第73話 老人の独白




 ある男の話をいたしましょう。


 その男は北国の侍の末子に生まれ、若くして学ぶ志盛んにて、懐の深い主の許しと幾ばくかの金子きんすを受けて、都へ修学に上りました。

 男は都で学問を修め、また良き娘との縁にも恵まれましたので、新妻と共に故郷へ戻りました。


 しかし戻った故郷では、内紛が起きて父や兄たちが殺され、かつての主も亡くなり、男の居場所はなくなっておりました。

 短期間滞在した故郷で命を狙われ、男は妻を連れて家を逃げ出しました。


 住む家も仕える主も失った男は、妻と共に乱世の国々を転々としました。

 学だけが取り柄だった男は、侍の家を訪ねて回り、どこぞの家中で内政の顧問の端くれなどとして雇い入れてもらいました。

 ですが何せ世情が世情ですから、男は何度も職と主を替えねばならず、途中で妻が産んでくれた可愛い我が子は、冬の旅の最中で命を落とし、その悲しみで心気の衰えた妻は、その数年後に、やはり病で亡くなってしまいました。


 男は何度、残りかすのような人生を投げ捨てて妻と我が子の後を追おうかと思ったか知れませんが、妻が最後に残した言葉が、男にそれを許しませんでした。


「貴方には代わりに守り育てるものがあるのでしょう。去り行く者のことは忘れて、新しい家を見つけてください。それを見つけたら、それを私と我が子と思って、最後まで守り通してください」


 今思えば不思議な遺言でしたが、死の床にある妻の言葉に、誰が否と言えるでしょうか。

 男は必ずそうしようと、死んだ妻に約束したのです。


 それから幾ばくかの月日が流れ、男は東国の小さな領主のもとで職を得ました。


 その時には男はもう壮年を過ぎており、再び北国へ赴こうとした秋の終わりに半ば行き倒れた場所で、農民に助けられたのです。

 気の良い農民は男が浪人であり、学識があることを見て取ると、村長に男を紹介し、村長は領主へ取り次いでくれました。

 領主は男に引見しませんでしたが、男は家宰に引き合わされ、身の上の他にもあれこれと学問のことを訊ねられ、暫く屋敷に留め置かれるうちに、その家の子の傅役として召し仕えることになりました。


 しかもその子が嫡子だと聞き、老人は驚きました。

 いくらか学があろうとも、素性もはっきりしない老い枯れかけた小汚い侍崩れを嫡子の傅につけるなど、普通は考えられません。

 おまけに、その長子は物覚えのよい子で、豊松が説く書物の道理もよく呑み込みました。また気性も朗らかなので、下々の者たちに愛されておりました。

 ですが男は間もなく、なぜ自分などが嫡子の傅につけられたのかを、知ることになりました。

 まず、その子は事実上の家長ともいえた、当主の正室から疎んじられていました。

 そしてそれだけでなく、一家の当主筋の者たちは、その子が恐ろしい呪いにかかっていると信じていたのです。

 近付く人々に気狂いをもたらし、悪霊を呼び、やがて自身も狂うというのが、その呪いでした。


 男は、深い悲しみを感じました。

 自分がその、呪われた子の傅につけられたからではありません。

 何の罪もない、聡明で優しい子の運命を、家の者たちが既に断じて、その子を呪いそのもののように扱うことを、男は嘆いたのです。

 その子は、親の愛情を知りませんでしたが、よく喋ってよく笑う、とても優しい子でした。

 その子がよく笑うのは、男の前でだけです。笑いかけられてもそれを返さない他の者の前でもその子は笑いましたが、それは虚しい笑いでした。当然のことでしょう。

 余所者であり、家の隅で養われている飼い犬と変わらなかった男自身、その子を守ってやれるほどの力を持っていませんでした。

 それでも、年老いていた男は、できる限りのことをその子のためにしてやろうと誓いました。

 妻を失い我が子を失った老人には、その子が妻と約束した、彼自身の子であるかのように思えたのかもしれません。

 彼は長年、何のために学び重ねてきたかわからなかった知識と知恵を、できうる限り、その子に教え伝えました。

 男はそれほど得意ではなかった武回りのことも、必死になって稽古しました。その子は瞬く間に老人の腕前を軽々と抜いてしまいましたが、それでもずっと彼と稽古をつけていました。

 明るくて優しいその子は、何かを特別に老人のためにしたわけではありません。

 ただ老人は、その子が彼を見つめる瞳や、使う言葉や、動作の端々に、相手への敬意と優しさを感じることができました。

 本当に優しい声や瞳というものを、あなたが実際に見たことがあるなら、そしてそれを介して伝えられるものを感じたことがあるなら、わかるでしょう。

 それは、愛情と呼ばれるものでしょう。

 そしてその子は、それを、彼に特段関りのない家中の召使いや家の外の農民たち、その子の愛情を受け取る準備ができている者たちには、ごく自然にふりまきました。


 老人は、その子が呪われているなどとは思ったことがありませんでした。

 ただ、呪われていると信じている者が多くいたというだけのことです。

 

 あの子を遠くへ連れ去ってしまったのは、呪いでしょうか。

 それとも、それを信じた者たちでしょうか。


 老人は、残された命が枯れてなくなるまで、できる限りあの子を守り続けるでしょう。

 今でも、あの子が本当に呪われていたなどとは、男は信じていないのです。




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