第64話 写し世の境
火のはぜる音で、
彼は、黒い板張りの床の上で体を起こした。
正確には、彼の体は
「おや、起きられたか」
声のした方に顔を向けると、老人が座っていた。
老人は部屋の戸口側に座っていた娘に声を掛けた。
「
若い娘が立ち上がった。すらりとした佇まいの、名の通り百合の花のような娘だった。
この二人が自分を助けてくれたのだろうか。
水で結構だ、そう言おうとして、宋十郎の喉の奥からはぐるると低く唸るような音が響いた。
彼は硬直した。
そうしている間に、娘は囲炉裏に掛けられていた鍋の湯を取り、茶を淹れ始めた。
小さな家は床があるだけ小屋よりましという程度である。ここの住人には、茶は高級品であるはずだ。
宋十郎は戸惑い、人の声を発さなかった喉、自分の首に触れた。そしてふと思い至り、着物の衿に手を差し込む。彼は今度こそ凍り付いた。数珠がない。
彼は
あの数珠があったからこそ、彼は
峠道を歩いている間に千切れたのだろう。
今の彼を見るからに、彼はそれでも人の姿に戻ることができたようである。しかしどうやら、人の言葉を話せない。
娘が近付いてきて茶碗を彼の前に置き、鉄瓶の茶を注ぐ。
そこから立つ湯気を見つめながら、老人が喋った。
「百合の父母は、峠の盗賊に殺されたのです。昨日、貴方さまが賊を退治してくださったのを見ました。ありがとうございます」
そう言って、老人は両手をすり合わせて彼に頭を下げた。宋十郎は口を開いたが、またもこぼれたのは唸り声で、慌てて口を閉じた。
人の言葉を話せないのは、困る。彼はまだ、
老人は続ける。
「貴方さまが、白い山犬から人の姿に変ずるのを見ました。貴方さまは、どこのお山のご
宋十郎は、これ以上ないほど戸惑った。何を聞かれているのかわからない。
彼はお喋りを好む
文字を書く道具はないかと問おうとして、それすら問えないということにも困惑した。
彼は身を乗り出すと囲炉裏へ寄ってゆき、指先で積もる灰の上に、人という字を書いた。
おやという顔をして老人と娘が彼の手元を見るが、二人とも首を傾げている。
人という字だけでは単純すぎて、文字と思われなかったのかもしれない。あるいはこんな山小屋に住む庶民なら、文字を読めないのかもしれない。
宋十郎は迷い、一度灰を平らにすると、京、と書いた。
老人は首を傾げている。
「京の神様でございますか」
すると、横から娘が言った。
「おじいさん、京から来られたのではなく、京へおいでになるということじゃないでしょうか」
宋十郎は勘の良い娘の顔を見、頷いた。
老人が言う。
「盗賊を退治して、次は京の街へ下りられるのですか。たしかに街には、浪人も浮浪者も山と犇めいておりましょうが」
少なくとも二人が京という字を読めたことに安堵を覚えつつ、宋十郎は試しに
すると、娘がはっと瞬きした。
「これはもしかして……せいおんじ、と読みますか」
静韻寺を知っているのか。
彼は語れぬ代わりに、見開いた瞳で娘の顔を見つめた。
*
御所の記録によると、そこは廃寺のはずである。
度々戦火に晒された都の周縁部には貧民街が広がっており、静韻寺はその一角にあった。
焼け落ちたままの廃屋が目立つ通りを抜け、二人は廃寺の門前に辿り着いた。
門の屋根は随分前に焼け崩れたらしく、
しかし無人ではないようで、門の中の庭であったと思しき場所は、小さな畑になっていた。奥に見える本堂は屋根が傾いているが、戸口には布が掛けられている。
畑で農作業をしているのは、随分大柄な、灰色の髪をした老女だった。
孔蔵と昂輝は顔を見合わせた。
行ってみるしかない。
まず、孔蔵が一歩を踏み出し、声を掛けた。
「ちょっとよろしいですか」
襤褸を着た老女は顔を上げず、返事もしなかった。孔蔵はもう少し大きい声で言った。
「こちらに
やはり、老女は顔を上げなかった。
「耳が聞こえないんですかね」
彼は言うと、畑へ向かって歩いていった。あとから昂輝がついてくる。
あと数歩というところまで老女に近付くと、突然老女が立ち上がった。
「会って、どうしようってのかい」
掠れた低音で、老女は言った。耳は聞こえていたらしい。
「話して、お知恵を借りたいんです。その、俺の友人が鬼に憑かれてまして。袈沙和上ならそれを落とす方法を知ってると人伝に聞いたんです。本当は紹介状代わりの手紙もあったんですが、ここまで旅する最中に失くしちまいまして」
「手紙? 誰宛てに、誰が書いたんだい」
「袈沙和上から、俺の友人の伯父に宛てた手紙でした。その伯父さんは、
そこまで言うと、老女の顔に驚きが見えた。
「茂十と言ったかい」
「はい、茂十どのの姓は籠原です」
老女は迷うように孔蔵と昂輝を見比べてから、やっと頷いた。
「いいよ。……こんな場所で立ち話はなんだから、奥で話そうかね」
*
宋十郎は、彼を助けた庶民の娘、百合とともに谷底の道を歩いていた。
静韻寺という文字を読んだ百合は、それがその先の集落にあると言い、宋十郎を案内してくれることになった。
細い土道を歩く。
彼の斜め前を進む娘は、彼を人と思っていないためか、それとも彼が口を利けないためか、お喋り一つせず黙々と歩いた。
ふとその横顔を見た時、深渓にいる彼の妻、
伊奈は今頃、どうしているだろうか。
彼は何としても兄の呪いを落とす気でいるが、一方で、もう深渓へは戻れないかもしれないと思う。彼は半ば、獣になってしまった。
しかしそうなったら、兄と伊奈に深渓を守ってもらえばよいのである。これが希望なのか絶望なのかわからないが、彼は頭の中にある静かな部分で、そう考えた。
そう、それは彼が伊奈と出会った日からずっと気付いていたことだったが、伊奈は最初から、彼ではなく十馬を見ていた。
彼は伊奈を見つめていたが、彼らの視線は交わることはなかったのである。
哀れな伊奈は、母の雪紀と同じく籠原の獣に捧げられた贄だった。
贄は獣を想わない。獣である彼は、死んだ父と同じように、人の想いを得ることはできないのだろう。父は契約の上に迎えた正妻に憎まれ、摘み取った側室には早逝された。
先日彼と語った
せめて、守ることくらいは許されないだろうか。
吐いた息は、谷底の冷えた空気へ溶けた。
百合が、ちらと彼を振り返った。
「あの村の奥です」
いつの間にか、細道の向こうに谷底の集落が見えていた。
谷間の村の夜明けは遅い。
まだあまり陽の当たらない集落は、しかし既に目覚めていた。家の前や田畑の中に、働く人影がある。
畑にいた農夫が顔を上げ、彼らを見て目を剥いた。
「百合さん、おはよう。あれ、じいさんはどこいった。このお方はどちらさまじゃ」
「このお方は……探し物をされてるのよ。奥の泉に案内したいのだけど」
へえと頷き、農夫は宋十郎を見つめつつ、言った。
「泉な。行きゃあいいと思うよ。ありゃあ誰のもんでも、村のもんでもねえし」
「ありがとう」
「じいさんによろしくな」
百合は短く会釈すると、早足に歩き始めた。宋十郎はその後を追う。
まだ背中に農夫の視線を感じた。この集落は京に近いはずだが、余所者が入ってくることは滅多にないのだろう。
彼らは細い道を歩き、やがて集落の外れへ来たところで、少し開けた河原のような場所に出た。
正面は崖で、その上からは滝となった清水が注ぎ、池のようになっている。美しい場所だった。
そしてその池の手前に、簡素だが木組みの門が建てられており、門には古びて色褪せた額が掛けられていた。
額には、『静韻寺』とある。
門の手前で立ち止まった百合が、彼を振り返った。
宋十郎は額を見上げた。
この、滝と泉の他には何もない場所が静韻寺だというのだろうか。
では、袈沙和上はどこだ。
滝の、水が水を打つ音が聞こえる。
百合の声がした。
「あの額は、この泉から出てきたそうです。泉から出てきたというよりは、仙人さまが、取り出したそうなのですが……あなたさまが探しておられるのは、あの仙人さまでしょうか」
仙人。それが、袈沙和上だろうか。
彼が視線を下ろして百合を振り返ったところで、集落の方から三人の子供が走ってきた。水桶を背負っている。この池は、村人の生活の水源でもあるのだろう。
「あっ、百合ねえさんだ」
「おはよう、百合さん」
「百合ねえさん、おはよう」
子供たちは挨拶すると、じろじろと宋十郎を眺めまわした。
「この人、誰?」
「都の人?」
「ねえさんのお婿さん?」
百合が首を振った。
「違うわ。このお方は、仙人さまに会いにきたのよ」
子供たちは頷き、口々に喋る。
「おんじさま、さっき裏の谷にきたよ」
「花をいっぱい取ってあげたんだよ。でもまた、帰っちゃった」
「あっ、ねえ、お池から呼んでみたら?」
そこで最後の子供が宋十郎の袖を掴み、泉の方へ引っ張った。
仙人さまとは何者だろうか。池から呼んでみるとはどういうことだろうか。
疑問しかないが、彼には訊ねるための言葉がない。
子供に引かれるままに歩いてゆく彼のあとを、心配そうな様子の百合がついてくる。
「お池に入って呼ぶとねえ、ときどき声が聞こえるよ」
宋十郎の袖を掴んでいる子供が言った。
彼は河原の石を踏み、水辺に立った。
揺らめく水面に、白い獣の姿が映っていた。
彼はびくりとして身を引く。
それに気付いてか気付かずにか、子供が言った。
「水の中に入って、探してる物のことを考えるんだよ。そうするとね、ときどき見つかるっておんじさまが言ってたよ」
おんじさまとは仙人のことだろうか。それが袈沙和上なのだろうか。聞けば聞くほど、わけがわからない。しかし今の彼には、わからないことをわからないと言う力もない。
言われるがままに宋十郎は、一歩を踏み出した。
爪先が波紋を起こし、水面にゆらめく獣の姿を掻き消す。そのまま彼は飛沫を立てながら、凍るような水の中へ進んでいった。
いくらか進むと、急に水が深くなる。
百合と子供たちが見つめている。
風が吹き、百合の髪の一筋が、その眉にかかったのが見えた。
彼は目を水に移し、一息に沈んだ。
水の中は、透明で、青黒かった。
漂う着物の裾を見たように思ったが、次にはそれらは白い毛皮の前足に変わっていた。
青黒い闇に視界が沈んでゆく。
落ちてゆく、彼はそう思った。
*
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