第61話 月夜を裂いて




 ろうは空を飛んでいる。

 どのくらいぶりだろうか。

 霧なのか雲なのか、漂う白いもやの隙間から、青い海を見下ろしている。

 とても懐かしい。

 降りたくないと思っているうちに、眼下にあった山々を過ぎて、彼は田畑や家を見た。


 気付くと彼は、見知らぬ人家じんかの軒先でうとうとしていた。

 屋敷の門の前で、二人の子供が走り回っている。


「まってください、あにうえ」

 少し小さな子供が叫びながら、少し大きな子供を追いかける。

 少し大きな子供は逃げ回っていたが、突然体の向きを変えると、突進してきた弟を受け止めた。

 勢い余って弟は兄を突き倒し、子供たちは地面に転がって笑った。


 なぜだかとても懐かしくて、篭は泣きたいと思った。

 ふと気付くと彼の隣に、ふくろうけいがいた。

 薊は言った。

「君は、少し変わってるね。でも大丈夫だよ。失敗なんてものも、手遅れなんてものもないって、鳥居守とりいのかみが言ってたよ」

 はっとして隣を見た。

 彼は寺の草庵の中庭におり、縁側には皺だらけの和尚が座っていた。

 奥の部屋には、包帯だらけの病人が寝ている。


「飛んで!」


 薊の声が言い、和尚も寺も、急速に遠ざかっていった。

 彼は飛び立ったのだった。







 目が覚めた。

 頭の中が静まり返っていた。

 彼はそれを奇妙に思った。

 なぜだろうと考え、このところずっとそばにあった十馬の気配がしないのだと気付いた。

 ふと差し込んだ肌寒さに、襤褸ぼろの前を掻き合わせた。

 視界を埋める暗闇と木々を見て、ここが夜の森だと知れた。

 篭は落ち葉が積もる土の上に横たわっていた。

 混乱する。

 眠りに落ちる前、日の高いうちに安宿で床の間を借り、布団の上で目を閉じたはずだ。

 体を起こして首を巡らせると、すぐ隣に、膝をついて彼を見下ろす影貫がいた。影貫の顔はいつもより白っぽく、忍は珍しく草臥れて見える。

 彼を見下ろしていたらしい影貫と目が合った。

「ここ……、」

 彼が言いかけると、影貫が被せた。

「今の、覚えてはる?」

 彼は首を振る。

 なぜか、影貫が目を細めて笑った。

「何があったか聞かはります?」

 訊ねられ、篭は頷いた。







 日が落ちて間もなく、隣で眠っている篭がうなされていることに、影貫は気付いた。

 荒い呼吸と、小さな呻き声が聞こえる。

 首を回して隣を見ると、篭は薄い布団を乱し床を蹴り、指先で胸や床板を掻きむしっていた。

 そのうちに隣室の客が目覚めて文句を言いに来るかもしれない。また、ひどい寝相だと言い捨てられる以上のものを感じ、影貫は身を起こした。

 魘される青年を起こそうと手を伸ばす。

 肩に手が触れると、篭の目が開いた。

「ああ、……いやだ……」

 開いた口がうわ言を漏らした。目は開いたが目覚めていない。

「いやだ、来るな、……しろやしゃなんて、知らない」

 呻く篭の肩を、影貫は揺さぶった。

「あんさん、……あんさん、起きはって」

 すると、宙を見ていた篭の瞳が焦点を結んだ。

 やっと起きたか、そう思って影貫は言った。

「お目覚めどすか」

 しかしそう言った瞬間、影貫は部屋の空気が重く歪んだように感じた。

 何かとても強いものが現れたのだと彼は悟った。しかし、姿は見えない。

 手を置いている篭の体が震え、開いている赤と黒の瞳が、闇に潜む獣のように光った。

 目をみはる影貫の前で、篭の髪が白く変わってゆく。

 空気の歪みが失せると同時に、目の前の体から殴り付けるような力が噴き出すのを感じた。

 咄嗟に、影貫は篭の体から跳び退いた。

 次の瞬間、ごうと竜巻が吹いたように感じ、部屋の天井が吹き飛んでいた。

 いつの間にか起き上がっている篭の右手に、折れた刀が握られている。しかし影貫には、その刀の先が見える。天をくような巨大な何かが、天井を引き裂いたのである。

 当然ながら、悲鳴が聞こえた。小さな旅籠に滞在していた他の客や宿の者が目覚めたのである。これはまずいと、影貫の意識は妙に冷静になった。

 すると、白い髪の篭は月夜に向かって跳んだ。

 青年の姿は裂けた天井の向こうへ消える。

 混乱する人々の声を聞きながら、影貫は刀と荷物を掴んで篭を追った。


 青年がどちらへ跳んだのかは見えなかったが、影貫は重い気配を追って走った。

 小さな集落を抜け、町外れの林へ入った。

 わずかな月光を頼りに闇の林を走り、やがて木々が薙ぎ倒されている場所へやってきた。木々を伐り倒したのは、あの折れた刀だろう。

 さらに奥に進むと、土の上に篭が転がっていた。

 先ほど宿で見た時のように、もがきながら呻き声をあげていた。

 髪は黒く戻っており、開いている瞳は赤色と黒色をしている。

 影貫は恐る恐る歩み寄ると、懲りもせずに篭の肩を掴んで揺り起こした。

「あんさん、篭さん、聞こえます?」

 赤と黒の瞳は彼の顔の上で焦点を結び、顔に薄笑いが浮かんだ。

「影貫さん」

 その口調と顔つきとで、影貫は目の前の青年が篭でないと悟った。

 篭でない者は、まだ波立っている呼吸の合間に喋る。

「誰かが、あいつを送ったみたいなんだよ。左目が見えない。あいつは送られたけど、そのせいであれが戻ってきた。あれは眠らないんだよ。俺が眠ると、あれが来るんだ」

 影貫は眉をひそめた。あいつとは何か、あれとは何だろうか。

「今も来よったんどすか」

 彼の問いに、篭でない者は頷いた。

「来た。あれが来ると、俺は消えてなくなるんだ。影貫さん、俺は眠っちゃいけないんだよ。もう一人の誰かさんに、代わりに起きててもらわなきゃ。影貫さん、俺たちを眠らせないで。あれに捕まる前に、しろやしゃが来る前に、俺が眠らないように、俺を行かせて、眠らせて」

 顔は笑っているのに、青年の体からにじんでいるのは恐らく恐怖だった。瞳は錯乱しており、言葉はうわ言のように聞こえた。

「眠らへんように眠らせるって、要は殺してって仰ってます?」

 しかし彼の問いに答える前に、青年の体が震えだした。また彼は、重い気配が現れて遠ざかるのを感じる。

 両目が焦点を失い、痩せた体が弛緩した。支えていた上半身が重くなる。

 影貫は青年の体を土の上に横たえた。

 すると、いくらも置かずにその体が身動ぎした。

 そして次に目覚めたのが篭だったというわけである。







「あれとかあいつとか白夜叉って、何のことかわかります?」

「白夜叉は、聞いたことあるよ。前出た魔物が、おれのことを白夜叉って呼んだって」

 訊ねられて、篭は答えた。目覚めたばかりだったが、不思議と思考は澄んでいた。そういう感覚自体、随分久し振りに思えた。

「ははあ。しかしそれじゃ、何もわからしまへんなあ。あ、左目は見えはる?」

 篭は瞬きした。闇の中だが、両目とも見えている。

「うん」

「あらま、どういうことやろか。ようわからんなあ」

 それを聞きながら、篭は何となく感じた。左目を失くしたのはこの体ではなく、この体に棲むはずの十馬なのではないか。この体の左目は赤い鬼の目だが、まだここにある。

 それを伝えようと口を開いたところ、影貫が言った。

「ところでさっきの誰かさん、あれが十馬さんやろか」

「……そうだと思う」

 久し振りに、十馬が彼とは別に出たということだろうか。しかしその十馬は、今どこかへ行ってしまっている。

 ふむと影貫は鼻を鳴らした。

「とりあえず、ここ離れよか。どなたか様子見に来はるかもしれへんし。あ、これ」

 影貫が何かを差し出したので、そちらを向くと、彼が寝る前に頭から外しておいた包帯だった。影貫は騒ぎの中で宿を抜け出してくる時も、これを忘れなかったのだろう。

「ありがとう」

 彼はそう言い、包帯を受け取った。

 その様子を見つつ、忍がふと笑った。

「そういうのな、ほんまにありがたい相手にだけ言うたほうがええで」







 包帯を巻き直し荷物を背負うと、彼らは歩きだした。

 人目に付く街道に出るのはもう少し先にしようと影貫が言ったので、彼らは夜の林の中を、細い月光を頼りに歩いている。

 人目というのは、先ほどの町の人々のことだろうか。それとも彼らの追手のことだろうか。

「また、充國みつくに、来るかな」

 彼が呟くと、影貫は答えた。

「どやろなあ。あちらさんもそろそろお疲れの頃やと思いたいわ」

「京ってまだ遠い?」

徒歩かちになってしもたし、こうして遠回りしとるさかい、今から夜明けも歩き通したら昼過ぎには着くやろうけど。まあそないに急かんでも、夜仕事も悪ないなあと思うてますけど」

 夜仕事とは、京に着いて標的をどう殺すかという話だろうか。

 篭は突然、喉に物が詰まったように感じた。

 やはり無理だと、唐突に思い出した。迷う。

 まだ、引き返せるだろうか。

「……ねえ」

 数歩前を歩く影貫の背に向かって、彼は言った。

「なに?」

「ねえ、やっぱりおれ……あんたの敵を、殺したくない……」

 振り返りもせず歩も緩めず、影貫が返す。

「ええ? いっぺんええよて言うたやないの」

 彼は頷いた。

「うん」

「せやから夏納かのうの牢屋から出したげたんやないの」

「……うん」

「ちゃんと終わったら何とか和上んとこ案内したるて言うとるんやけど」

「……うん」

「あんさん、ほんまに餓鬼の遣いやなあ。まあ、実のとこ餓鬼みたいなもんやろうけど」

 意味が分からず、篭は黙った。

 影貫は続ける。

「それにな、忘れてはるならもっぺん言うけど、俺あんさんの影縫えるんやで」

 そうだった。

 篭は、生唾を飲んだ。

 約束破りの嘘吐きにはなりたくない。しかし、人を殺すのはもっとずっと、絶対に嫌だと、彼は思い出した。十馬はどこへいったかわからないが、まだ、手遅れではないのではないか。

 まだ、間に合うだろうか。

 心臓が駆け始めた。彼の体は、まだ生きている。

 彼は、逃げ出した。


 影貫が、走りだした彼を振り返り、溜息を吐いたのがわかった。

 しかし篭は駆ける。

 嫌な予感がしてちらりと振り返ると、影貫の右手が上がったところだった。

 縫われる、そう思った篭は咄嗟にわざと転んだ。大きく身を捻って影縫いを避けていた雨巳あまみを思い出したのである。

 案の定、影貫の手の動きにもかかわらず彼は影縫いを逃れたようだった。

 しかし立ち上がっているうちに、影貫本人が追い付いてきた。忍の足の速さは尋常ではない。

 思い切り背を蹴られて吹っ飛び、前のめりに倒れたところで、胴にずんと重みを感じた。影貫が彼の背に腰掛けたのである。

 腹を圧迫された彼が咽せている間、影貫は喋った。

「ところであんさん、首無し鬼は使てるの見たけど、さっきやりよったみたいに天井叩き割ったり木ぃを薙ぎ倒したりは自分でしいひんの?」

 できない。そう答えてもよかったが、呼吸が詰まっていることもあって篭は答えなかった。

 気にしないのか、影貫は続ける。

「あれ、あんさんの髪が白うなったのと関係ありそうどすなあ。あれ、俺にはできひんかなあ」

 もちろん影貫が自分でするということではなく、篭を操ってさせるということだろう。

 影貫を退かして立ち上がろうとし、篭は手足をばたつかせた。踵で影貫の胴を蹴り、拳で影貫の足を殴った。

「あた、あたた。あんさん、ほんまに往生際悪いなあ。地獄行きが心配なら、今度ので地獄落ちるんは俺やろうから、あんさん心配いらへんのとちゃうの。まあ俺、影は縫うし魍魎もうりょうも生霊も見るけど、地獄いうんはまだ見たことあらへんのよ。あんさん、見たことある? この世も地獄みたいな気ぃするけど、地獄ってそないに恐ろしいとこなんやろか」

 そう喋る影貫が、今度こそ影を縫ったのがわかった。

 全身が引き攣り、次いで水の中に浸かるように、意識が朦朧としてくる。

 抗おうとしても、もがけばもがくほど泥の沼に浸かってゆく。

 篭は彼が見たものを思い出して、言った。

「地獄に落ちたら、眠れない」

 ふうんと影貫が応える。

 助けを求めてか、警告のつもりか、篭は呻いた。

「十馬、」

 自分のその声が、沈む直前の意識の底に残った。




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