第59話 寝物語が終わったら




 夜明けと同時に、枝野しのが迎えにきた。

 ひやりと冷たい空気と薄闇の中、宋十郎そうじゅうろう昂輝のぶてると並んで、孔蔵くぞうと枝野を送り出した。

 二人の背が遠ざかり、白いもやすすきの向こうに霞むと、彼らは宿の部屋へ戻った。

 再度眠りへ戻ることもできそうにない。部屋でまんじりとしていたところ、昂輝がふと言った。

「昨晩も、陣明じんめいがどこへ行ったのかを考えていた」

 宋十郎は、離れた場所で胡坐をかいている若殿へ目をやった。

「答えは見つかりましたか」

 彼が訊ねると昂輝は眉を寄せ、難しい顔をした。

「……もしやと、まさかと思うことを、思いついた。しかし、根拠も証拠もない」

「お聞かせ願えるでしょうか」

 彼が問うと、昂輝は話し始めた。


 影貫かげぬきは襲名制である。

 自分の子孫を設けてその子に跡を継がせることはできない。影を縫う力のある子供が見い出され、そのうちでも才のある者のみが影貫の名を名乗ることができる。

 かつて帝が陰陽師を用いたように、将軍が影貫を用いた時代があったようである。しかし時が下り将軍が物怪もののけより人を恐れるようになると、影貫は将軍家でなく、その分家に当たる寺本家の家臣のような扱いになった。重用されなくなったのである。

 往時は影貫が忍術集団を抱えていたこともあったそうだが、今の影貫は部下もなく陣明ただ一人である。その陣明も、他の忍の仕事の不足を補うことはあっても、公式に物怪の類を退けたのは、昂輝の父の命の下、ほんの一、二度きりである。

 家を持てない影貫は、働いて一代限りの功を残すほかない。しかし陣明には、その機会すら与えられていない。

 それでも陣明が不服を言ったのを昂輝は見たことがないが、一度だけこう呟いたのを聞いた。

「殿、干物は一尾で間に合うてますて、お父上に仰りまへんの?」

 これは何年か前、昂輝に宛がわれた役職がろくも薄い閑職だった時に、陣明が言ったことだった。陣明は昂輝の不遇を嘆いてくれたわけだが、ここで例えられている一尾目の干物は、陣明自身のことである。

 昂輝は子供の頃から陣明を知っている。普段は飄々としており腰も低いが、陣明は与えられた仕事は隙なく仕上げる。時に一人で二人分の働きをすることもある。

 そんな当代の影貫を、寺本は正しく用いてこなかった。

 挙句、今回起きた夏納かのう飛梁ひばりの暗殺未遂である。飛梁の暗殺について、昂輝は少なくとも正式に命じられた覚えはない。影貫が独走して自ら飛梁暗殺を企んだのでなければ、恐らく影貫に密命を与えたのは昂輝の父であり現在の寺本当主である岳昇たけのぶである。岳昇は飛梁の暗殺という至極の難題を影貫に押し付けた上、失敗しても成就しても寺本家と切り離して影貫を見殺しにする気だったのではないか。

 要は、とうとう不遇に痺れを切らした影貫が主家を見限って出奔したというのが、昂輝の見立てである。

 ろうを連れ出したのは、将軍家や寺本家が抜け忍となった影貫に追手を差し向けた場合に、それらを返り討ちにするためである。陣明は確かに優秀な忍だが、多数の刺客を差し向けられれば無事では済まない。しかし強力な魔物さえそばにあれば、陣明はその魔物の力を我が物として使うことができる。


「しかし私は、陣明を責められん」

 語り終えて最後に、昂輝はぽつりと独り言ちた。

「捨て駒にされてまでその主に尽くせるか? 忠節物語も、主にその徳がなければ寝物語でしかあるまい。美麗字句では飯も食えんだろう」

 宋十郎には、返答が難しい。人の判断に、自分の評価を被せるべきかもわからない。一つ確実なことだけを述べることにした。

「ですが、篭を連れてゆかれては困ります。あれは、私の兄でもある」

 むうと昂輝は唸り、両腕を組んだ。

 宋十郎は続ける。

「それに、それが真実なら、影貫どのが京に向かっているという貴方の見立てはおかしくはありませんか。影貫どのはなぜ京に、追手の群れの中に自ら飛び込むような真似をするのか」

 腕組みしたまま、昂輝は答える。

「恐らく、金ではないか。陣明の財産はわずかなものだが、多少の金を京の屋敷に残しているはずだ。これからしばらく身を隠すなら、先立つものは必要だろう」

「なるほど。では京の影貫どのの屋敷へ先回りすれば、篭も捕まえることができますか」

「そういうことに、なるな」

 昂輝の顔が、渋面に変わった。

「しかし、宋十郎どの。これは私からの頼みだが、もし仮に私の見立てが的を射て、京で陣明を見たとしても、あ奴が京を出るまで、捕らえるのは待ってはもらえんだろうか。これは、汝の連れを寺本の身内争いに巻き込まぬためでもある」

「何を……、貴方は、影貫どのに裏切られたのではありませんか」

 昂輝は、彼の疑問には答えずに先を話した。

「その代わり、待っている間に何か別のことはできんのか。孔蔵どのが、凶鬼まがおにを倒したあとは都にいる術者を訪ねるのだと、教えてくれたのだが」

 宋十郎は迷った。

 篭が、十馬とおまが心配である。死ぬというようなことはありえそうにないが、どこかでまた影に怯えてはいないか、争いに巻き込まれていないか。恐れることも傷つくこともあの体の病をさらに悪くする。

 しかし冷静に考えれば、篭を捕まえて彼の目の前に連れてきたところで、今までそうであったように、彼には何もできないのである。それよりは孔蔵や昂輝が言うように、本人から離れていても先に病のもとを断つことができれば、より理に適っているのではないか。呪いを解けば影貫が篭を操ることはできなくなるはずであり、そうなればこちらから追わずとも、篭は戻ってくるのではないか。

 どうにもおかしい。いつからか彼の中の針もはかりも、振り切れて故障してしまったようである。

 宋十郎は細く息を吐くと、ゆっくりと頷いた。

 それに昂輝と彼の間には、既にいくつかの貸し借りもある。

「承知しました。孔蔵どのが無事戻ったら、まずは術者を探しましょう」

 そして昂輝は、深く頷いた。

「ならばまた、私は道案内を買って出よう。その、術者というのは都のどこの何という者だ」







「魔が差すて、文字通りこういうことを言うんやろなあ」

 突然、影貫が独り言を言った。

 篭は思わず、隣で茶を啜っていた影貫を見た。

 彼らは今し方茶屋に入り、丸一日ぶりの食事を注文したところだった。

 何のことかと思ったが、疲れ果てていた篭の口から言葉は出なかった。

 彼らは一昨日から走り通しだった。

 原因は、一昨日の昼に突然現れた遠夜えんや充國みつくにである。

 充國はあの後も何度か現れては、彼らに襲い掛かってきた。その度に足止めを食らい、昨日は馬まで失った。そのため人里に着く前に日が暮れてしまい野宿する羽目になって、夜明けから歩いてやっと食べ物にありついたというわけである。

 常に追われているという緊張もあるのだろう、篭は随分疲弊していた。

 無言の彼になどお構いなしに、影貫は続けた。

「あの遠夜充國てお方、なんであんさんを殺しにくるんかほんまに心当たりあらへんの?」

 昨日も訊かれた問いだった。篭は、同じことを答えるしかない。

「知らない。深渓みたにを出た時から、ずっと追いかけてくる。前は連れていかれそうになったけど、今は殺そうとしてるみたいだし、わからない」

 そう、太畠うずはたの手前で雨巳に誘い出された時は生け捕りにする気なのかと思っていたが、一昨日からの充國は、本気で彼に危害を加えようとしているように見える。

 十馬の体は傷を負ってもすぐに癒えるが黒く残る。おまけに充國は紫色の炎を放つので、度々それに焼かれた篭の着物は、あっという間に残骸になった。道中で襲い掛かってきた野盗を返り討ちにして追剥ぎしなかったら、今頃彼は黒い肌を隠す着物もなく、町で食事にありつくこともできなかった。

 へえと溜息のようなものを吐いた影貫は、彼の方は見ずに言った。

「あんさん、お名前なんていわはりましたっけ」

 篭は湯飲みを手にしたまま、一瞬ぽかんとした。そういえば、彼らは互いに名乗り合ったこともなかった。

「……篭」

「あんさん、人か獣か、元はなんどすか」

「燕、だった」

「籠原十馬いうんは、どちらさんどすの」

「ええと、おれに……おれが憑いてる、この体が、十馬の体なんだ」

「ははあ。それで、十馬さんのお知り合いの充國さんにはお初にお目にかかりおしたと」

「うん」

「あの首無し鬼は、あんさんの? それとも十馬さんの?」

「……十馬の」

「あんさん、喋る間にお休みしてしまいそうどすなあ」

 体の重さに抗いながら、篭はがくりと首を縦に振った。鬼になりかけていても疲れるのは、まだ辛うじて人である証かもしれない。

 影貫は喋る。

「こうなると、殿が先に京に着かはるやろし、隠れ仕事はできひんかもなあ」

 何のことだろうかと思ったが、篭は訊ねる気になれなかった。誰かを傷付ける、殺すために京に向かっているのだと思うと、萎えている気がますます沈む。

「ま、今日はまったりしましょか。人里出たらまた充國さんがいらはるかもしれへんし、飯食うたら早めに宿入ります?」

 それは名案に思えた。

 疲れているせいだろうか、どうしても憂鬱で、もう前に進みたくなかった。

 充國は、なぜ意味不明なことを叫びながら彼を殺そうとするのだろうか。宋十郎と孔蔵は今頃どうしているだろうか。突然消えてしまった彼を心配しているか、あるいは彼の勝手に怒っているのではないか。

 疲れ果てて歩けなくなったら、彼はどうなるのだろうか。十馬が代わりに歩くのか、影貫に操られて京まで行くことになるのだろうか。

 そんなことに思考を浪費していたら、目の前に煮物の皿が置かれた。

 食欲は辛うじて残っている。しかしこれも影喰いとやらの仕業なのかと思うと、その残った食欲すらも失せてしまいそうだった。







 孔蔵は枝野しのの背を見ながら、山道を進んでいる。

 枝野は矢筒を背負っており、弓を手にしていた。

 彼らは村を出て平原を抜け、林に覆われた山を登った。

雉庵ちあんの塚は、この先か」

 草を踏みながら孔蔵は訊ね、枝野が答える。

「うん。塚があるのは湖のほとりって言われてるみたいだけど、実際には山の中にあるんだよね。湖の近くは地形も変わるし、何代目かの巫女が塚を移したのかもしれないけど」

「まあ、噂と事実が違ってるってのは、よくあることだよな」

 お喋りついでに、孔蔵はふと訊ねる。

「枝野さんが次の巫女だとして、雉庵は歴代の巫女を守ってきたってことか」

「そうなんじゃないかな。うちも何度か助けてもらったし」

「雉庵は、惚れた女の子孫しそんを守ってるってことだよな。でも、巫女に子孫がいるってことは、最初の巫女は結局別の男と結ばれたってことだよな。なんつうか、やるせないなあ」

 それを聞いて枝野は首を傾げた。

「確かに、そうかもね。……なんでだろ、考えたことなかった」

「その、枝野さんは、雉庵のことどう思ってるんだ」

「どうって?」

「なんつうか、いいなと思ったりしたことないのか」

「ええ?」

 枝野は明らかに戸惑った声をあげた。

「そんなの、わかんないよ。だって雉庵は鬼だよ。うちが初めて見た時から年も取らなくて姿も変わらないし、いつも会えるわけじゃないし、そんなふうに考えたことないよ。それに雉庵が好きだったのは最初の巫女で、先代とかうちを守ってくれるのは、その子供だからじゃないの。そういうのじゃないでしょ」

 ほうと孔蔵は頷く。枝野は言った。

「あんた、これから鬼退治に行くってのに暢気な坊さんだね」

 言われてみればそうだ。

 凶鬼まがおには強敵のはずで、このあと死闘が始まらないとも限らないのに、なぜだろうか、緊迫感も不安も感じられない。

 柳坂やなざかでの晩、凶鬼の名を十馬から聞かされた時は、まるで毒水を飲まされたようにぞっとした。それが今は、例えば寺の講堂の拭き掃除であるとか、決まりきった仕事をする前のように坦々としている。

 持てるものを全て振り絞ってやり切るしかない、その先は御仏のみぞ知る。言うなれば今の彼は、そんな気分である。

 思えば今まで、こんな気分になったことはなかった。そもそも、そんな大仕事を任されたこともなかった。

 なぜこんなに落ち着いているのだろうか。もしかしたら手元にある蛾叉がしゃが、彼に不思議な力を与えているのだろうか。それとも宋十郎が今度こそ真実を明かし、本当に彼を信頼してくれたという自信があるからだろうか。

「いやあ、俺自身、もっとびびってないとおかしいと思うんだけどなあ」

 はははと彼が笑うと、枝野は眉を上げた。

「面白い人だねえ。孔蔵さん、あんた、確かにすごく強い色を持ってるね。緊張とか不安があったとしても、別のもんに変わってるのかな。凶鬼はあんたのことも、嫌いそう」

「はっは、そりゃあいい。あんな奴に好かれたくねえからな」

 笑いつつ歩いているうち、彼は坂が緩やかになったことに気付いた。

 やがて地面は平坦になり、彼らは木々の少ない広場のような場所に出た。

 背の高い草が風に靡く野原の中央に、小さな墓石のようなものが見える。あれが舎雉鬼しゃじきの塚だろう。

 草の中に踏み入り、塚を過ぎて野原の端に立つ。先の視界に遮るものはなく、眼下には青灰色の大湖と平野が広がっていた。

 思わずその景色に目を奪われ、孔蔵は足を止めた。

 その時強い風が吹き、背後で枝野があっと呟く声が聞こえた。

 ふと重い気配を感じ、孔蔵は振り返った。

 林へ続く草原の中に、隻腕せきわんの男が立っていた。

 男は灰色の皮膚をし、額から頭頂にかけて、棘のような角が並んでいる。筋骨隆々とした体躯は、しかしながら孔蔵よりは小さい。右腕が肩から欠けており、瞳は茫洋とした湖のような色をしていた。

 舎雉鬼だろう。しかし不思議と、その外貌と発する気配の重さにも関わらず、鬼よりは人のように、孔蔵には見えた。

「雉庵」

 枝野が言い、鬼に歩み寄った。

「昨日㮈吉だいきちの家に、この坊さんたちが訪ねてきたの。あんたが言ってたのって、この人たちでしょ。この人たち、あいつ、南の山の鬼を退治したいんだって」

 つと、舎雉鬼の目が孔蔵を捕らえた。気配はあるのに、視線を感じさせない。岩か何かのような鬼である。

『蛾叉か』

 雷が静かに転がるような音だった。

 なぜか孔蔵はその音を聞いて、この鬼がかつてはとても強力な魔物だったことを感じた。人の大きさをしているのは、水神に力を削がれて半ば封印されているためだろう。

「蛾叉って、孔蔵さんの槍でしょ。ねえ、今日こそあいつを倒すんだよね。あいつを眠らせよう。もうあいつに、あんたを馬鹿にさせたりしない」

 静かな青灰色の瞳が、刹那、炎を照り返したように光を滲ませた。

 どろどろと、遠くで雷がとどろく。

 気付けば、天には重く雲が垂れこめている。夜が明けたのに、空は夜明け前の暗さの中にある。

『枝野、お前を戦わせたくない』

 鬼が言う。

『……だが、お前の弓が必要だ』

 枝野の茶色の目が舎雉鬼を強く見つめ、うんと、枝野は頷いた。

 舎雉鬼は次に孔蔵の方を向くと、言った。

『あいつは、呼ばれることをわかって手ぐすね引いて待っている。あいつは、お前の友人のものを奪って預かっているだろう。名を呼んでやれ。お前が思い切り罵ってやれば、あいつは現れる』

 実は、孔蔵にはそんな気がしていた。

 あの鬼の名はそれだけで鬼と繋がる呪文のようなものだろう。

 肚は決まっている。

「罵ってやればか」

 孔蔵は唇を舐め、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

『覚悟はいいか』

 舎雉鬼の言葉は枝野か彼、どちらに向けたものだろうか。

 昏い空に向かって、孔蔵は声を張り上げた。

撫斬なでぎりよおおおおお、卑怯者、しみったれの糞野郎、潰してやるからこっち来な!」

 枝野が目を見開いた、のが早いか、

『よう』

 瞬時に空気が切り取られ、そこに巨大なものが現れた。




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