写鏡
第66話 ひとり童は山へゆき
一番古い記憶は、赤い着物を引きずりながら歩く父の姿だった。
父が抱いている着物は誰かの代わりなのだということが、彼にはわかった。
涙を流す父の顔を見上げると、その向こうの天井でくすくすと揺れる影が不気味だった。
*
彼には
すでに彼は、家の中の誰も彼のことを好いていないことに気付いていたが、この弟だけがそうではなかった。
随分早く言葉を覚えた彼に対して、弟はそうではなく、無言で彼のあとをついて回って、置いていかれると時々泣いた。
追いかけてもらえることが幼い彼には嬉しく、しかし同時に、泣いていれば必ず侍女か母親がやってきて宥めてくれる弟のことが既に恨めしくもあった。彼が泣いていても、誰かが宥めに来てくれるとは限らなかったからである。
人々は弟のことは「
*
この世には見てはいけないものがあることを、いつからか知っていた。
大概それは、見た時に何か重く気持ち悪いものが、胸か腹の辺りに溜まるのである。
小さな泥棒、陰口、不貞、嘘。彼は、狭い屋敷の中でそういったものを度々見掛けた。
どういうわけか、いつの間にかそういうものは見て見ぬふりをしなければならないと身に刷り込まれていた。
見てはいけないものは、口にしてはいけないものである。
そしてその意味では、影もまた同じだった。
ごく稀にこの家の中で怖れとともに呟かれる「呪い」という言葉からは、できるかぎり遠ざかっておかねばならない。
彼は彼が見聞きする影や魔物について、誰かに明かすことはなかった。
*
彼に
彼にとっては継母に当たる
豊松は漢学に明るいばかりでなく、古今東西の色々な物語を知っていた。
文字を読むのも書くのも大嫌いでほとんどしてこなかった彼は、豊松に習うようになってから一転して読書好きになった。
*
ある秋、雪紀が豊松を追放しかけるということが起きた。
理由は、彼に楽器の弾き方や唄を教えたことだという。
籠原は武家であり彼はその家の子であるのに、豊松は黴臭く実用性に乏しい学問を詰め込むばかりで、珍しく別のことを教えたと思ったら、貴族や女子の真似事をさせている。
それが雪紀の言い分だったが、本当に雪紀を怒らせたのは、雇われ者の豊松が雪紀の許可なく彼に着物や履物を与えたことだった。
雪紀は随分前から、彼の羽織や草履を使用人に用意させなかった。しかもそれを知らぬわけではなさそうな家長、つまり彼の父でもある朝十も、雪紀の行いに対しては口出しをしない。
豊松は自ら草履と羽織を買い求め、彼に与えた。誰もそれに言及しなかったが、雪紀が怒ったのはそのことに対してだった。
やっと朝十が口を利き、冬になると新しい傅役を探すのも大変であるからというよくわからない口上で、豊松を罷免することを雪紀に思い止まらせた。
*
帰りたくない、帰らないよ、そこはいつでも寂しい場所だから。
わたしはひとり、ひとりぼっち、わたしの声はだれにも届かない。
幼い声が節を付けて歌う。
秋の山の
鬼が出るから危ないよ。
村の子供がそう言っていた。
鬼ってなあに。
訊くと、その子も知らなかった。
小さな裸足の足が落ち葉を踏む。
彼は山を歩いていた。
何度も歩いて道は心得ている。
歌を口ずさみながら、彼は木の根をまたぎ土道を上った。
薄闇に沈みつつある山の中腹に、彼のお気に入りの場所がある。
平坦になったその場所には小さな石碑があり、そこには彼のともだちが棲んでいる。
この春に出会ったともだちは、小さな蜘蛛だった。
彼が石碑の隣に座り、ぼんやりとその表面に刻まれた紋様を見つめていた時、その蜘蛛は石碑を這い上ってきた。
その蜘蛛は彼がそこへ行くとよく現れ、彼は蜘蛛を
八兵衛は次第に彼に慣れ、彼が指を伸ばすとその指先に乗るほどになった。
しかし冬が近づいてきて、八兵衛は現れなくなってしまった。
代わりに彼の前に現れたのは、白い衣の魔物だった。
ある冬の夕暮れ、彼が石碑のそばの倒木に座り寒さに身震いしていると、突然そいつは現れた。
彼が声をあげたり逃げ出したりする前に、そいつは言った。
『ぬしさま、ぬしさま、
物心ついた時にはもう、彼は影や魔物を見ていた。
影は人や動物や草木や石やあらゆるものについており、魔物は、山の中にいることもあれば屋敷の梁の上や
彼はそういうものを見慣れているはずだったが、この時ほど恐ろしいと思ったことはなかった。逃げだしたいとも思ったが、こういうものから逃げだすことが無意味だと知っている彼は、ただ黙った。
すると白い衣の袖が伸び、差し出された手の平の上に、小さな蜘蛛が載っていた。
「八兵衛」
彼は思わず呟いたが、蜘蛛は固まったように動く様子がない。
『八兵衛は、冬の間は凍りおる』
魔物はそう言うと、ふと拳を握り、蜘蛛を袖の中へ隠してしまった。
『ぬしさま、この
気が付くと、白い魔物は黒く巨大な蜘蛛の姿になっていた。
魔物が恐ろしいことに変わりなかったが、彼にとっては蜘蛛の姿のほうが幾分かましに思えた。
それに魔物は、八兵衛とはともだちのようである。
巨大な蜘蛛の姿をした魔物は、もう一度言った。
『籠原の
赤の子とは何だろう、彼はそう思い、彼を産むとすぐに死んだという母が
彼が会ったことのない母を、この魔物は知っているのだろうか。
「十馬」
彼が答えると、魔物は八本の足の一本を動かして、足元にあった何かを指し示した。
大蜘蛛の足元に彼が目を遣ると、そこにあったのは一揃えの
『ぬしさま、ぬしさま、十馬さま。裸足の足では痛かろう』
彼はしばらくその草履を見つめた。
手を伸ばして、草履を引き寄せる。
足を通してみると、彼にぴったりと合った。
「……ありがとう」
そう言った彼に向かって、顔のないはずの魔物が満面の笑みを浮かべたように思った。
*
やがて、彼は山に棲むあの魔物を、
あの魔物は蜘蛛の八兵衛だけでなく、森にある多くのものたちと親しかった。
白衣が人の言葉を話すのは、彼と話す時だけである。
その白衣がある時、人間の子供の姿をしたものを、彼のもとへ連れてきた。
子供は、彼の弟の宋十郎より白い肌をしており、獣のような黄色い瞳をしていた。そして、一言も話さなかった。
その子供が何者か、彼は気にしなかった。それがどこから来た何者であろうと、ともだちになってくれるなら構わなかったからである。
彼らは山の中で鬼ごっこをしたり、剣術ごっこをして遊んだ。
子供は
しかしある時から彼は、皓夜叉と呼ばれるその子が虚ろな人形であり、彼の影と繋がっていることに気付いた。
皓夜叉は彼と一緒に遊んでくれるし剣の振り方も知っているが、喋ることもなければ笑うことも泣くこともない。皓夜叉には思念がないのである。それは魂を持たぬ人形のようであり、皓夜叉にあるのはいくらかの記憶の欠片と、想念の残り屑だけのように見えた。この虚ろな人形を動かし育てているのは、繋がっている彼の思念であり感情である。
この虚ろな亡霊が彼の影に生じた芽なのか、あとから繋げられたものなのかは彼にはわからなかったが、不思議と彼には、これが白衣の仕業であることがわかった。白衣は彼を
白衣の目的も皓夜叉の正体も、彼にはわからない。ただ白衣は皓夜叉という残骸に執着しており、それを蘇らせるために、彼に近づいたのである。
彼が自身を放棄し皓夜叉に全て明け渡してしまえば、惨めな彼の魂は
そして子供だった彼は、迷った末、白衣のもとから逃げ出した。
一人ぼっちになってしまうことは寂しかったが、それ以上に消え失せることへの奇妙で底のない恐怖が、彼を突き動かした。
それに、皓夜叉が彼の一部であったなら、彼は最初から一人だったのである。生きてゆくことは独りであることであり、生き延びようとする限り、彼は独りでそれを生き抜かねばならない。
幸い彼には、現世で生き延びるための処方が示されており、豊松がそれを助けてくれるだろう。
山へ行かなくなった彼は、余った時間をひたすら読書や鍛錬に費やすことにした。
*
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