

 影を払ってあの人を連れ帰ることができますように、彼はそう祈った。







 袈沙けしゃ和上わじょう富紀ふきと別れた孔蔵くぞうは、昂輝のぶてると共に、若殿の屋敷へ戻っていた。

 和上は、十馬とおまを治すことはできないと言った。

 十馬と会ったこともないはずの袈沙和上は、鏡越えと呼ばれる力で十馬を視たのだという。そして和上は、十馬には生き延びる意志がないと言った。十馬は眠ることを望んでいる。救われる気のない者を救うことはできない。

 では篭を治したいと彼が言うと、袈沙和上は、篭の望みは十馬を生かすことだと言った。十馬に生き延びる意志がない限り、篭はひとりで生き延びようとはしないだろう。

 取り付く島のない答えに、孔蔵はうろたえた。

 ここまできて、手を伸ばせば届くところに救いがあるかもしれないのに、それを必要としているはずの者がその手を伸ばさないのである。

 一体何のためにこれまで旅を共にしてきたのかなどと、そんなことを言う気はない。ただ彼は悔しい。怒りすら感じているが、この怒りが何に対するものであるのかもわからない。

 彼は一度、十馬に会っている。あの時、十馬は凶鬼まがおにを封じてくれと彼に頼んだ。あの願いは、生き延びるためでなく眠るためだったというのだろうか。

 もしかしたら全てのものにとって、現世で生き延びることが解ではないのかもしれない。しかしなぜだろうか、彼には、眠ることが十馬にとっての解であるようにも思えなかった。

 今彼は、どうすべきだろうか。

 屋敷の客間で胡坐をかき、孔蔵はずっと考えていた。

 食事と厠へ立つときの他は、ただ座って考えていた。

 ふと、手前に横たえた蛾叉がしゃに目を落とした。

 随分短くなってしまったが、まだ彼の手元にあるこれには、まだ何かできることがあるのではないか。

 彼は、諦めたくない。彼の中で鳴り響いている勘に従い、彼のために十馬を、篭を生かしたいと頼んだなら、袈沙和上は何と答えるだろうか。十馬でも篭でもなく、彼のためである。それでも和上は無理だと言うだろうか。

 今は、十馬と篭が目覚めていさえすればよい。虚ろな人形のようになったとしても起きてさえいれば、その間に十馬も篭も変わるかもしれない。眠ることなら、今でなくてもいつでもできる。その間に、彼が十馬の耳元で念仏を唱えてやることだってできる。カルマなどできるだけ持ち越さぬ方が良いと、藍叡らんえい和尚おしょうだって言っていた。

 その時、戸口の方から昂輝の声がした。

「孔蔵どの、そろそろ出かけ支度をしようと思うが……」

 襖戸が開き、若殿が顔を出した。孔蔵は頷いた。

「ああ、もう夕刻ですね。ええ、承知しました」

「気が向かぬのなら、ここに残ってくれても構わんが」

 そう言う昂輝の方が気が向かない顔をしているが、孔蔵は首を振った。

「大丈夫ですよ。しかし、俺なんかが同席していいんですかね。何か大事な話がありそうでしたけど。俺はここじゃ全く余所者でしょう」

「……従者が誰かということまで逐一詮索されることはまずない。誰を同伴するかは私の責任になるゆえな。昨日兄上に見つかってしまった手前、話を合わせるためにできれば付き合ってもらいたい」

 はあと孔蔵は頷いた。

「承知しました、それでしたら、ご相伴に預からせてください」







 孔蔵が昂輝に連れられて兄昂勝のぶかつの屋敷へ行ったところ、屋敷に昂勝はおらず、宴会の会場は兄弟の父である寺本岳昇たけのぶの屋敷だと告げられた。

 昂勝の嫌がらせか誤連絡かはわからないが、昂輝曰く、そういうことは時々あるらしい。

 とにかくそうして彼らは岳昇の屋敷へ向かった。

 遅れて到着した岳昇の屋敷の門前には、招待客のものと思しき馬が何十頭と繋がれており、それぞれの従者たちが番をしていた。

 近所から歩いて来た彼らはそのまま門に向かい、屋敷の中へ招き入れられた。

「皆さま既にお集まりです」

 使用人にそう告げられながら、彼らは広間ともいえる座敷部屋へ通された。部屋には既に膳が供され、三十人ほどの客がいた。恐らく寺本の一族とその従者たちだろう。

 彼らが部屋の隅で腰を下ろすと、奥の高座で話していた岳昇と思われる老年の男が、ちらりと彼らの方を見、しかしそのまま話し続けた。

「殿はいよいよ、梔邑しむら皐薗こうぞのふみを書かれた。これらのものは夏納かのうを叩いて上洛を目指してくるであろう。こちらでも方々に声をかけておる。兵の備えが必要じゃ」

 孔蔵には詳しくはわからないが、やはり自分が聞いてはまずい話であるように聞こえる。

 座敷にいる人々の中には昂勝の顔も見られるが、誰も膳に手を付けず、畏まった様子で高座の方を向いていた。

 首を突っ込んでも碌なことにならぬだろうと思った孔蔵は、耳に流れ込んでくる話はそのままに、食事の献立や周囲の侍たちなどを観察した。

 その間にもぱらぱらと給仕が部屋へ出入りしては膳の上に料理の皿などを足してゆくのだが、杯に酒を注がれそうになった時は、一応断った。

 岳昇は長々と語っていたが、やがて手元の杯を取ったかと思うと、それを掲げて言った。

「我らが殿が御自身の手で運営される天下こそ、泰平の世だ。天下泰平の現出のために、我らは臣下の務めを果たそうではないか」

 応応と答える声が響き、侍たちが各々杯を手に取ってはそれを掲げた。掲げたあとの酒を啜った者から、膳の箸を取り始める。岳昇の演説はいったん終わったのだろう。

 隣の昂輝に目を遣ると、若殿はわかりにくいが渋面をしている。

「何か、まずい話でしたか」

 彼が訊ねると、昂輝は目を細めて首を振った。

「いや。……陣明は、今どこで何をしているだろうと思うてな」

 その時、彼の視界の隅で、鱗粉りんぷんを散らしながら蛾が羽ばたいたように思った。

 それを追って、彼は首を回した。

 しかしそこに蝶の姿はなく、その向こうにある間口から、ふらりと人影が入ってくるのが見えた。

 給仕の一人だろうかと思った人影は、使用人のような着物を着た篭だった。

「篭どの?」

 思わず彼は声をあげ、それを聞いた昂輝が彼の視線の先を追う。

 すると座敷部屋に入ってきた篭の背後に、影貫まで現れた。

「何……」

 昂輝が呟くと同時に、篭の頭上の天井が割れ、黒鬼の腕が現れた。







 先ほどまで翼で飛んでいたはずの篭は、いつの間にか二本の足で駆けていた。

 裸足で深渓みたにのはずれの野原を駆け、見覚えのある山を登った。

 山の中腹の少し開けた場所に、あの小さな石碑があった。

 石碑のそばに、佇む人影がある。

 その人影は白い髪をして、赤い着物を着ている。右目は黄色く光り、左目は虚ろな洞になっている。

 それが幽鬼と化しつつある十馬であると、彼にはわかった。

 気付けばその十馬を見つめている彼自身が、黒い癖毛をした青年の姿をしていた。

「十馬」

 十馬の姿をした彼は、相手の名を呼んだ。

 しかし、白い髪の頭は振り返らない。

「十馬、おれ、あんたを連れ戻しにきたんだよ。もう少しで京に着く。あんたの病を治してもらう。悲しいことはたくさんあったけど……一緒に、行こう」

 彼は歩み寄ると、相手の手首を掴んだ。


 その瞬間に、彼は視た。

 誰かの情念の欠片、記憶の断片を。

 白い髪の子供、それに寄り添う獣の金色の瞳。

 木々が伐られ醜く禿げた山肌に、底なしの闇が続く隧道すいどう

 細い滝の前に掲げられたいくつもの松明と、跪いて祈る人々。

 地中に生きたまま埋められる女。

 山を覆うような呻き声と呪う金切り声。

 日を覆う月、昏い空、剣が逃げ惑う人を追っては斬る。


 幻視が途切れた途端に、彼は大きく弾き飛ばされる。

 皓夜叉しろやしゃとなりつつある十馬が、彼を振り払ったのだった。

『大嫌いだ』

 気付くと皓夜叉は、左手に折れた剣を握っていた。

 剣が振り下ろされる。

 彼はいつの間にか握っていた脇差を構え、その見えない刃を受けた。







 三十人以上が集まった広間に、黒鬼が出た。

 瞬く間に、部屋は悲鳴と怒号に包まれた。

 唖然と鬼を見上げる者がいれば、一目散に逃げだす者もいる。いずれにしても振り回される鬼の腕の餌食となる。

 襖も壁も、鬼の腕に殴られて一息に吹き飛ぶ。割れた天井から鬼の腕に続いて体が出るのが早いか、孔蔵は立ち上がって印を結んでいた。

オン摩由囉マユラ訖蘭帝クランテイ薩婆訶ソワカ!」

 たちまち呪文に呼ばれた力が、黒い鬼の体を縛る。それに気付いた影貫の目が、彼と昂輝を順に捉えた。

「殿? こりゃ、あかしまへんな」

 そう言う影貫が右手を上げる。

 忍は誰ぞの影を縫うのかと、孔蔵が身を固くしたその時、崩れた壁の向こうから、影貫を狙って手裏剣が飛んだ。

 飛び道具を躱した影貫は、影縫いし損ねたようだった。その隙に散らかった部屋へ雪崩れ込んできたのは、鎧武者を引き連れた雨巳である。影貫の顔に貼り付いている薄笑いが苦くなった。

「人目は忍んでたんとちゃいますの」

 鎧武者の群れにたかられ、影貫が已む無く刀を抜いた。

 雨巳は答えずに、短刀を抜いて影貫を追う。それに続いて現れたのは、半鐘の姿をした東鷗慈爺と、孔蔵には來に見える遠夜充國である。

 充國は武器すら手にしておらず、崩れた壁を越えて部屋へ入るなり声をあげた。

「十馬、今日こそ君を放してやろう!」

 声は黒鬼の足元で虚ろに棒立ちしている篭に向けられている。

 その間に次々と侍たちが逃げ散ってゆき、一方で呪文を維持しなければならない孔蔵の米神には脂汗が浮いてきた。事態は混沌としているが、彼にはそんなことを気にしている余裕がない。

 充國の隣で立ち止まった東鷗慈爺が呟いた。

「お館さま、まずは十馬の身を呼び戻します」

「頼むぞ」

 頷きかけられるなり、東鷗慈爺はその場で座り胡坐をかくと、両手を膝の上に置いて奇妙な呪文を唱え始めた。

「な、汝ら、何者だ!」

 声をあげたのは昂輝である。

 黒鬼の腕が出ても逃げなかった若殿は、孔蔵の隣で抜いたものの向ける先に迷っていた刀を、充國と東鷗慈爺に向かって構えた。

「うん? 刀か? 刀では我を殺せぬぞ」

 目を吊り上げて笑った充國の掲げた両手が、ぼうと紫色に燃え上がった。

 昂輝は刀を握ったまま、息を呑んで後退る。

 東鷗慈爺の呪文が響き、孔蔵は弾けるような音を聞いた。それと共に、彼の呪文が千切られる。

「ぐうっ」

 孔蔵は唸った。彼の呪文が千切れたのは、黒鬼が力を増したからである。彼の呪文を黒鬼に千切らせたのは、東鷗慈爺の呪文だろう。

 再び腕を振り回した黒鬼の足元で、ぐらりと篭の体が崩れるのが見えた。

「影縫いが破れたな。さあ、鬼の身が現れるぞ!」

 愉快そうな充國の声が言った。




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