第68話 古書にたずねる




 彼は瘋癲ふうてんのように街へ出てはいたが、一方で当主であることを捨てきっていたわけではなかった。

 仕事は守十が殆ど全てを担っていたが、一つだけ、彼が守十に申し出たことがあった。遠夜えんやとの外交である。

 先々代の頃から籠原は三蕊に昵懇じっこんする一方で、遠夜との関係はほぼ断絶状態にあった。三蕊と遠夜の関係が悪いためである。守十も三蕊範親のりちかのご機嫌を取るので手一杯で、遠夜までは手が回らない。

 だが三蕊は籠原にとっては大きくとも、梔邑しむら上埜うえののような大領主の前では小粒のどんぐりの一つでしかなく、戦の世ではいつ潰えてもおかしくない。

 しかし籠原の家には、旧主である有秦ありはた系の豪族以外には仕えるべきでないという観念めいた意志がある。守十にもそれは同様のようだった。

 ならば内輪揉めなどしている場合ではないのではないか。籠原が仲介役となり、三蕊と遠夜の手を繋がせるのである。遠夜の新しい領主である充國は若く、齢は守十より彼に近い。

 彼のその提案は、守十に受け入れられた。

 こうして彼は、彼につきまとう影を引きずりながら遠夜へ通い始めた。

 彼はその先で、充國みつくにに出会った。







 遠夜えんや充國みつくには変わり者だった。

 充國は、彼とは異なり名実ともに当主でありながら、領主であることを完全に放棄していた。

 つまり充國は、表向きには必要な仕事を日々行っているが、遠夜や有秦やその領土を維持していこうという意志を、持っていなかった。

 その証左に、外交用で訪れた彼の話に充國は微塵も興味を示さず、彼に鬼の話をした。

 遠夜には、有秦の分裂前からの古書や禁書が多く保管されているという。

 その文書の中に、籠原がもとは有秦に仕える呪術師集団であったと記したものがあるらしい。そして充國は、籠原の当主である彼が鬼を見る力を持っているのではないかと言い当てたのである。

 古書で読んだという籠原の来歴と力について、充國は語った。

 籠原氏は、遠古にはと呼ばれていた。有秦に仕える以前は山深い渓谷に住み、有秦の神官たちとはまた違った儀式や術を持っていたそうである。

 青銅の採掘のために有秦が山に入ってゆくうちに、巍氏は有秦氏に臣属するようになる。いくらか時代が下って有秦をある危機が襲ったときに、巍氏は何らかの術をもって危難を退けるが、その際に二つの力を用いたという。

 それは対となる二つの力で、一つは『殺すもの』、もう一つは『代わるもの』と記されている。『代わるもの』が魔物を呼ぶ一方で、『殺すもの』はそれらを散らす。『殺すもの』は怒りと牙を武器にするのに対し、『代わるもの』は嘆きとうたを道具にする。

「君は歌を歌う。君はもしや『代わるもの』ではないのか」

 充國は彼を見て、そう言った。

 そしてそれは恐らく正解だった。彼は物心ついたときから魔物を見、影を引き寄せてきた。話の辻褄は合う。

 とはいえ、彼はそれを否定し偽ることもできたはずである。今まで彼は誰にも秘密を明かしてこなかった。だが、どうしてだかここへ来て初めて、彼は秘密を明かす気になった。彼は充國に、彼が見るものについて明かした。

 その上で彼は、彼の力が有用なものではなく悩みの種であることも、充國に話した。鬼など見えても碌なことはないと、半ば嘆きのような内心を、どこかで吐露したかったのかもしれない。

 しかしながら充國は鬼の力を欲しており、彼の訴えに耳を貸さなかった。一方で、彼をその悩みから解放する手伝いをしたいとも申し出た。

 その申し出は彼、つまり充國の興味の対象を、遠夜へ引き付けておくための手段にも思えたが、彼はその誘いに乗ることにした。


 人に語って改めて気付いたことだったが、彼は自覚していた以上に、それらのものに思い悩んでいた。彼にとってそれは、力ではなく呪いだった。

 彼は幼い頃から影や魔物を見たが、自分がそれらのものを引き寄せているのだということをいずれ知ることになった。

 彼の影は、人の形をしていない。時に奇怪な化物になり、他の影を食らう。

 影が活発に動くのは大概夜であり、そういう夜は眠れないことが多かった。天井や壁の隅で蠢くものを見つめながらじっと転がっていることが、彼には恐ろしく苦痛で、それは彼が夜に出歩く理由の一つでもあった。

 尾上橋おがみばしの裏路地で大勢のごろつきに襲われた夜以来、様々な鬼が彼を訪ねるようになっていた。そしてそれらのものと一緒に、恐ろしいものが戻ってきた。

 彼がかつて白衣しろぎぬと名付けた魔物が、彼を訪れるようになったのである。

 以前は山の、小さな石碑でしか見ることのなかったものが、どこにあろうと彼のもとへ現れるようになった。

 悪いものを引き寄せる彼の力が強くなっているのだろうと彼は思った。しかし彼には、どうすべきかわからない。

 白衣は、彼が少年だった頃よりも随分悪くなっており、強い憎悪と怨念を発するようになっていた。

 そして彼は、白衣とともに皓夜叉も見た。彼が子供の頃には子供の姿をしていた皓夜叉という名の影は、彼と同じくらいの青年の姿になっていた。彼は時折その皓夜叉を夢にも見た。夢の中で、彼は皓夜叉になるのである。

 皓夜叉はいつも折れた剣を握っており、それで何かを斬りたいと望んでいる。そこにあるのは強い嘆きと混乱だった。白衣も皓夜叉もとにかく何かを呪っている。

 彼はこの亡霊たちについても、充國に話した。充國は領主としても人としても逸脱していたが、彼の苦しみには耳を傾けた。

 上手く眠れないことが辛いと彼がこぼすと、充國は遠夜の薬師たちを彼に紹介してくれた。







 遠夜へ通い始めて、彼が夜の街へ行くことは随分と減った。

 理由はいくつかある。

 まずはやはり、他に時を費やすことができたためだろう。二つ目には、いい加減に街で顔を覚えられ始めていたということがあった。そして三つ目には、婚姻の話が進んでいたためである。

 父の朝十あさとみが死ぬ前から、彼と宋十郎の妻には三蕊みしべ範親のりちかの娘を貰いたいと、籠原の者たちは決めていたようだった。それが守十もりとみの調整を経て三女の波留はると四女の伊奈いなに決まり、婚約の儀式を行ったのがこの時期のことだった。

 近いうちに波留は彼の正妻となる。

 彼が碌な花婿ではない、すなわち夜遊び癖があることは籠原の者はほとんど知っているが、改めて花嫁となる娘の顔を見たら、波留という人の不運に目が留まった。そんな単純な理由である。

 彼は他家の儀式について詳しいわけではないが、籠原のそれが他所とは違うらしいという話は豊松に聞いて知っていた。

 代々、有秦系の豪族の娘を正妻として迎える籠原の男子は、妻に求める娘のもとを訪ね、舞を披露するのが習わしとなっていた。当の花嫁候補と両家の人々がその舞を見届けたのち、正式に婚約が取り交わされる。

 彼は宋十郎と共にこの儀式を行い、そこには波留と伊奈がいた。

 儀式の間、興味津々に目を見開いていた伊奈に対し、姉の波留の方は明らかに不安そうな面持ちで彼を見つめていた。

 波留はいかにも深窓の姫君といった趣の娘だった。もし彼の正体を知ることになれば、不快に思う程度では済まないのではないか。

 守十は以前から彼の悪癖を窘めていたが、彼がそれに従う気になったのは、波留を直に目にしたからである。

 しかし波留を気遣う一方で、彼はそんな自分の滑稽さを嗤った。

 彼は放蕩癖があり、いかれた魔物憑きで、それ以前に雪紀や守十が嫌った貧相な売女の子である。波留を憐れむくらいならいっそ消えてなくなればいい。彼が消えれば宋十郎が当主となり、守十は喜び、家人たちも心の平安を得、気の毒な波留はいくらかましな男に嫁ぎ、彼は波留を失望させる将来から逃れることができる。

 しかし彼は過去、消え失せることを恐れるがために、皓夜叉に明け渡せばよかった器を守り通した。彼の心身は時を経るごとに腐ってゆくが、その腐臭に吐き気を覚えながら、彼は往生際悪く生き延びている。

 消えることを考えたのは一度ではなかったが、その度に二つの恐怖が彼を迷わせた。

 一つには、もし消え去ったつもりでも、亡霊となるのか転生てんしょうするのかわからないが、彼の影が何らかの形で残るかもしれないという恐怖である。それでは何のために消えることを選んだのかわからない。

 しかし同時に、完全に消え失せることを思った時に感じる虚無もまた、彼に奇妙な恐怖を与えた。これは全ての生けるものに刻み込まれた性質のようなものだろうか。

 つまり、彼は消え残ることを忌み嫌うのに、消え去ることにも恐怖を感じるのである。笑うしかない、どうしようもない矛盾である。

 婚約の儀式が済んですぐに、彼は守十に手紙を書いた。当主の座を宋十郎に譲りたいというものである。彼は消え失せることができないが、籠原から去ることならできるはずだと考えたのである。

 感性も話法も違いすぎている叔父とは、重要事項を対面で話して碌な成果を得た記憶がなかったので、証拠を残す意図もあり、彼は声でなく文字にした文章を叔父に渡した。

 しかし守十は、彼の手紙を無視した。

 守十には哀れな娘の運命など、大した問題ではないのだろう。義人ぶった彼の叔父は、死んだ先代の遺言を守ることに秩序と美意識を見出しているに違いない。

 彼は失望した。

 こうなれば勝手に家を抜け出し、浪人か乞食となって天地あめつちの間を彷徨うか。籠原から去らぬのなら、今度こそこの世から消えるか。

 虚ろな思考に沈む間に、季節は移ろってゆく。

 花嫁がやってくる。




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