第72話 毀れ落ちた青年は
彼は弟を愛することができなかった。
宋十郎の母の
それだけでなく、彼の弟は美しい心根をしていた。
嘘や曲がったことが嫌いで、家の者たちが何らかの理由で兄を蔑むと、自分が貶されたように怒った。
彼のことを好いてくれたのは、
しかし、憎いと思ったことはなかった。
殺したくない。
弟が人でないと聞いて、宋十郎が美しい理由を、彼は理解したように思った。
宋十郎を殺せば、彼は今度こそ屑人形ではなく屑になり、人から鬼に変わるだろう。
やっと、やっと消え失せる決心がついたと思った。
足掻くだけ足掻いた無駄と自分の見苦しさが可笑しく、虚しかった。
*
取り置いていた毒は
希少品を新しく買い求めるのも億劫に思え、
どこか人目に付かぬ場所、
あちらは三人である。空腹に押され、もはや反射のように、夕闇に紛れて襲い掛かった。
それがたまたま、尾上橋から戻る途中の
死人になった伯父と家臣の顔を見て、彼は嗤った。
死ぬつもりだったのにまた人を斬り、しかもそれが嫌い抜いていた伯父だった。
これ以上引き伸ばすべきではないと感じ、彼はその場で膝を突いた。
袖から腕を抜き、震える手で脇差を握った。
夜気に晒した腹に、刃を突き付け、刺した。
冷たい刃物を感じたのは一瞬のことで、次に痛みが燃え上がった。
刀を横へ引こうとしたが、情けない両手は震えるばかりで、上手く動かない。
呻き声が漏れ、唇の端から涎がこぼれた。
しかし腹を裂く前に、じゅうじゅうと奇妙な音が立ちのぼりはじめた。
刀が刺さっている傷口から黒い泡が溢れ、気付けば痛みも薄らいでいる。驚きのあまり両手を柄から離すと、ずるりと刃物がひとりでに抜け落ちた。
「う……ああ……」
ぶるぶると震える手で、塞がってゆく傷口に触れた。
やがて泡は止まり、腹と指先に黒いものが残った。
呻き声か嗚咽かわからないものが喉から漏れた。
宋十郎を殺していないが、彼はとうとう鬼になったのである。
突然涙が溢れ、吐き気が腹から喉を突きあげた。
彼は腹の中にあったものを吐き出すと、流れる涙はそのままに、息だけをしながら呆然とした。
やがてふと思いつき、不器用に右手で脇差を握ると、利き手を切り落とそうとした。
しかしあまりに手が震え、結局左手の手首と甲を傷付けただけだった。
新しい傷は泡を吹き、みるみるうちに塞がってゆく。そしてあとには、黒い痕が残る。
彼は、恐怖と惨めさに打ちのめされながら、よろよろと立ち上がった。
彼が向かったのは、
幸いまだ付近をうろついていた馬を捕まえ、夜の
日暮れ後に彼が出入りするのは初めてではなかったため、遠夜の門番は彼を通したが、彼の姿を見て明らかに顔を顰めていた。門番だけでなく彼を取り次いだ従侍も、不気味そうな顔をした。
その理由は、充國が明かした。
「君の左手と左目に、何があった」
明かりの下で見た彼の左手は、指先まで黒くなっていた。
そして充國が言うには、左の目玉が赤いという。
「とうとう、器まで鬼に変じようとしているのか」
流石に驚愕した充國に、彼は単調に答えた。
「そうです。先ほど、腹を切ろうとして刀を刺したんですが、傷が塞がって……もう痛みもありません。左手も同じように切り付けたので、黒く変わったのはそのせいでしょうか」
「腹を見せてみろ」
彼が着物をはだけると、腹だけでなくそこから胴の左側まで、黒が広がっていた。
「左目が赤いのはなぜだ。左目も傷つけたのか」
問われ、彼はただ思い付いたことを述べた。
「鬼の目なので、先に腐ったのかもしれません」
そこでとうとう、彼は抑えることができなくなった。
「……充國どの、私を、眠らせてください」
彼が言うと、充國は小さく眉を上げた。
「なぜだ」
「なぜって、もう、ここから、俺に憑いてる連中から、この腐った体から逃れたいからですよ」
縋りつくように、目の前に立つ充國の着物の腕を掴んだ。
「腹を切っても傷が塞がるんです。首を落としてもらったら、上手くいくかもしれません。お願いです」
充國は彼を見、しかし振り払うことはせず、答えた。
「十馬どの。我は、君の力が欲しい。鬼の力が欲しいのだ。君は鬼になりかけているが、まだ自己を律しているではないか。ここには
彼は、眩暈を感じて項垂れた。絞り出すような自分の声を聞いた。
「お願いです、わたしを、放してください……」
繊細な手が伸びて、彼の顔を持ち上げた。充國の両目が、彼の左目に引き寄せられている。充國は呟いた。
「この赤色は美しい。このままで、よいではないか」
彼は、充國から離れた。ふと彼は、その昔遠夜が飼っていた比良目という魔物の物語を思い出した。
「十馬どの、君を救えるのは、恐らく我だけだ」
言葉が虚ろに響く。彼はその充國から離れ、後退った。
幸い、充國は出てゆく彼を引き留めなかった。
そのまま彼は、銅土城からも逃げ出した。
*
闇の中、馬が駆けるのに任せた。
首を落としてくれる者がいないなら、断崖から身を投げて粉々になるか、水の中で溺れ死ぬことならできるだろうか。首を吊るという手段もある。
気付けば馬は、見知った山の麓へ彼を運んできていた。彼はそこで馬を止めて下りると、夜闇の中、暗い森へ入り、山を登った。
記憶を頼りに険しい坂を這い辿り、やがて崖の上へ辿り着いた。
幸い暗闇に溶けて、崖の底は見えない。
ふと、二度と会わない青治のことを考えた。
もし彼が消え去れなかったとしたら、別の場所で別のものに変わることができるのだろうか。
彼は飛び降りた。
目が覚めた。
夜明けの白い空が見えた。
崖下で一人転がっている自分を見て、死に損ねたことに気付いた。
体を検めるが、皮膚が黒く汚れ変色している他には傷跡もない。
彼は呆然とした。
水に沈んだら死ねるだろうかと考え、手頃な水辺を思い浮かべた。
重い膝を持ち上げ、這うようにして森を出ると、昨夜と同じ場所に馬が立っていた。
彼は馬に歩み寄ると、その首を撫で、背の上に跨った。
朝のうちに川に入った彼は、その日の夕暮れ前、少し下流の河原で目覚めた。
着物は濡れていたがそれだけで、彼の体にはやはり一つの傷もない。
彼は低くなってゆく西日を眺めながら途方に暮れた。
しばらく河原で座っていたが、やがて彼の馬のことを思い出した。もしかしたらまた、昨日のように同じ場所で待っているのではないか。
ふらふらと林の中を辿り、彼が水に入った岩場まで行くと、やはり馬はそこにいた。
残していった脇差も、馬の鞍に括られたままだった。
彼は馬の首を撫で、鬣に額を押し付けた。
この生き物を家へ帰らせるために、一度だけ屋敷へ戻ろうと、彼はそう思った。
そしてついでに、考えついた。
屋敷へ戻れば、宋十郎がいる。宋十郎から茂十の居場所を聞き出し、
彼は馬に跨ると、もう一度追ヶ原へ向かった。
町へ入ると、店を畳みつつある行商人を捕まえて、包帯を買った。
日暮れ時のことで、行商人は彼の赤い左目には気付かなかったが、左手が黒いことには首を捻っていた。
包帯を掴むと、彼は門を閉める寸前の追ヶ原から出た。
街道沿いの廃屋で左目と体に包帯を巻き、そこで夜明けを待った。
夜が明け、日が高くなるのを待って、彼は深渓へ向かった。
屋敷では、守十の葬式が行われる頃だろうか。
*
山寺の奥の中庭に、横たわっている男が見える。
胴を裂かれて仰向けに倒れているのは、先ほどまでの彼だった。
大きく裂けていた傷口は、黒い泡を吹きながら塞がろうとしている。
そのそばに立っている茂十が、侍の姿に戻った宋十郎に、替えの着物と包帯を持ってくるように言った。
宋十郎が去り、庭には鬼の体と茂十が残された。
鬼の体の前で跪くと、茂十は青年を見下ろした。
茂十の顔に、痛みと悲しみが浮かんでいる。
節の浮いた手が伸ばされ、青年の額から頭を撫でた。
今度こそ老人の目から一筋の涙が流れ落ち、青年の額を濡らした。
その時、泡立っている胸の傷口から、何か黒い羽のようなものがひょっとはみ出した。
傷の奥でそれはもぞもぞと動き、裂け目を押し広げるようにして、小さく黒い鳥が這い出してきた。
小さな鳥は傷口から抜け出ると大きく羽を伸ばし、そしてそのまま飛び立った。
茂十が飛び立つ鳥を見送る。
ああと彼は、そこにない体で溜息を吐いた。
あの鳥は彼だ。
*
そうして生まれた彼に、誰かが囁いたのだった。
お前に
お前はあの子の
よく眠れるように、太陽を見られるように、たくさん、たくさん飛びなさい。
*
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