第72話 毀れ落ちた青年は




 彼は弟を愛することができなかった。

 宋十郎そうじゅうろうは美しい弟だった。

 宋十郎の母の雪紀ゆきは背が高く、その名の通り雪のような白い肌をして、賢そうに整った柳眉に切れ長の瞳を持っていた。その母に、宋十郎はよく似ていた。

 それだけでなく、彼の弟は美しい心根をしていた。

 嘘や曲がったことが嫌いで、家の者たちが何らかの理由で兄を蔑むと、自分が貶されたように怒った。

 彼のことを好いてくれたのは、豊松とよまつを別にすれば弟だけであると彼は知っていたが、彼にとって宋十郎は、どこか手の届かない遠い場所にあった。

 しかし、憎いと思ったことはなかった。

 殺したくない。

 弟が人でないと聞いて、宋十郎が美しい理由を、彼は理解したように思った。

 宋十郎を殺せば、彼は今度こそ屑人形ではなく屑になり、人から鬼に変わるだろう。

 先日茂十しげとみが深渓を訪ねてきたと宋十郎から聞いていたが、すでに手遅れである。

 やっと、やっと消え失せる決心がついたと思った。

 足掻くだけ足掻いた無駄と自分の見苦しさが可笑しく、虚しかった。







 取り置いていた毒は波留はるに飲まれてしまった。

 希少品を新しく買い求めるのも億劫に思え、自刃じじんしようとはらを括った。

 どこか人目に付かぬ場所、深渓みたにの外でしようと考えて夕暮れの街道に馬を走らせていたら、侍の一行に出くわした。

 あちらは三人である。空腹に押され、もはや反射のように、夕闇に紛れて襲い掛かった。

 それがたまたま、尾上橋から戻る途中の守十もりとみだった。


 死人になった伯父と家臣の顔を見て、彼は嗤った。

 死ぬつもりだったのにまた人を斬り、しかもそれが嫌い抜いていた伯父だった。

 これ以上引き伸ばすべきではないと感じ、彼はその場で膝を突いた。

 袖から腕を抜き、震える手で脇差を握った。

 夜気に晒した腹に、刃を突き付け、刺した。

 冷たい刃物を感じたのは一瞬のことで、次に痛みが燃え上がった。

 刀を横へ引こうとしたが、情けない両手は震えるばかりで、上手く動かない。

 呻き声が漏れ、唇の端から涎がこぼれた。

 しかし腹を裂く前に、じゅうじゅうと奇妙な音が立ちのぼりはじめた。

 刀が刺さっている傷口から黒い泡が溢れ、気付けば痛みも薄らいでいる。驚きのあまり両手を柄から離すと、ずるりと刃物がひとりでに抜け落ちた。

「う……ああ……」

 ぶるぶると震える手で、塞がってゆく傷口に触れた。

 やがて泡は止まり、腹と指先に黒いものが残った。

 呻き声か嗚咽かわからないものが喉から漏れた。

 宋十郎を殺していないが、彼はとうとう鬼になったのである。

 突然涙が溢れ、吐き気が腹から喉を突きあげた。

 彼は腹の中にあったものを吐き出すと、流れる涙はそのままに、息だけをしながら呆然とした。

 やがてふと思いつき、不器用に右手で脇差を握ると、利き手を切り落とそうとした。

 しかしあまりに手が震え、結局左手の手首と甲を傷付けただけだった。

 新しい傷は泡を吹き、みるみるうちに塞がってゆく。そしてあとには、黒い痕が残る。

 彼は、恐怖と惨めさに打ちのめされながら、よろよろと立ち上がった。


 彼が向かったのは、追ヶ原おいがはらだった。

 幸いまだ付近をうろついていた馬を捕まえ、夜の銅土あづち城を訪ねた。

 日暮れ後に彼が出入りするのは初めてではなかったため、遠夜の門番は彼を通したが、彼の姿を見て明らかに顔を顰めていた。門番だけでなく彼を取り次いだ従侍も、不気味そうな顔をした。

 その理由は、充國が明かした。

「君の左手と左目に、何があった」

 明かりの下で見た彼の左手は、指先まで黒くなっていた。

 そして充國が言うには、左の目玉が赤いという。

「とうとう、器まで鬼に変じようとしているのか」

 流石に驚愕した充國に、彼は単調に答えた。

「そうです。先ほど、腹を切ろうとして刀を刺したんですが、傷が塞がって……もう痛みもありません。左手も同じように切り付けたので、黒く変わったのはそのせいでしょうか」

「腹を見せてみろ」

 彼が着物をはだけると、腹だけでなくそこから胴の左側まで、黒が広がっていた。

「左目が赤いのはなぜだ。左目も傷つけたのか」

 問われ、彼はただ思い付いたことを述べた。

「鬼の目なので、先に腐ったのかもしれません」

 そこでとうとう、彼は抑えることができなくなった。

「……充國どの、私を、眠らせてください」

 彼が言うと、充國は小さく眉を上げた。

「なぜだ」

「なぜって、もう、ここから、俺に憑いてる連中から、この腐った体から逃れたいからですよ」

 縋りつくように、目の前に立つ充國の着物の腕を掴んだ。

「腹を切っても傷が塞がるんです。首を落としてもらったら、上手くいくかもしれません。お願いです」

 充國は彼を見、しかし振り払うことはせず、答えた。

「十馬どの。我は、君の力が欲しい。鬼の力が欲しいのだ。君は鬼になりかけているが、まだ自己を律しているではないか。ここには東鷗とうおう慈爺じじがいる。遠夜で、我が城で籠原にも気取られぬように匿ってやろう。その姿では、深渓には戻れまい」

 彼は、眩暈を感じて項垂れた。絞り出すような自分の声を聞いた。

「お願いです、わたしを、放してください……」

 繊細な手が伸びて、彼の顔を持ち上げた。充國の両目が、彼の左目に引き寄せられている。充國は呟いた。

「この赤色は美しい。このままで、よいではないか」

 彼は、充國から離れた。ふと彼は、その昔遠夜が飼っていた比良目という魔物の物語を思い出した。

「十馬どの、君を救えるのは、恐らく我だけだ」

 言葉が虚ろに響く。彼はその充國から離れ、後退った。

 幸い、充國は出てゆく彼を引き留めなかった。

 そのまま彼は、銅土城からも逃げ出した。







 闇の中、馬が駆けるのに任せた。

 首を落としてくれる者がいないなら、断崖から身を投げて粉々になるか、水の中で溺れ死ぬことならできるだろうか。首を吊るという手段もある。

 気付けば馬は、見知った山の麓へ彼を運んできていた。彼はそこで馬を止めて下りると、夜闇の中、暗い森へ入り、山を登った。

 記憶を頼りに険しい坂を這い辿り、やがて崖の上へ辿り着いた。

 幸い暗闇に溶けて、崖の底は見えない。

 ふと、二度と会わない青治のことを考えた。

 もし彼が消え去れなかったとしたら、別の場所で別のものに変わることができるのだろうか。

 彼は飛び降りた。


 目が覚めた。

 夜明けの白い空が見えた。

 崖下で一人転がっている自分を見て、死に損ねたことに気付いた。

 体を検めるが、皮膚が黒く汚れ変色している他には傷跡もない。

 彼は呆然とした。

 水に沈んだら死ねるだろうかと考え、手頃な水辺を思い浮かべた。

 重い膝を持ち上げ、這うようにして森を出ると、昨夜と同じ場所に馬が立っていた。

 彼は馬に歩み寄ると、その首を撫で、背の上に跨った。


 朝のうちに川に入った彼は、その日の夕暮れ前、少し下流の河原で目覚めた。

 着物は濡れていたがそれだけで、彼の体にはやはり一つの傷もない。

 彼は低くなってゆく西日を眺めながら途方に暮れた。

 しばらく河原で座っていたが、やがて彼の馬のことを思い出した。もしかしたらまた、昨日のように同じ場所で待っているのではないか。

 ふらふらと林の中を辿り、彼が水に入った岩場まで行くと、やはり馬はそこにいた。

 残していった脇差も、馬の鞍に括られたままだった。

 彼は馬の首を撫で、鬣に額を押し付けた。

 この生き物を家へ帰らせるために、一度だけ屋敷へ戻ろうと、彼はそう思った。

 そしてついでに、考えついた。

 屋敷へ戻れば、宋十郎がいる。宋十郎から茂十の居場所を聞き出し、茂十しげとみを訪ねて後始末を頼むのである。茂十なら、彼を殺す方法を知っているかもしれない。

 彼は馬に跨ると、もう一度追ヶ原へ向かった。


 町へ入ると、店を畳みつつある行商人を捕まえて、包帯を買った。

 日暮れ時のことで、行商人は彼の赤い左目には気付かなかったが、左手が黒いことには首を捻っていた。

 包帯を掴むと、彼は門を閉める寸前の追ヶ原から出た。

 街道沿いの廃屋で左目と体に包帯を巻き、そこで夜明けを待った。

 夜が明け、日が高くなるのを待って、彼は深渓へ向かった。

 屋敷では、守十の葬式が行われる頃だろうか。







 山寺の奥の中庭に、横たわっている男が見える。

 胴を裂かれて仰向けに倒れているのは、先ほどまでの彼だった。

 大きく裂けていた傷口は、黒い泡を吹きながら塞がろうとしている。

 そのそばに立っている茂十が、侍の姿に戻った宋十郎に、替えの着物と包帯を持ってくるように言った。

 宋十郎が去り、庭には鬼の体と茂十が残された。

 鬼の体の前で跪くと、茂十は青年を見下ろした。

 茂十の顔に、痛みと悲しみが浮かんでいる。

 節の浮いた手が伸ばされ、青年の額から頭を撫でた。

 今度こそ老人の目から一筋の涙が流れ落ち、青年の額を濡らした。

 その時、泡立っている胸の傷口から、何か黒い羽のようなものがひょっとはみ出した。

 傷の奥でそれはもぞもぞと動き、裂け目を押し広げるようにして、小さく黒い鳥が這い出してきた。

 小さな鳥は傷口から抜け出ると大きく羽を伸ばし、そしてそのまま飛び立った。

 茂十が飛び立つ鳥を見送る。

 ああと彼は、そこにない体で溜息を吐いた。

 あの鳥は彼だ。







 そうして生まれた彼に、誰かが囁いたのだった。

 お前にろうという名前を授けよう。

 お前はあの子の揺篭ゆりかごだよ。

 よく眠れるように、太陽を見られるように、たくさん、たくさん飛びなさい。




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