第67話 子鬼に赤い衣着せ
父の
戦に出ている時はそうと知れたが、そうでない時は街へ出ているのか屋敷の中にいるのか、どこにいるのかよくわからないことが多かった。
その朝十は出掛けて戻ってくると、稀に土産を買ってきた。
そういう時、父は
彼が赤い着物を着ると、父は笑顔を見せ、彼に唄を教えたり、剣の稽古をつけてくれる。
しかしその赤い着物はひと月もすると、決まって雪紀が下女に捨てさせるのだった。
*
彼の初陣となった戦で、父は死んだ。
それは
父の朝十は指揮官として優れているとはいえなかった。ただ、剣術にはいくらか達者であり、戦線に出た時の人が変わったような勇猛果敢さは、兵の士気を奮い立たせるのに効果があった。
この時初めて戦場を踏んだ彼は、まだ背も伸び切っていない少年だった。
父は彼に、戦ではまず死なぬこと、死なずに済むなら逃げぬこと、この二つを守ればよいとだけ言った。
とても武士であり家長であり父である男の言葉とは思えなかったが、朝十はこれだけ彼に言って聞かせると、貧相な彼に鎧を着せて、戦場へ発った。
実際には彼は、逃げぬ以上の働きをした。鎧は重かったが、彼は鍛錬の結果、随分達者に剣を扱うようになっていた。父の脇についてその背を守るつもりで辺りを窺い、近付くものがあれば必死で剣を振るった。
戦場は恐ろしい場所だった。人も影も入り乱れて混然とし、恐怖と怒りで訳が分からなかった。
彼は狂ったように剣を振ったが、そうして縋りつかなければ我を失ってしまいそうだった。狂っているのが普通の場所が戦場だった。そうでもしなければ、人同士がこうも殺し合うのは無理というものだろう。
戦場を俯瞰して策を施すには、狂った上でそこに自己を築くことが必要なのだろう。優れた将や軍師、覇王などというものは、恐らくある種の残忍性を備えていなければならず、その意味では狂人だろうと、彼は思った。
生き延びるには、狂うしかない。
力圧しに押し負けた敵部隊が後退を始め、梔邑の下将が追撃を命じた。先鋒の籠原隊は、逃げ出した敵を真っ先に追った。
徒歩で走る父の背を追って、彼も走った。
敵は逃げて原野を抜け、集落へ逃げ込んだ。
こうなると不幸である。追撃する側の軍、つまり籠原の兵たちは敵を刈り取るため、小さな農村へ襲い掛かった。
敵将は何某という武士であり、またその息子を伴っている。彼らはその何某と息子の首級をあげなければならない。
朝十は抜き身の剣を握ったまま、農家の戸を蹴破り敵兵の影を探した。
農民たちは家を飛び出し、道も畑も関係なく逃げ惑う。地獄絵図だった。
彼は周囲を見回し、大きな家の裏口から、武者が駆け出てくるのを見た。鎧兜は何某のものだが、手にしている武器が異なっていた。
「父上、あれは影武者のようです」
弾む息で彼は言い、駆け去ってゆく鎧兜を指さした。
察したらしい父は駆けだすと、偽物が出ていったあとの農家に飛び込んだ。
裏口から駆け込むなり、家から出ようとしていた庶民服の父子と鉢合わせた。こちらが、本物の何某父子だった。
「うおあああああっ」
吼えたのは何某である。腰に帯びていた刀を瞬時に抜いた。
しかし、もとから剣を抜いていた父の方が速かった。
今日だけで幾人もを屠ってなまくらと化しつつある刀が、それでもざぶんと敵を叩き斬る。
「父上ええええっ」
すぐ背後にあった何某の息子が叫んだ。齢の頃は彼と変わらない。疲れ果てて絶望した顔が蒼白だった。
ただの人殺しとなっていた父の目が、少年の悲鳴を聞いて刹那、人に戻った。
少年は既に闘うことを諦めている。生き延びることも忘れたらしく、彼らのことなど目に入らぬ様子で斬られ倒れた父親に縋り付いた。
朝十はその少年を見下ろしたまま、剣を振らない。
ここで正気に返ったとて、何になる。この少年を殺さねば、これは終わらない。
代わりに彼は剣を振り上げると、自分と同じくらいの少年を斬った。
一撃で絶てず、彼はもう一度刀を振って少年を絶命させた。
赤い血が噴き出し、彼は全身に返り血を浴びた。
視線を感じて振り返ると、父が彼を見ていた。
その眼差しが、彼には恐ろしく不快で苛立たしかった。
「父上、赤い着物を貰いました」
彼はそう言って笑った。
朝十は父子の首を切り落とし、農家の中にあった布に包むと、それを三蕊
彼は籠原の兵三人を護衛に付けられ、籠原隊を追ってきているはずの三蕊隊に向かって走った。
その間に、父は死んだのである。
戦場となった村の裏の竹林の中で、敵兵に斬られたのだか農民に斬られたのだか、下手な刀傷をいくつか受けて絶命していた。
父は自ら命を捨てたのだろうと、彼は思った。
何もしない父は、戦もしたくなかったのかもしれない。
彼は深渓に戻り、眠る間もなく父の葬儀を執り行わなければならなかった。
*
次の当主は十馬であると、朝十は随分前から公言していた。
それは、もの言わぬ当主であった父が独裁者に等しかった妻の雪紀に対して、唯一譲らなかったことだった。
しかし実際に当主となって家を取り仕切るには、彼は幼すぎた。
父の弟であった
*
父が死んで間もなく、雪紀が体調を崩した。
やがて病をこじらせて倒れ、帰らぬ人となった。
亡霊となった朝十が妻を冥府へ同道したのだと、使用人たちが囁き合っていた。
しかし父の影を、彼は一切見なかった。当然だろう、あの二人が互いを探すはずがない。
むしろ彼は、葬式が終わっても暫く屋敷の中をうろついていた雪紀の影を見たが、それもやがて消えた。
*
守十は優れた家宰だった。
朝十が表に立ち、雪紀が籠原家と
守十は、籠原を戦に駆り出す
仕事は全て守十が掌握しているので、彼は父と同じく有名無実の領主だった。
それは彼の気に障らなかった。彼は実際に子供であり、守十は深渓の土地と人をよく守っている。
しかし彼は守十のことを嫌いだった。守十が彼を嫌いだったからである。
守十は彼を嫌っている、あるいは蔑んでいることを自身で気付いていないか無視しているふうだったが、そういう守十の性分も、年若い彼には耐え難い欺瞞に思えた。
そして、彼はもともと籠原の屋敷も嫌いだった。
嫌いな者が仕切る嫌いな場所にいることは苦痛である。名目上とはいえ当主となり屋敷の外へ出られるようになった彼は、外出することにした。
*
彼は襤褸の庶民服を着て、深渓の外へ出た。
見知らぬ山々へ行った。追ヶ原と尾上橋の街へ行った。
小さな深渓では彼の顔を知らぬ者はいなかったが、その外に出れば彼は別人になることができた。
山では剣を振り、街では酒家や賭場を覗いて、裏通りの街娼を買った。
未知の世界への好奇心は彼の読書への愛情とよく似ていたし、自分の母と言われる
人がどう生きたのか、あるいは雪紀や守十がそれほど蔑むものが何なのかといったことに興味があった。
遊ぶ金が足りなくなったら賭場へ行き、影を見て影の声を聞けば、多少の金は集めることができた。
彼は物心ついた時から影を見、その声を聞いてきた。時に影に怯える反面、彼はそれらのものから様々なことを学び取っていた。さらには、それを自ら利用することをおぼえはじめたといえる。
若く金払いの良い彼は、街娼たちから歓迎された。金を払えば柔らかい言葉や笑顔で温めてもらうことができた。
屋敷にいた時は進んで彼に近付く者はほとんどいなかったが、彼は人に触れるのが好きだった。
名前を訊ねられた時、名乗る代わりに綽名をつけてもらうのがとても幸せだった。
*
都合のいいことばかりが続くとは限らない。彼は決して派手に遊んでいたわけではないが、それでも小金を持った餓鬼の存在はうらぶれた裏路地で、多少人目につくものだったのだろう。
一度夜道で暴漢に金を奪われてから、彼は脇差を背に差して歩くようになった。刀さえ手にしていれば、逃げ切れないということはなかった。
ところがある晩、尾上橋の賭場を出たあとに難癖をつけてきた男の手首を切り落としたら、その次にごろつきが十人ほどに増えるということが起きた。
その夜、賭場を出て花街へ続く裏通りを歩いていたら、男たちが現れた。
尾けられていることに気付いた彼はすぐに走り出したが、狭い通りの四方から次々に追手が湧き出て、気付くと彼は囲まれていた。
「気を付けろ、剣の腕は一丁前だぞ」
「どっかの武家の小倅じゃねえのか」
「こっちは数がいんだ」
「化けの皮剥いで吊し上げろ」
怒りで興奮した男たちが口々に言った。彼は恐怖を感じた。
走っている間に、既に脇差は抜いていた。
彼は敵に斬り掛かってゆく自分を想像したが、この数に囲まれては、全員に斬り付ける前に背後を取られて終わりだろうと思った。
無駄を悟った途端、彼の剣を握った手が下がった。抵抗しなければ、身ぐるみ剥がれて半殺しで済むかもしれない。
背後にいた男が、何か硬いもので彼の頭を殴った。
油断していた彼は倒れ、すると続いていくつもの足が彼の体を蹴った。彼が手放した脇差を誰かが拾う。
点滅する視界の隙間に、いくつもの影を見た。男たちの影が魑魅魍魎のごとく踊り狂っている。
彼の影が黒く燃えているのも見える。初陣に出て以来自分の影の形が少し変わったことが、ずっと気になっていた。
彼を蹴りつけていた足が止み、代わりに腕が伸びてきて、身を縮めていた彼の肩や腕を掴んだ。抵抗する彼の体を仰向けに広げて、両腕を地面に縫いとめた。
右手首のない男が、左手で彼の脇差を握っている。その顔に見覚えがあり、これが復讐であると彼は初めて気付いた。
男の据わった目が異様に光っている。男は彼の手首を切り落とす気なのだろう。不具になるのは恐ろしかった。
彼の中で何かが膨らんだ。
男が脇差を振り上げた瞬間、その背後で地面が弾けた。
地面から現れたのは、首のない黒い鬼だった。
黒い鬼は、はじめは二本腕だったが、次々に男たちを殴り殺していく間に、背からさらに腕を生やし、最後には七本腕になっていた。
彼は鬼が男たちを殴り掴みして殺してゆくのを呆然と見つめ、しかし一人が逃れ去ったのに気付いて、考えるより先に脇差を拾ってそれを追った。
こうして彼は、彼の鬼を見た者を全て殺したが、しばらくは尾上橋に足が向かなかった。
*
一度黒い鬼が現れたあと、変化があった。
彼のもとに、影や亡霊だけでなく、小鬼のような魔物どもが寄ってくるようになったのである。
それによって彼は、意識を持たない影と、意志を持ち自ら行動する魔物を区別するようになった。
小鬼やそれに近い亡霊たちは、まるで現世にある人間たちのように、彼に話しかけてくることさえあった。特に子鬼たちは、揃って彼のことを『黒鬼』と呼んだ。
初めに彼に語り掛けたのは、
彼はその時、追ヶ原の街中にある、貧乏長屋の板間で目を覚ました。
そこは、昨晩買った女郎の棲み家だった。朝には用事があるので泊められないと女郎に言われたところを、置き去りにして構わないから居させてくれと無理を言って一晩置いてもらったのだった。
うっすらと目を開いた時に、女の後姿を見た。
はじめは、昨夜の女郎がそこにいるのだと思った。しかし何となく異様なざわめきを覚えて、彼はそこにあるものが生きた人間でないことを感じ取った。
こういうことは、彼には時々ある。影や亡霊を見た時の彼の処方は、見なかったふりをするというものだった。この時も黙って目を閉じ、眠りに戻ろうとした。
すると、女の声が聞こえた。
「あらあら、まあ、黒鬼さま。臆病な童みたいに、寝たふりですか」
彼はぎくりとした。そして内心で驚いた。女の声は、亡霊にしてはまるで生きている人間のそれのようにはっきりと聞こえる。そして彼には、黒鬼というのが彼を指す言葉であることもなぜか感じ取ることができた。
しかし、彼はまだ目を開かなかった。女の声は、構わず話し続ける。
「昨夜は、楽しゅうございましたわね。あの娘と結んだのは何度目でございましたっけ。貴方さまが幼く不憫だから、娘は拒めないのでしょう。そうでなければ、ここに泊まらせるのにだって金をせびっていたでしょうね。哀れな娘。器量はそう良くないけれど、あの声がかわいらしいですわね、まるで猫が鳴くみたいで。ああ、あなたたちは子猫の姉弟みたいなものですわ」
最後の声は恍惚として溜息を吐くようで、彼はその響きに胸騒ぎのようなものを感じた。
そして何より、気味が悪かった。この亡霊は、近頃彼がその女郎を度々買っていると知っている。しかも余計なお喋りをしていたことまで聞いていたらしい。そして当然それらのものは、人であろうと魔物であろうと他人に聞かせるつもりのないものである。
思わず彼は、薄目を開いて声の方を見た。
そこには女が座っており、彼の視線を受けたように女が振り返った。振り返った女は恐ろしく艶美だった。明らかにこの世のものではない。
彼が黙り込んでしまうと、女はふふと笑った。
「お初にお目にかかりました。我が名は六伽と申します。あなたの影にひかれて参りました。以後、お見知りおきください」
六伽は自らを鬼と称した。さらに人の懊悩を吸う鬼であり、ことに淫事やそこから生じる欲情や愛憎を好むのだと言った。したがって六伽は彼が誰かと交わうところ、あるいはその事後に現れる。
彼には他人に自分の情事を披露する趣味はない。せめて最中には顔を出すなと彼は言った。彼には金で買った相手にままごとのような睦言を呟く癖があったが、それは自ずと失せてしまった。
六伽はそれを惜しんだようだがったが、代わりに彼に別の遊びを教えた。時折彼が屋敷で楽器を弾いていると現れ、彼にいくつか唄を教えてくれた。彼は豊松の教えで琵琶を弾くことならできたが、六伽に教えられて三味線や琴も弾けるようになった。
さらに彼のもとに現れた小鬼は、六伽だけではなかった。彼が賭け事をしていると現れる
そして六伽のときと同様、この二匹からも彼はいくつかのことを学び取った。賭け事狂いの鋲鉢からは、いかさまやそれを見抜く方法をいくつか教わったし、狂っているが優れた剣豪である吾刑は、彼にいくつもの秘技を授けた。連中が気前よく彼にそれらのことを伝えてくれるのは、彼がそれによってより業を重ねれば、それだけ連中の腹が膨れるからである。
また
言葉には呪力があり音には魔力があるということを、彼はこの鬼の業を通して知った。
ところで鬼たちに共通して言えるのは、連中は親しげに振舞っていても、どいつもこいつも彼の破滅を願っているという点だった。
連中にとって他人は恨みか嫉妬か収奪か破壊の対象である。優しく何かを教えてくれる時ですら、それは連中自身の快楽のためでなければ、彼や他の誰かを腐らせようとして行われていた。連中は明確な悪意を持ってそれを行うこともあれば、我知らず息をするように、他人を呪い嫌っていることもあった。
要は、一見友人のように見えたとしても、鬼とは関わらぬほうが良いのである。
しかし彼は、鬼たちから逃げようとしなかった。まだ幼く無知であったためか、あるいはただ孤独であったためだろうか。
*
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