第65話 鏡の裏を覗く者
庭の奥も、やはり小さな農園のようになっており、土いじりをしている者や、崩れかけた軒先で
老女は二人を奥の本堂に連れてゆき、彼らは堂の
「あんたの名前を聞いてもいいかい」
老女に訊ねられ、孔蔵と昂輝はそれぞれ答えた。
「孔蔵です」
「私は昂輝というが……まあ、私のことは気にせんでくれ」
老女は昂輝の名に聞き覚えがあったらしく眉を上げたが、構わず続けることにしたようだった。
「あたしゃ
孔蔵は思わず、顔を輝かせた。
「やっぱり袈沙和上は、ここにいるんですか」
富紀は頷く。
「じゃあ、早速会わせてもらえませんか」
孔蔵が身を乗り出すと、富紀は難しい顔をした。
「その前に、あたしに話を聞かせておくれ。
どうやら、誰も彼もが袈沙和上に会えるわけではないらしい。孔蔵はむむと前のめりになりつつ、すぐに答えた。
「俺は、茂十どのに直接会ったことはねえんですけど、茂十どのは昔京に流されて、その先で袈沙和上に助けてもらったって聞いてます。数年前に故郷の有秦に戻って来て、先の夏に病で亡くなったそうです。で、その茂十どのは死ぬ前に、鬼に憑かれてる甥の
話を聞くうちに、富紀の表情に悲しみが差し込んだ。
「茂十は、死んだのかい」
孔蔵は頷いた。
「亡くなる直前に、怪我をした燕を手当てして可愛がってたそうですけど、何とその燕がね、茂十どのに恩を返そうとして、今十馬どのに憑いてるんですよ。そいつも一緒に旅をしてたんですが、
ただ影貫は妖魔を操るらしいんで、十馬どのの鬼を落とせりゃ、篭どのも影貫から逃れられるだろうと踏んでるんですけど」
日焼けした富紀の目尻に、涙のようなものが光った。
「茂十は、気の毒な奴だったね……」
溜息を吐くように富紀は言った。孔蔵は訊ねる。
「お知り合いだったんですか」
「あたしには、弟みたいなもんだったよ」
「そりゃあ……、茂十どのと富紀どのは、ここで袈沙和上に育てられたとか、そういうわけですか」
すると富紀は目を細めて笑い、首を振った。
「和上には、餓鬼のお守りなんかできやしないよ。あたしが餓鬼の時に茂十がここに来てね、ちびの茂十の面倒を見てやったんだよ」
孔蔵は首を捻った。
「和上にゃ餓鬼のお守りができねえと。なら、茂十どのはどうしてここへ預けられたんです?」
「茂十はね、ここに置き去りにされたんだよ。魔物憑きの子供をどこか遠くへやってこいって言われた東国の武士がね、和上のことを知ってか知らずか、ここの門前へ置いていったんだ。
あたしとお
ますます孔蔵は首を捻った。茂十が
「あのう、富紀どの。和上はどんな方なんですか。一人じゃ何もできないって、どういうことですか。いや、この際和上がどんな方でも構わねえんですけど、とにかく、十馬どのの鬼を落としてほしいんです」
富紀はふむと鼻を鳴らすと、孔蔵と昂輝を眺め、言った。
「よし。どうやら茂十の話も本当のようだし、和上に会わせるよ」
そうして富紀が立ち上がり、つられて孔蔵も立ったところで、布のかけられた堂の奥から声がした。
「お客さんですか」
掠れた少年のような声だった。
布の向こうで動く人影が見えた。
孔蔵と昂輝は富紀に招かれ、堂の中に入った。
その奥で、膝の上に草花の入った籠を抱え、襤褸を着た子供のような老人が座っていた。
いや、老人のような子供かもしれない。
その人物は、髪こそ白に近い銀髪で、また同じ色の薄い髭をひょろひょろと伸ばしてはいるが、十歳の子供くらいの体躯しかなく、皺のない顔は瑞々しい子供そのものだった。
銀色の髪は大陸の古仙のような髷に結われ、その髷に、籠の中身と同じ草花が取り取りに挿してある。
その奇妙な人物を前にして、孔蔵はすぐに言葉を発することができなかった。
その間に、富紀が喋った。
「和上、お戻りでしたか。頭のやつは何です」
「谷へ行ったら、子供たちが挿してくれました」
和上はにこにこと笑い、次いでその顔を、孔蔵と昂輝へ向けた。
「お出迎えできずに、申し訳ありません」
続いて、富紀が付け足す。
「和上は、足が悪いんだよ」
まだ言葉が見つからず、孔蔵と昂輝は「いえ……」とだけ呟いた。
気にした様子はなく、和上は言った。
「誰かが鬼に憑かれていると、仰いましたか」
慌てて、孔蔵は頷いた。横から富紀が問うた。
「和上、茂十はわかりますか」
奇妙な質問だと、孔蔵は思った。茂十は何十年もここで世話になったのではなかったか。
すると和上は、小さな頭を傾げた。
「……いいえ。どんな方でしょうか」
孔蔵は眉を寄せた。富紀が答えている。
「茂十は、あたしが十の時にここに来てからずっとここにいて、十五年ほど前に本物の寺へ移りましたけど、その後もよくここへ通ってました。魔物を見るし引き寄せるっていうんで、和上が色々と世話を焼いてやってましたよ。一昨年に、故郷に戻るっていうんで和上が手紙を書いて、数珠を持たせてやったんです。ですが、故郷に戻って一年ほどで、病で死んじまったそうですけれど」
そう語り、富紀は親指の先で目尻を拭った。
和上は微笑を消すと、小さく呟いた。
「数珠……
富紀は続ける。
「で、この若い坊さんはその茂十の子のお仲間だそうです。和上は憶えちゃいないでしょうが、茂十には故郷で生まれた十馬って名の息子がいたんですよ。ただ、その子も茂十と同じように魔物を見るってことで、今は鬼に憑かれちまってるんです。確か和上が茂十に書いてやった手紙も、十馬の処方についてだったと思いますよ」
ずっと黙って聞いていた孔蔵は、とうとう我慢できなくなり口を挟んだ。
「あの。すんません。ちょっといいですか」
富紀と和上、また彼の隣の昂輝が、孔蔵を振り返った。孔蔵は続ける。
「十馬どのが茂十どのの息子ってどういうことですか。俺が聞いてるのは、十馬どのは茂十どのの甥って話ですよ。それに、どうして
その問いに、和上は目を瞬かせ、しかし富紀が答えた。
「十馬は茂十の子だよ。茂十は一昨年に帰郷する前も、何度か有秦を訪ねてたんだよ。一度戻った時にどうやら子供をこさえたようだけど、二度目に戻った時にはその子が生まれて弟の
茂十も色々と見える奴だったから、十馬が弟のでなく自分の子だとわかったんだろうし、鬼を呼ぶことにも気付いたんだろうね。悪いことが起きるだろうと予感したから、茂十は息子を救う方法を和上に訊ねたんだよ」
富紀はあっさりと語り、和上はどこかぽかんとしてすらいるが、孔蔵は衝撃を受けていた。
つまり、十馬は朝十の側室が産んだ不義の子で、宋十郎は籠原家前当主の唯一の子という話になる。この話を宋十郎が聞いたら、どう反応するだろうか。
「わ、かりました。それはそうとして、ちょいと気になってるんですが、和上はどうしてそれを憶えてらっしゃらないんですか。ついでに言うと、無礼を承知で申し上げるんですが、仏僧であるようにも見えねえなと思ってまして……」
すると、呆けたように見えていた和上が、すまなさそうに眉を下げた。
語ったのは、またも富紀のほうだった。
「和上は、どんなこともしばらくすると忘れちまうんだよ。憶えてるのは、ほとんど昨日のことくらいでね、だから毎日顔を合わせていない奴のことは顔も名前も忘れちまうし、時々昨日のことも忘れちまったりする。
もうずっと昔に、自分の名前も忘れたきりなんだよ。ただ、薬を作る方法は憶えてるし、文字の読み書きは達者だし、変わった力を持ってるから、随分前からあたしのお母とかこの辺の者が、和上って呼び始めたんだよ。ここはお寺の跡地だしね」
孔蔵は空気を呑むように頷いた。ついでに和上はおいくつなんですかと訊きたかったが、きっとそれもわからないのだろう。
実を言うと孔蔵は、
しかし、孔蔵の思い込みも失望も和上の知ったことではないだろうし、そんなことを心配している場合でもない。彼は訊ねた。
「なるほど、それじゃ袈沙和上は、どんな力をお持ちなんですか。十馬どのの処方箋をお書きになったのは、和上だったんですよね?」
和上に訊ねても恐らく憶えていないのだろう。和上か富紀どちらに訊ねるのがよいかわからず、二人の顔を見比べると、富紀が答えた。
「和上は、まあ、言ってみりゃこの世ならぬものを見ることもあるけど、それに加えて、
耳慣れない単語に、孔蔵は繰り返した。
「鏡越え。って何ですか」
またも、富紀が答える。
「言ってみりゃ、この世とあの世の境界を越えたり、越えさせたりすることだよ」
孔蔵は目を丸くした。そこに、袈沙和上が付け足した。
「あの世といっても、
何やら大層な力であるようには思えるが、孔蔵にはさっぱり呑み込めない。説明されてもわかるようにも思えず、要点のみ訊ねることにした。
「ええと……それじゃ、篭どのと十馬どのからどうやって鬼を落とすのか、あの人らをどうやったら治せるのかは、わかりますか」
彼が訊ねると、和上は花籠を膝の上に抱えたまま、両目を閉じた。
沈黙が続き、子供のような額に、白い眉が寄せられる。
やがて、和上の目が開き、目尻からほろりと涙がこぼれ落ちた。
掠れた声が言う。
「……生きたいと願っていない人が生きることは、できませんよ」
*
宋十郎は目を開いた。
彼はまた、透明で暗い水の中にいた。
彼は着物を着て、髪を括った人間の姿をしている。
水を掻き、水底に足を着いた。歩いて、水辺から上がる。
どのくらい沈んでいたのだろうか。
彼を見つめる
どうやら一瞬の間だったのだろう。
ずぶ濡れの着物から髪から、水が流れ落ちる。
「何か見えた?」
「なんか出た?」
「おんじさまに会った?」
子供たちが口々に訊ねるが、彼は口を開かなかった。言葉を見つけられなかったからである。
風が吹き、水から上がった体が震えた。
百合が歩み寄ってくる。
「大丈夫ですか」
彼は答えた。
「大丈夫だ。私は、京の都へ行かなくては。……しかし、少し、寒い」
人の言葉が発され、その語尾と共に、白い息が吐き出された。
心臓は燃えているが、凍えた唇が震えた。
娘の瞳が、何か新しいものに気付いたように瞬いた。
「では一度、私の家に戻りましょう。このままでは、お風邪を召されます」
*
真っ逆さまに落ちたかと思ったが、彼は飛ぶことを憶えていた。
彼は十馬を探している。
なぜ探しているのだったか、ただ飛ぶことを思い出すのに必死になっている彼には、もうわからない。
ただ彼が憶えているのは、彼にはどうしても十馬が必要なのだということだった。
孤独な暗闇で明かりを求めるように、彼は十馬を探している。
消えた十馬は、きっとどこかへ攫われてしまったのだろう。誰がどこへ攫っていったのだか、彼は見つけなければならない。
空は青かったり、黄金だったり、赤かったり色々な色をしている。
様々な空の下を飛びながら、彼は十馬のことを考えた。心臓が腐ってゆく恐怖と痛みを考えた。
十馬がどこかにいるならばその空は暗いだろうと、ふとそんなことを思った。
暗い空へ行くのは恐ろしかったが、そこに十馬がいるならば行くしかない。
誰かが彼を呼ぶ声を聞いたような気がしたが、まだ彼は戻るわけにはいかない。
彼は暗闇に向かって飛んだ。
*
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