第60話 怒れる鬼
現れた
相変わらず着物から手足から面かわからぬ頭から、鈍く滲む金色をしている。
纏っている気配は重い。
『愉快なこと言ってたじゃねえか。てめえ、あの餓鬼の連れだなあ? なんだ、俺さまに暇潰しの種でもくれようってのかあ?』
そう言った鬼の口調は愉快そうだった。しかし
『撫斬、年貢の納め時だ』
静かな声で、舎雉鬼が言った。
ぐるりと、凶鬼が振り返った。
『雉庵。てめえもやきが回ったな。冗談も度が過ぎると笑えねえ。いい加減惨めなてめえを眺めるのにも飽きが来てたぜ』
二つの遠雷が鳴っている。
じとりと、鬼神の面の瞳が、舎雉鬼の隣で硬直している枝野に向いた。
『てめえだな。つまんねえ
言葉と共に、凶鬼が手にしていた金棒を振り回した。
ぼんと、地面が吹き飛ぶ。舎雉鬼が枝野を抱え、大きく跳んでいた。
孔蔵はまともに土を被りながら、呪文を唱えた。
「
魔物を退ける呪文である。言葉は光の針となって巨大な鬼を刺し、鬼は一瞬動きを止める。
『おらぁ!』
しかし凶鬼は針をへし折るように、舎雉鬼と枝野を追って金棒を振り回した。
枝野を突き離した舎雉鬼が、どこから取り出したのか棍棒を構えて金棒を受けた。
『おら、おら、おら、おら!』
撫斬は無茶苦茶に金棒を振り下ろす。それを、半分ほどの大きさの舎雉鬼が片手で握った棍棒で受け止めている。
突き飛ばされて地面に転がった枝野がそのまま立ち上がりながら、背に負っていた矢を取って弓に
発された矢は瞬時に青白い光を帯び、しかし凶鬼は届く寸前の矢を金棒で叩き落した。
『しゃらくせええええ!』
撫斬は金棒を大きく振り回すと、その勢いで思い切り土を叩いた。
ぼおんと、音を立てて辺り一帯の足元が弾けた。
孔蔵も振動に突き上げられて、身長ほども高く宙に浮き上がった。
驚愕したが
地面に足が着くと同時に印を結んで呪文を唱えた。
「
またしても凶鬼が動きを止める。同時にじゅうという音が滴り、鬼の面の左端が焦げたように歪んだ。
『うううん?!!!』
憤怒の声が唸ると共に、面が孔蔵の方を向いた。
『糞蠅があああああっ』
声がすると同時に、金棒が一閃した。少なくとも孔蔵にはそう見えた。避けるとか避けないの話ではない。
刹那が何十倍にも引き延ばされたかのように感じた。
全身が硬直し、頭から爪先まで悪寒が走った。死の恐怖のためだろうか、それともあまりに大きな怒りを向けられたからか。
気付けば、舎雉鬼が彼と金棒の間に入っていた。
孔蔵は吹き飛ばされる舎雉鬼の背に押されて吹っ飛んだが、粉々に砕かれずに済んだ。
「雉庵!!!!」
叫びながらも、枝野が矢を放った。
『ふううん!!!』
凶鬼は着物の袖を翻して振りかぶったが、青白い光の鏃は鬼の腕に突き立った。
ぐうおおと呻きながら、凶鬼が体を折る。鬼は小さな矢を腕から引き抜くと、怒りの咆哮をあげながら枝野へ棍棒を振り下ろした。
『
地面に倒れたまま、孔蔵は咄嗟に呪文を唱えていた。再び針が凶鬼を捕らえる。鬼は怒り狂ったように針を千切ると、両手で金棒を握り、それを真っ二つにへし折った。
『ぬうおおおおおおっ』
へし折られた金棒が、気付くと先まで揃った二本の金棒に変わっている。
孔蔵が次の呪文を唱える前に、凶鬼は二本の金棒で地面を突いた。
またも地面が割れる。山の形が変わっているのは間違いない。
孔蔵は崩れる地面に足元を掬われ、結んでいた印を崩した。
「雉庵!!」
叫びながら矢を放つ枝野は上手く足場を取っている。崩れ折れた木の幹に腹を乗せてぐったりとしている舎雉鬼は動かない。また一矢が、凶鬼の肩に突き立った。
『糞があああああっ』
咆哮した凶鬼が、二本の金棒を振り回した。
ごうと、風が起こった。
金棒の間合いの遥か外側にある木々までもが、見えぬ刃物に刈り取られたかのように一息に刈り倒された。
枝野が死んだ、孔蔵はそう思ったが、娘は奇跡的に崩れた地面の上で足を滑らせ地面にへたり込んでいた。おかげで凶鬼の撫で斬りを受けずに済んだのである。しかし今金棒が枝野を追えば、娘は間違いなく血の霧になる。
今更になって、やっと体の奥が震えてきた。もとの感情は恐怖のはずだが、それは闘争心のようにも感じられた。孔蔵は震えに従って脇に手挟んでいた槍を掴んだ。やはり呪文では凶鬼に抗えない。闘争心が彼に闘い方を命じる。体格も
「撫斬、おら、こっち見ろやぁ!!」
肚の底で震えるものに突き動かされて、孔蔵は叫んだ。
どんとその尻で大地を打った槍が、ぼうと黄色い明かりを灯した。
凶鬼が金棒を振るより先に、孔蔵は崩れた土の上を走った。
怒りの形相で鬼神の面が振り返り、二本の金棒を振り下ろす。
大きさも重さも桁違いのそれを受けるのも避けるのもどう見ても不可能である。しかし孔蔵は考えるより先に、構えた
ばりばりばりと、落雷が木を裂くような音が響き、雷光が走った。
視界が眩む。
瞬きのあとの眼前には、先を失って半分ほどになった蛾叉があった。
そして目の前の凶鬼の、金棒どころか両腕の肘から先が失われていた。
『う、ご、ぐがあああああああああっ』
天地を揺るがすような怒声が響いた。
「撫斬!!!!」
高らかに枝野の声が響いた。
面の奥の目を血走らせて、鬼が娘を振り返った。
枝野が矢を放つ。
ぱきんと、何かが割れる気配が空気を揺らした。
次の瞬間、撫斬の面が縦真っ二つに割れた。
鬼の体が傾き、三歩歩いて、仰向けに倒れた。
大きく土煙が上がる。
孔蔵は半分になった槍を握ったまま、その様子を見つめていた。
いつの間にか両腕も膝も震えており、肩で大きく息をしていた。
震えを抑えながら足を進め、倒れている鬼に歩み寄った。
近付いて見た凶鬼は、いつの間にか随分縮み、孔蔵より少し大きい程度になっていた。
着物と皮膚は滲むような金ではなく、錆びた石色になっていた。
面の下の顔は恐ろしく歪んだ何かに見えた。目鼻や口を備えているのに、なぜか顔のように見えなかった。
おぞましい姿に身震いしたが、先ほどまであった重い気配は感じられない。孔蔵は槍を構えたまま、じりじりと鬼の体に歩み寄った。
「雉庵」
凶鬼の向こうで、枝野の声がした。
娘は壊れた土の上で体を起こそうとしていた舎雉鬼に駆け寄り、傷付いた鬼が立ち上がるのを手伝った。
舎雉鬼の体に不思議と外傷のようなものは見えないが、こちらも先ほどまで纏っていた気配を霞のように薄れさせていた。
枝野の肩を借りながら、それでも舎雉鬼は立ち上がると、倒れている凶鬼の顔を見つめた。
『……撫斬の面から、左目を持っていけ。
それは孔蔵に向けた言葉だろう。そう言った舎雉鬼の声は穏やかだったが、そよ風のように細く、消え入りそうだった。
枝野が眉を寄せ、肩を支える舎雉鬼の顔を覗き込んだ。
「雉庵、」
舎雉鬼は、小さく首を振った。
『枝野、すまない。
鬼はそう語り切ると、次の間には石になり、そして次には、その石が砂になって崩れた。
砂を掴もうとした枝野の目が見開かれ、目尻から、ゆっくりと涙がこぼれた。
しかし、いつからか地面の上に落ちていた鬼神の面の左半分だけが、腐らずに残っていた。それは変わらず金色であり、瞳の部分には琥珀のような石が嵌め込まれていた。
舎雉鬼は、
孔蔵は面を拾おうとしたが、奇妙なことに、屈みこんで面に手を伸ばすと、どうしてもそれを拾いたくないという気がした。
彼が躊躇していると、
彼らでは面に触れられそうにないということだけがわかり、疲れ切っていた二人は、一度山を下りることにした。
孔蔵は短くなった蛾叉を持ち、涙を拭いた枝野と連れ立って、形を変えた広場を後にした。
山道を下り始めてすぐ、遠く轟く雷の音を聞き、雨が降り始めた。
彼らが平原に入る頃には、雨は土砂降りになっていた。
けぶる雨の中
「凶鬼を倒したのか」
ずぶ濡れの孔蔵と枝野を部屋に迎え入れ、宋十郎が問うた。
宋十郎の目は、折れたようになった
「やりました」
孔蔵は疲れていた。雨が降り出した辺りから突然、足がもつれるほどの疲労を感じ、何とかここまで歩き切った。
乾いた布で顔を拭くと、いくらか人心地がついたように感じた。
溜息を吐きながら、孔蔵は言った。
「凶鬼をやりましたよ。代わりに舎……
㮈吉に手伝われながら顔と髪を拭いていた枝野が言った。
「雉庵は死んじゃいないよ。あっちへ行っただけだと思う」
孔蔵は眉を下げた。
「そうか。すまん」
「ううん。……それより、」
枝野は気にした様子なく首を振ったあと、宋十郎を見た。
「ねえ宋さん、
宋十郎は答える。
「いや、聞いた覚えがないが……凶鬼が何か言っていたのか」
「ううん。雉庵が言ってたんだ。倶佯の力を持つ孔蔵さんの仲間が、あの鬼の仮面から、左目を取り出せるって。凶鬼が残してった仮面、うちらは触れなくて、山に置いてきちゃったんだ」
「倶佯というのが何かわからないが、私の兄は、左の目だけが鬼に憑かれたように色が変わっていた。それと関係あるように思う。私がその面に触れられるかもしれないというなら、拾いに行こう」
彼らは頷き合い、休憩を挟んで再び山に登ることにした。
宿の主人が運んでくれた茶で手の平を温めながら、雨足が弱まるのを待った。
*
正午になると、ぴたりと雨が止んだ。
一休みした孔蔵も体に力が戻って来たのを感じ、枝野と宋十郎と共に、再び宿を出た。
草原を抜け同じ斜面を上り、撫斬を倒した広場へ戻った。
そこでは土が盛り上がり木が倒れており、荒れ果てた光景に宋十郎は驚いていた。しかしそれ以上に、腐れたような臭いが気になるらしく、小さく息を吸ってから、鼻梁に皺を集めた。
「臭う」
侍姿の青年は短く呟くと、足を進めて、広場の中ほどに落ちている凶鬼の面に近付いていった。
「これか」
左半分の鬼神の面の前で、宋十郎は膝を折る。
「そいつです」
孔蔵が答えると、枝野が付け足した。
「うちは触ったら火傷したよ。でもきっと、あんたなら大丈夫」
宋十郎は手を伸ばし、面を取った。
青年の皮膚は爛れることもなく、面を掴んでいる。ほうと、孔蔵は溜息を吐いた。
手にした面を見つめ、宋十郎は唇を開いた。
声は発されない。
しばらくすると、纏わりつくように漂っていた腐臭が消えていることに気付いた。宋十郎が何かの術を使ったのだとわかった。
宋十郎は面の欠片を払い落すと、残った琥珀のような石だけを手の平に乗せた。
枝野が、目を細めてその石を見た。
「それが、あんたの兄ちゃんの目ってこと?」
「凶鬼の言ったことが本当なら、そんなふうに聞こえましたよね」
孔蔵が言うと、宋十郎はうっすらと眉を寄せた。
「人間の目玉のようには見えないが……」
それに応えて、枝野が言った。
「本物の目玉じゃなくて、その力を集めたのがその石なんじゃない。それにしてもその石に憑いてる色、人間のものには見えないんだけど……宋さん、あんたの兄ちゃんが本当に人間なら、厄介なものに憑かれてるね」
枝野の言葉に、宋十郎の眉間の皺はますます深くなった。
宋十郎は小さな石を握りしめると、「行こう」と声低く言った。
*
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